破れたハートを売り物に 6
――亜紀のスマホが鳴った、カウンターから取り上げて画面を見る、佐奈からだった。
「亜紀、あたし思い出したことがあるんだ」
いきなりそう言ってきた、すぐにでもと思って電話してきたに違いない、亜紀は聞いた。
「それは事件のこと?」
「そう、刺された時は恐怖で頭が真っ白になっちゃってたから忘れてたんだけど、……犯人は刺したあとあたしを倒そうと体で押してきたんだよね、その時なにか匂いがしたんだ。なんの匂いだったのか説明できないんだけど、普段は嗅いだことのない感じの……」
「普段嗅いだことない……、それはいい匂いなの? それともくさいとか不快に思う匂い?」
「うーん、決して不快な匂いじゃないな、どっちかというと安らぎとか懐かしさを感じるような」
「安らぎや懐かしさを感じるねー……」
カウンター内で聞いていた黒崎が顔を上げて亜紀に言った。
「それは『香』じゃねえか? お香というやつだ、線香の一種の」
なるほど、と感じた亜紀は佐奈に聞く。
「まこっさんが、お香の匂いじゃないかって」
「お香……、そういえば昔、お寺に行った時に嗅いだ匂いに似てる気がする。そうか、それで安らぎを感じたのか」
電話を切ると壁時計は23時を示していたが、亜紀は佐奈の病室へ行くと言って店を出た。黒崎は明日にしろ、と言ったが我慢できなかった。
黄色い満月を見上げながら中央通りに出ると、左に曲がり南へと向かっていく、ビルの下に停めておいた自転車は、どういうわけか前後輪とも空気がなかった。
オレンジ色の照明が点いたアンダーパスを歩いていると、向こうからダークカラーのロングコートに深いバケットハットをかぶった人物がこちらに向かってきた。
亜紀は歩道の端側を歩きすれ違う、だが少し間を置いてからかすかな匂いがしてきた。それはまさに先ほど言っていたお香のようだった。そう感じた途端、背筋に悪寒が這い上がり心拍が早くなってくる。だがそのままアンダーパスを通過した。
意を決して立ち止まるとさりげなく振り向いてみる、先ほどのロングコートが向きを変えて後ろをついてくるのがわかった。
その姿を見て亜紀は肚が決まった、(あのロングコートが佐奈を襲った人間だとすれば、かたきを討つ絶好のチャンスじゃんか、やるしかないよな)、それはたぶん憧れの凄子からもらったバタフライナイフが手中にあること、それと、『極意なんてねえ、実戦あるのみ、経験と勘』、その言葉が亜紀を奮い立たせた。唇はなぜか黒崎のようにゆがんでくる。
亜紀はポケットの中でナイフを弄びながら住宅地の歩道を進んでいく、背後には変わらず硬い足音がかすかに聞こえている。(たしかこの先に神社があったはず、そこまでロングコートがついて着たら間違いないな、……おびき寄せてやろう)
やがて神社の参道入り口が右側に見えた、さりげなくそのコンクリートの鳥居をくぐるとチラリと目をくれてみる、茫洋とした感じで歩いているが着実に亜紀を追っているようだ。
砂利が敷き詰められた参道の50メートルほど先に社殿がある、そこにはポツンと外灯が見えたがそこまでは月の明かりだけだ。歩調を変えずに進んでいるが、後方の砂利を踏む足音には神経を尖らせる。
社殿まであと少しというところで、亜紀は覚悟を決めて足を止めるとおもむろに振り向いた。ロングコートも足を止める、距離は5メートルぐらいか、思いのほか近づいていた。
「佐奈を襲ったの、あんただよね? いったい何の理由があって刺したの?」
亜紀より少し背の高いロングコートはなにも言わずに立ち尽くしている。襟を立てたロングコートにバケットハット、口元は黒いマスクなので人相はまったく不明だ。
「黙ってるってことは、あんたが犯人て証拠だよね? ならあたしは佐奈のかたきを討たせてもらうから」
そう言うと亜紀はポケットからバタフライナイフを取り出すと、くるくる回転させながらシャキーンと刃をむき出しにした、練習してからはじめて成功した瞬間だった。
ロングコートは少したじろいだように見えたが、すぐにポケットから右手を出した。黒い革の手袋に長いアイスピックが握られている。亜紀は佐奈を襲った凶器を間近で見た途端、怒りの火が点いた。(あんな長く細いもので刺されて、佐奈は痛かっただろうな、……許せない)、この野郎! と、飛びかかっていく。月光を受けた刃は白く光り、ヒュッと空気を裂いた、ロングコートは構えの姿勢からうしろに避けた、だが亜紀の一閃はコートの合わせ目あたりを掠めて、スパッと切れた。切れ味は最高のようだ。
すぐにアイスピックが突き出された、身体を右へ捻って躱す、すぐに次の突きがくる、その動きは早い。亜紀は後じさりながら避けるのに精一杯だ、体勢を整えようとした時、ロングコートの右脚が飛んできた、ふくらはぎにヒットする、痛っ! と、思うが止まる間もなくまた突きがきた、のけ反るがダウンジャンパーの腹あたりに刺さる、が、先端は身体までは達しない。
隙を狙ってナイフを振り下ろした、アイスピックが握られた袖を切り裂いたが手ごたえはない。……一度身体が離れる、そして向き合う、亜紀は肩で息をしているが相手の様子はわからない、互いの間の空気はピンと張りつめてくる、ペグが弦を巻き上げるようにそれはどんどん張力が増す、限界を超えて破断する寸前をお互いは意識している。
そして弾けると同時に身体が交叉した、亜紀の刃はロングコートの左腕の肉を裂き、亜紀の左腕にはアイスピックが突き立っている。……耐え難い激痛だがそれはロングコートも同じだろうと思った。いや、凶器を左腕の肉が奪った分、亜紀の方が圧倒的に有利だろう。
振り返り、構えようとした瞬間、
「それまでだっ!」
鋭い怒声が参道から聞こえてきた。




