破れたハートを売り物に 7 ― 完 ―
――黄色い満月の光の下、コート姿のシルエットがあった。いつの間に近づいていたのか気配は感じなかった。微動だにしない亜紀とロングコートのそばまで来ると、佐奈の病室で遭った新津という刑事だとわかった。新津はロングコートと向き合うように立つと言った。
「3件の殺人未遂容疑で逮捕する、……お前は末永由希子で間違いないな」
その名を聞いた瞬間、亜紀は愕然となった。(末永由希子って、末永先生? ……まさか!)
新津はロングコートのバケットハットを跳ね上げ、黒いマスクを剥ぎ取った。露わになったロングコートの顔は紛れもなく末永だった。亜紀は目の前に起こっている出来事を受け入れられない。(どうして、なんで末永先生が……)
だが末永の表情は学校で見る時のそれとは別人のように違い、血走った目で新津を睨みつけている。優雅で上品な微笑みを見せていた雰囲気は微塵もない。
「末永由希子、お前は先月、○○神社の境内で高校1年生の上野由香利を襲い、腰部二箇所を凶器で刺した。そして3日前、同じく高校1年生の竹下佐奈を○○公園で襲い、背中を同様の凶器で刺した。……また先月、○○公園近くの雑居ビルの屋上から、中学3年生の森田美緒を突き落とした。間違いないな」
末永は聞き終わると新津から視線をそらした。ふーっとため息を吐いたあと宙に目を漂わせ、まるで痴呆のような顔つきをした。だがそれは次第に薄ら笑いに変わり、くっくっと笑い出す。
亜紀は左腕に刺さったアイスピックを引き抜き、苦痛に顔をしかめた。
「先生! いったいどういうこと! ……佐奈だけじゃなく3組の由香利まで。……あんた、狂ってんじゃないの!」
左腕を押さえながら亜紀は問い詰めた。
末永の口元から笑いが消える、亜紀をギロリと睨みつけると、今まで聞いたことのない低い声で語りだした。
「うるさいね、ガキが。……私は中学生の頃、教育者になろうと決意した。私の周りは自分さえ良ければ他人が傷つこうと苦しもうとどうでもいいと考え、くだらない問題を起こすクズどもばかりだった。そういうバカやクズを世の中に出さないために一流の教育者になろうとこの道を選んだ。
……私は今まで誠心誠意がんばってきた、教師になってからも若者の意識改革を進めるために、いろんな勉強をして、そして学校で実践してきた。……だけどそれは悉く空回りした、結局は自分の独りよがりでしかなかった。この学校にもバカやクズはいて、それは減ることもなかった。
もう教師なんて辞めようと決めた時、上野や竹下と接触した。あいつらは体裁だけはよいが裏で悪いことをしているのを知っていた。私はその度に注意した、だがやつらは私をなめていた。
厚いメイクをして学校に来るなと言うと、『はい』と答えておきながら、わざわざ私から見えるところに来て堂々とメイクをしていた。それを見た時に私は逆上した。……痛い目に遭わせないと私の精神の方が崩壊すると」
末永は黒いスラックスの裾をまくるとブーツを脱いで裸足になった、途端に背が縮んだように小さくなる。シークレットブーツを履いていたようだ。そのまま参道の砂利の上に座り込む。
「……森田を突き落としたビルの4階で、私の母親がヨガ教室をやっている。森田も会員になっていてよく来ていたが、あいつは精神状態が不安定でヨガ教室のトイレでリストカットしたり、私の母親に『死にたい死にたい』と喚いて迷惑をかけていた。
あの日、私がヨガ教室に行ってみるとやはり情緒不安定になっていて、『屋上から飛び降りて死ぬ』と言って上に登っていった。私が行ってみると森田は手すりが切れた場所でぼんやりしていた、私がついて着たのが想定外だったのかバツの悪そうな顔をした。やはり最初から死ぬつもりなんてなかったようだった、周りに構ってほしいだけで騒いでいたようだ。
『どうした? 早く飛び降りれば?』と言うと、手すりにしがみつき『本気にしないで!』と言った。私は猛烈に腹が立ってきた、さんざん心配や迷惑をかけておいて、いざとなったら冗談のように済まそうとしたことに本気で腹が立って、手すりから手を外して突き落としてやった。
結局命拾いをしたが、あんな人騒がせなクズガキは死ねばよかったんだ!」
そこまで話し終わると末永は荒い息を吐きはじめ、うーっうーっ、と呻きだす。
亜紀は言葉を失った、末永の目はすでに常人ではなくなっている。なにかに憑依されたように虚空を見つめて、ただうわ言のような呻き声を上げている。もはやなにか言ったところで耳には入らないだろう。
……あんなに美しくチャーミングだった顔は悪霊に憑りつかれたように歪み、半ばに開いた口から涎を垂れ流している。
新津は末永のもとにしゃがみ込むと、裂けて血が滲んだ左腕に自分のハンカチを巻き、ブーツを拾って履かせてやる。
その横顔を見た亜紀は、ハッとした。その目は憎むべき容疑者に向けられるものではなく、深い悲しみと慈しみをたたえた目だった。
末永は座ったまま泣き出した、子どものように泣き喚いた。それは彼女が強い意志と計り知れない忍耐を貫いてきた長期の日々の終わりの合図なのかもしれない。
新津は泣き止むのを待つ、黙ったまま静かに待っている。その姿は父親と幼い子どものように見えた。そして、しゃくりあげる末永の肩と背中をさすってやると、無言で立たせる。
参道の入り口の鳥居に回転する赤い灯りが反射している、黄色い満月の光がその父子のようなふたりを照らして、黒い影を作っていた。
― 完 ―




