破れたハートを売り物に 3
――翌日の昼間、亜紀は佐奈が入院した病院へ自転車を走らせている、首に巻いたマフラーと両手の毛糸の手袋は、昨夜佐奈が持っていた亜紀への誕生日プレゼントだった。
佐奈が襲われた公園と近い場所に病院はある、昨夜は電話してから5分も待たずに救急車が来たことを思い出した。ナースステーションで佐奈の部屋を聞いて廊下を歩きながら、佐奈の状態を心配した。
失礼します、と言って部屋に入ると佐奈はベッドの背もたれを少しだけ起こしているのが見えた。(ああ、良かった! 意識が戻っている……)、佐奈の傍らに白髪頭の男の姿が見えた。
佐奈と男性が同時に亜紀を見る。(……佐奈のおじいちゃんかな?)、そう思いながら入っていくと、男性は、それじゃあ、と言って亜紀に会釈すると出て行く。左手にベージュのコートを携えていた。
見送りながら亜紀は、男性の雰囲気が普通の人と違っていると思った、穏やかそうな見た目だが妙に目つきが鋭い。そして出ていく後ろ姿に微塵の隙もなかった。
佐奈は頭に包帯を巻いていた、救急隊員が佐奈を起こした時に見た血まみれの額が脳裏に焼き付いている。
しばらく見つめあうとお互いに涙があふれ出す、佐奈は『ありがとう』と、亜紀は『ごめんね』という言葉が同時に出る。
「亜紀、ありがとう。……亜紀が来て救急車を呼んでくれなかったら、あたし死んでたかもしれない。ほんとにありがとう」
「そんなこと、……あたしが約束の時間に公園に着いてたら佐奈は襲われなかった。だからほんとにごめんなさい」
亜紀はこうして普通に話せることが嬉しかった、ここに向かっている間、(意識が戻っていなくてまだ昏睡状態だったらどうしよう……)と、ドキドキしていた。頭の包帯は痛々しいが顔色は悪くなさそうだ。
「背中、どんな感じ? ……どんな感じって聞くのも変だけど」
「お医者さんから聞いたと思うけど、すごく細くて尖った凶器で刺されたらしいんだけど、コートの上からだったから深くなくて良かったみたい。……今は麻酔が効いててあまりなにも感じないんだ」
「そう……、とにかく命に別条がなくて良かった! ……ところでどんなヤツが刺したのか憶えてないの?」
「……うん、さっき居た刑事さんにも話したんだけど、黒くて長いダウンコートでフードをかぶってて、黒いマスクを着けてた、身長は160センチから170センチの間、たぶん瘦せ型だったってことぐらいかな」
「さっきの人、刑事だったんだ。……最初佐奈のおじいちゃんかなと思ったんだけど、愛想はないし目つきが恐いからおかしいと思った」
佐奈は、あはは、と笑った。亜紀は安心したが頭の中では犯人への憎悪が沸々と沸いてきている。
「佐奈の知ってる人に心当たりはないの? ……そもそも犯人は男?女?」
だんだん怒りの表情に変わっていく亜紀を見て、佐奈は天井を見つめて考える顔をした。
「変装とまでじゃないけど顔と身体の特徴を隠してたからね、やっぱわかんない。知ってる人じゃないと思うんだけど。……知ってる人って思いたくないよね。……小柄で痩せた男かもしれないし女かもしれないし、わかんない。ただ刺されたあとぶつかってきたんだけど、たくましい感じはしなかった」
佐奈は少し申し訳なさそうな顔になったので聞くのはやめた、一番つらいのは佐奈だからだ。
「……これ、ありがとう! 佐奈の手作り?」
亜紀はマフラーと手袋を見せるようにして言った。
「気に入ってくれた? ありがとう。……あたし編み物が好きだからそれにしたんだけど、今回は特に気合を入れて作ったよ」
「気に入ったよ! 佐奈は編み物上手だからなー。……ねえ、これサバトラ?」
マフラーには猫の刺繡が施してある、それも見事なものだった。
「うん、亜紀は猫が好きって言ってたから」
「実はね、こないだからこれそっくりのサバトラ猫飼ってるんだ。すごい偶然でしょ! ……自分ちじゃなくて第二の家みたいなとこに住んでるんだけど。……佐奈が退院したら見せてあげるよ」
ふたりはしばらく話していたが、看護師が検査だというので亜紀は病院をあとにした。
自転車を漕いで駅の方へ向かう、アンダーパスをくぐると善光寺口へ出た。駅前から東側の狭い通りに入り、あたりを見回す。その辺だけは妙に街並みが古い。(話だとこのあたり、古いビル古いビル……、あった、あれだな)亜紀は4階建ての古いビルの入り口に自転車を停め、暗い通路の奥のエレベーターに乗った。
……エレベーターは苛立つほど遅かった、中に飲み屋や猥褻な店のチラシがベタベタ貼ってある。やっと4階に着くと、チーン、というレトロな音がして、これまた遅い扉を出た。目の前には殺風景な鉄ドアがひとつあるだけだ。ブザーを鳴らすとしばらくしてドアの向こうに、誰だ、と不機嫌な声がした。
「あ、あたし亜紀です。急に来てすみません」
しばし待ってようやくドアが開くと、ストライプのパジャマ姿の凄子が眠そうに立っている。あくびをすると涙目で言った。
「おう、お前か。……まあ入れや」
凄子は大きく伸びをしながらあまり豪華とは言えないソファーに座ると、セブンスターに火を点ける。向かいに亜紀が座った。
「なんだ、コーヒーか? インスタントしかねえけど。……昨日は、つうか明け方まで飲んじまってな。さっき起きたとこだ」
凄子はもう一度大口を開けてあくびをする、亜紀は姿勢を正して両手を膝に置いてから言った。
「いえ、コーヒーはいいです。……あの、凄子さんにお願いがあって来ました。あたしにケンカを、戦い方を教えてください」
「……ケンカだと?」
ガラスの灰皿に灰を落としながら、凄子は不可解な顔をした。




