となりの町のお嬢さん 9
「いらっしゃいませー」
黒いドアを開けると、若い女の快活そうな声がした。それに煮物のようないい匂いもしている。カウンター内の隅にやはり若い女がいた。
茶髪のポニーテール、整った顔立ちだがちょっと吊り気味の目が、不良娘っぽく見えた。青いエプロンの下はざっくりしたセーターで、腕まくりをしている。横目で見つめてくると、
「あんたが健太?」
いきなり呼び捨てにされた小堀は気圧されたまま、そう、と答える。しかしどう見ても自分より年下だと思った。
「まこっさんに、健太というヤツが来ると思うから、帰るまで相手しといてって言われた」
ずけずけした言いぐさで、サバサバした性格のようだが悪い気はしなかった。
「あ、あたし亜紀、高1。亜紀って呼んでいいよ、よろしくね」
そう言うとまたカウンターの隅に行った、いい匂いはそこから発しているらしい。小堀はギターケースを立てかけてスツールに腰かけた。(…高1でこの貫禄、いったいどんな娘だ)
「ねえ、健太。なんか飲む?」
亜紀は鍋から顔を上げて聞いてきた。
「うーん、マスターが帰ってくるまで待とうかな」
「あっそ、…みんな黒さんて呼んでるよ。あたしはまこっさん、オカンはまこっちゃん」
そう言って亜紀が笑っている。(…マスターはやめて黒さんと呼んだら、という意味だろう。この娘はマスターとどういう関係なんだろう)
頬杖をついてぼんやりしていると、黒崎が帰ってきた。ネクタイはしていないが、黒い礼服姿だ。
「よう、やっぱり今日も来たか」
くわえタバコで両手に紙袋を提げている、カウンターから出てきた亜紀がそれを受け取る。小堀の右となりに座ると、
「お前のデビュー戦、決まったぞ。来週の土曜の夜だ」
「え!あと1週間しかないじゃないですか。…大丈夫かなー」
小堀が頭を抱えていると、ドンッとジョッキの生ビールが置かれた。
「じゃあ、あたしも見に行こうかなー」
亜紀が興味津々といった目で見つめてきた、その顔は子どものようだ。
「亜紀、ラジオをつけてくれ」
黒崎が言うと、酒棚のとなりの古いラジオのスイッチを入れた。(…そういえば初めてここに来た時に、このラジオが鳴っていた気がする)
黒崎は生ビールに口をつけながら、なぜか神妙な顔で耳を傾けているようだ。番組内容ではなくラジオが出している『音』そのものに意識がいっている感じがした。
小堀の前に、今度は鉢が出された。湯気を上げているおでんだ。いい匂いが気になっていたが、見るからに美味そうだ。
「これ、君が作ったの?…マジ美味そうだ」
「そうだよ、…あんた、照れないで亜紀って呼べば?…たくさん作ったからたくさん食べな」
聞いていた黒崎が箸を割りながら、ガラガラと笑った。亜紀の言いぐさはまるで気の強い母親のようだった。
小堀も箸を割って手をつける、予想以上に美味い。最近は実家にも行かず食事もテキトーなので、最高のごちそうだ。
「ところでセットリストは決めたか」
黒崎は空になったジョッキを亜紀に渡しながら聞いてきた。
小堀は昨日、アコデーというジョイント企画で3曲やることになるだろうと、カラサワから聞いていた。
「はい、それでせっかくバンド編成でやるので、それに合った曲を考えましたけど、カラサワさんとミワさんに相談しなくて大丈夫ですか?」
「ヤツらには前日に言っても大丈夫なぐらいだ。スタジオミュージシャンもやってるヤツらだ」
黒崎は事もなげに言うと、壁からL1を降ろし、
「じゃあ音合わせしてみるか」
と、チューニングをはじめる。…小堀は亜紀の手前、ちょっと躊躇いの表情をした。察知した亜紀は、
「当日は大勢の前でやるんだぞ、恥ずかしがっててどうする!」
と、発破をかけてきた。
ケースからギターを出して歌いはじめると、すぐに躊躇いは飛んだ。そして小堀の脳裏には終始、みゆきの笑顔が浮かんでいた。
23時にアパートの部屋に帰ってきた、冷たいベッドに座るとショートメールを開く。やり取りした4通の文章の下に、『夜分おそくにすみません、ライブの日程が決まりました。来週の土曜日の夜です。くわしい時間はまだわかりませんが、もし来てもらえたら嬉しいです』と、打ち込む。
発信するとすぐに返信が来た、『こんばんは、おつかれさまです。わかりました、明日スケジュール確認してお返事しますね。…行きたいと思ってますよー』
またドキドキしてくる、最後の12文字が嬉しくて何度も読み返した。
翌日の朝礼は長かった。普段はいない安全担当部が来て、田上の横転事故について延々と説明し、再発防止策についても長々と話した。(こういうことも大事なんだろうけど、肝心なのは個人レベルでどこまで意識が持てるかってことだと思うけどな…)
立ったまま聞いていると、ポケットでスマホが震えた。発表者と周囲に目を配り、そっとスマホを出すと画面を見た。『おはようございます!来週土曜日の夜、大丈夫です。楽しみにしてます!』…小堀はその場で叫びたくなった。そして心は歓喜一色に染まる。
みゆきのことを考え続けていたら、肩を叩かれた。…気が付くと朝礼は終わっていて、小堀ひとりが立っていた。肩を叩いた課長が訝しげな顔で去っていく。
…それからの日々、小堀は定時に仕事を終えると市街地に向かい、ふきだまり近くのラブホ地下の貸しスタジオで3時間ひとりリハーサルをして、帰りにふきだまりに寄って少し飲んで帰るということを繰り返した。
「健太の声ガラガラで、なんか鍛えた声って感じ。…その声には惚れるかも」
亜紀がうっとりした顔で言った、黒崎は笑っている。




