最後の約束 4 ― 完 ―
『ほこり舞う 白い道のかなた 季節がひとつ 終っただけさ』
ターンテーブルから針が戻ると木原は目を開け、昔を振り返るようなまなざしをした。そして一升瓶の酒を注ぐとひと息で干す。大きく息を吐いた。
その時カウベルが鳴り、振り向くと紀美江が立っていた。(紀美江…!)、木原はもう会うこともないだろうと思っていたので、思わずスツールから立ち上がる。紀美江は昨日と打って変わって木原の目をじっと見つめる。
「たっちゃん、昨日はいきなりだったから取り乱してごめん。今日はあなたと話すために来たの…」
木原の下の名は、達治という、たっちゃん、という呼び名は結婚していた頃のものだった。
紀美江は木原の右側のスツールに腰を下ろすと、木原に体を向けて膝に手を置いた。…黒崎はフェイドアウトするように階段ホールに消える。
紀美江は気持ちを落ち着かせるためか、大きく深呼吸すると話しはじめた。
「…たっちゃんはあの事件を起こしてから今日まで、ずっと口を閉ざしたまま、あたしに何も教えてくれなかった。面会に行った時もそう、あたしにとって肝心なことは一切話してくれなかった。…だから今日は真実を話してほしいの」
真剣な目は木原から動かなかった。木原は腰を下ろすと紀美江の方を向いた。少しの間逡巡していたが、やがて静かな口調で話しはじめる。
ありのままの真実をひとつの偽りもなく語った。そして最後に、紀美江にも世間にも誤解されていることを知っていても反論も弁明もしなかったのは、なにを言ったところで自分がひとりの人間を殺してしまった事実は変わらないからだと言った。
紀美江は木原が話し終わるとカウンターに突っ伏して泣く、そして嗚咽しながら木原を信じてやることができなかった自分を罵った。
「俺の方こそこの15年間、お前と亜紀に辛い思いをさせたこと、本当に申し訳なかったと思っているよ」
木原は声をしぼり出すように謝った。
紀美江はひとしきり泣くと顔を上げる、そして、
「ねえ、たっちゃん、あたしたちもう一度やり直そうよ」
涙を拭きながら言った。木原にとってそれは思いもよらない言葉だった。心中は、『最後の約束』を聴いた時点ですべてを振り切ってこの街から出ていく覚悟をしていた。
「本気で言ってるのか?こんな俺と…、でも紀美江と…、そして亜紀がそれでもいいと言うなら、俺はやり直したい…」
木原の胸にいつも吹き荒れていた木枯らしは消え、今は温かいなにかが湧いてくるのを感じる。
「そしてもうひとつ、たっちゃんに伝えとくことがあるの」
紀美江は涙を拭いたハンカチを膝に載せると、
「昨日、北信観光バスの専務さんから電話があって、近いうちに一度会社に来てほしいって。…たっちゃんの力をまた借りたいって。…良かったね」
紀美江は泣き笑いの表情になった。…木原は言葉が信じられない、突然訪れたふたつの吉報をかんたんに受け入れることができない。しばらく天井を見上げたまま、
「これは本当は夢なんじゃないかな…」
と呟く。いつの間にか目の前に黒崎が戻っていて、紀美江の前にグラスを置くとウーロン茶を注ぎ、木原のグラスに酒を注ぎ足した。
木原と紀美江はふたりで階段を降りてビルの外へ出た。
「あたし、車を取ってくるからここで待ってて」
紀美江はそう言うと、宵の口の街を駆けていった。木原は白い息を吐きながら、これから紀美江の家に行き、亜紀と15年ぶりに再会することを考えて胸が高鳴っている。
木原の記憶の中では亜紀はまだ1歳のままだ、どんな娘に成長しているのか想像もできない。そして実際に会ったらどんなことを話したらいいのだろうと、戸惑いの気持ちもある。
(しかし、俺みたいな者がこんな幸せな思いをしていいのだろうか…)不意にそんな気持ちになった。
…その時、背後に異質な気配がした。ズボンのポケットに手を突っ込んだまま、木原は振り向く。少し離れたところに黒いジャンパー姿の若者が立っていた。頭部にパーカーのフードを被っていて、その下の目が木原を見ている。束の間、互いに目が合ったまま静止する。
直後、若者は左手でフードを跳ね上げると同時に、ポケットから右手を抜く。街明かりがその手元を白く照らし返す。サバイバルナイフに間違いなかった。
若者の目がカッと見開くと、『がああああ…!』と唸り声を上げ、腰だめにした刃物とともに突進してきた。
何分の一秒かの間に、木原の記憶が目まぐるしく移り変わっていく。若者の目がひとつのシーンで見たそれと一致する。
後輩ガイドの自宅、アルコール依存症の亭主、包丁の白い光、振り抜いた自分の拳、倒れる男、その向こうの襖、半開きになった暗い部屋、そしてそこから見ている幼児の目。
頭ひとつ低い若者の身体が木原に衝突する。…元ボクサーの木原の反射神経なら、躱そうと思えば躱せた。だが動く気はなかった。
「父ちゃんのかたき!…死ね!」
刃物が身体の深部まで到達していることがわかる。若者は力任せにナイフを引き抜くと、もう一度突いてくる。呻き声を上げて抜くと後ろを振り向き、踵を返して駆け出していった。木原の横を誰かがすり抜けていく、昨夜の鋭い目の男だった。
木原の前方の路上が赤くなっていくのが見える、血しぶきが顎に噴き上げているのがわかる。下半身は生温かい雨にでも当たっているようだ。
木原は膝を折ると前倒しになった。周囲に悲鳴と怒号が聞こえ、人が激しく行き交っているようだが、気にはならない。
「…そうだろうよ、これが筋だろう。…因果応報、…当たり前のことだ」
視界が白くなっていく、起美江の顔が浮かんだが、やがてそれも白い靄の中に消えていった。
― 完 ―




