俺の声 5
KENTは階段ホールの前のスペースにパイプ椅子を置くと、L1を手に取ってから腰かけた。
満員の客はKENTの方に向き直り、始まるのを静かに待っている。…KENTが語りはじめた。
「こんばんは、KENTです。…今夜、というか俺がここでライブをやる予定はなかったんですが、どういうわけかSNS上にそんな話が流れちゃってて…。俺のステージを待っていてくれることは、すごく嬉しいことなんだけど」
客席からは拍手が鳴り、スマホのフラッシュがあちこちで光った。
「ただひとつ、これから俺が唄う前に、みんなに約束してほしいことがある。…実は俺、ある事情で行方をくらませているって状況なんだ。だからさっきお客さんにSNSのこと聞いて愕然とした。…俺が知らないだけで、俺の情報は世間に筒抜けになってた。…これ以上発信や拡散されたら、俺はマジでやばくなる。この店にも、マスターの黒さんにも迷惑かけることになる。このステージがはじまる前に、お客さんの中でSNSに発信した人は削除してほしいし、今夜のこと今後のことも発信しないでほしい。…約束してくれるかな」
KENTが言うと何人かの客がスマホを操作しだした。黒崎の前のOLも同様にスマホをいじっている。
「ありがとう、それじゃあやらせてもらいます」
KENTはゆっくりしたテンポでストロークを鳴らす、そしてしゃがれ声でハミングをはじめた。
オープニングMCでの緊迫した空気が功を奏したのか、KENTとオーディエンスが一体となり、熱い時間が流れた。
今年の冬はまだ始まったばかりだというのに、異常に寒い。客が去ったフロアーで、黒崎とKENTは反射式ストーブを囲むように熱燗をちびちびやっていた。
ストーブの上に湯を張った鍋を置き、徳利で燗をつけているのだ。
『タタンタンタタン、タタンタンタタン』妙な調子で黒いドアがノックされた。KENTはギクリと背筋を伸ばして身構えた。様子を見た黒崎が笑いながら言った。
「キミエだよ、このノックは」
ドアが開くと、小柄で顔の丸い女が入ってきた。女はスーパーの店員のような制服姿で、両手に買い物袋を提げている。
「マコっちゃーん、久しぶり!」
キミエはそう言いながら、袋から食材を出してカウンターに並べた。
「今日は特売の牛肉が残ってたから、そうだ!マコっちゃんにすき焼きを食わせてやろうと思ってさ。…どうせさきイカとか落花生ばっか食ってるんだろ」
キミエはそう言うと、小柄な身体を揺すって笑った。黒崎のそばにいるKENTにようやく気付く。目が合ったKENTは、こんばんは…と頭を下げた。
「俺の同級生のキミエ、たまにこんな感じでやってくる」
黒崎はぼそぼそと言った。
「こんばんは。お兄ちゃんも瘦せてるねえ。今夜はおばちゃんがすき焼き作ってやるから、一緒に食べな」
キミエを見ながら苦笑した黒崎は、
「上の部屋、あっためてくるわ」
と、腰を上げた。
「黒さんの同級生なんですか?」
KENTが聞くと、
「そうだよ、中学からだから、もう30年近いよ」
と言って、豪快な笑い声を上げた。
KENTがペントハウスに入るのは初めてだった。居間のような部屋にはコタツが出ていて、周りに古風な茶箪笥や木の火鉢などがあった。まるで昭和時代の茶の間といった感じで、意外な気がした。
そして、コタツでぼんやりタバコをふかしている黒崎と、キッチンですき焼きの下ごしらえをしているキミエが夫婦のように見えた。
「なんか黒さんの意外な一面を見た気がします。…なんとなくキミエさんと夫婦みたいに見えますよ」
KENTがそう言うと、黒崎は笑いながらタバコをくゆらせ、
「夫婦な。…俺みてえな放蕩野郎は、家庭なんて持つべきじゃねえのさ」
と言いながら、キッチンに目をやった。
「マコっちゃん、カセットコンロ出して」
キミエの声に黒崎は立ち上がると、どこからかコンロを持ってきて火を点けた。
「さあさあ」
キミエはすき焼き鍋と肉や野菜を持ってきて、コタツの上で調理をはじめる。
「お兄ちゃん、小鉢と冷蔵庫から卵持ってきてえ」
KENTは、はい…と答えてそそくさと立ち上がり、冷蔵庫を開けた。中はキミエが持ってきた食材以外には、ビールと数種類のチーズや、よくわからない珍味みたいなもの、あとはコンビーフぐらいしかなかった。
「それじゃあ、いただきまーす!」
キミエだけが元気な声で言った。
KENTはすき焼きに手を伸ばし、卵につけて食べた。考えてみればまともな食事をしたのは久しぶりだった。腹の底、心の底から美味いと思った。
目の前に熱燗を飲みながら、談笑している黒崎とキミエの姿が湯気越しに見える。ふたりとも少年少女のような顔で笑っていた。
その様子を見ながら肉をほおばっていると、胸がつまってくる。鍋をつついている自分がふたりの息子のように思えてきて、この3人が家族のように思えてきて、熱燗を啜っている頬にいつの間にか涙がつたっていた。