ゴンドラの唄 3 ― 完 ―
右足を上の段に載せると左足を引き上げて同じ段に載せる、そうやって老人は階段を上がっていく。脇に手すりがないので汚れた右手で壁をこすりながら、苦労して3階まで上がると息を切らした。
あ、ああ、と呻きながら膝に手を当てて中腰の姿勢でじっとしていた。…動悸も落ち着き、暗がりに慣れた目を奥にやると、今朝畳んだ毛布の上に、同じように畳んだもう1枚が載っていた。
老人はしばらくそれを眺めていた、そして奥に進むと毛布の上に腰を下ろす。ふきだまりの黒いドアに背を向けた格好だ。そして床の上のバッグから、黒い手帳と老眼鏡、そして小さな懐中電灯を取り出した。
老眼鏡をかけると電灯のスイッチを点け、口にくわえた。黒い手帳を開くとそこには達筆な文字がびっしりと書き込まれている。手帳の表紙にはさんである万年筆を取ると、あらためてなにかを書き込んだ。
手帳をしまうと代わりに小型の写真アルバムを出した、昔、フィルムの現像を頼むと写真屋がサービスで付けてくれた簡易なものだ。そこには年代も被写体もバラバラな写真が収まっている。
老人はかみしめるようにゆっくりと繰っていく、最後のページで手が止まりその1枚をじっくり見ていた。そこに写っているのは着物を着た中年女性だった、結婚式かなにかの時に撮ったものだろう。少し小肥りの女性は優しい笑顔で老人を見ている。
22時過ぎ、凄子が不可解な顔をしながら入ってきた。
「凄蔵、外に毛布にくるまってるヤツがいるが、ありゃなんだ」
凄子が聞いてきたが黒崎はあいまいな笑みを見せただけだ。酒棚からターキーのボトルを下すと、鍋の載ったガス台に火を点ける。あたりに香しい匂いが漂う。
黒崎は鍋から鉢に中身をよそると凄子の前に出した。
「お、筑前煮かー、うまそうだな!…お前が作ったわけじゃあるめえ?」
凄子は割り箸を割るとさっそく煮物に手をつけた。
「亜紀がちょくちょく来てな、紀美江に教わったもんを作ってってくれるんだ」
凄子は、うめえ、と舌鼓を打ちながらバーボンにも口をつける。
「へえ、そりゃいいな。お前、亜紀を嫁にもらったらどうだ」
凄子はガラガラと笑いながら言う。
「バカ言え」
黒崎はそう言いながら自分用の鉢にも煮物をよそった。
「お前にしてもフジにしても、まるで女っ気がねえからなー」
凄子はしみじみ言った。
「…そりゃそうとここ3日ばかり、ここの前の通りに何人かの男が張り付いてるみてえだ。…警察みてえな雰囲気じゃねえんだが、いつも周りを警戒してるような感じだ。ありゃなんだろうな」
凄子は煮物を食い尽くすと、おかわり、と鉢を差し出してくる。…黒崎の予感はどうやら的中しそうな感じだ。
0時過ぎに凄子が腰を上げたので見送りがてら老人の様子を窺うと、昨夜と同様にいびきをかいていた。
…翌日の夕方、黒崎はボックス席の向こうのカーテンを開けて下を見ると、ちょうど老人がよたよたとビルの前を通った。少し離れたところに見守っているような人影があった。
しばらくすると店の外に老人が帰ってきた気配がしたので、黒崎は外に出ると、
「じいさん、中で一杯やったらどうだ」
と言い、老人の手を引いて中に引き込んだ。ドアのプレートを『CLOSED』に裏返した。
う、うう、と老人は困惑の表情を浮かべていたが、中に入るとスツールに座る。黒崎はストーブで温めておいた徳利を上げると、老人の前に置いたグラスに注ぐ。そして、
「あんた、本当はホームレスじゃねえだろ」
と、聞いた。老人は黒い顔を上げて黒崎と目を合わせる。しばしその姿勢のままだったが、老人は観念したように表情を緩めた。
「ばれてしまったか。…いや、あなたには本当によくしていただいた」
老人は少ししわがれた声で言うと、深く頭を下げた。
「私は南田武雄と申します、少し前まで南田建設を経営しておりました」
…南田建設といえば県内最大手の建設会社だ。
「会社の方は息子が4代目としてやっており、私は会長という立場です」
そう言うとグラスの燗酒に口をつけた、白いひげに酒のしずくが付いた。そして遠くを見るような目つきで話はじめる。
「…私は3代目として若い頃からがんばってきました。バブルがはじけて世の中全般が不景気になった時代、公共事業が極端に減った時代もなんとか乗り越えてきました。社員やその家族を路頭に迷わせないため。…しかしトップに居続ける私は、いつの間にか傲慢な人間になっていきました。自分に意見してくる部下を問答無用に処分したり…、いわゆる独裁者になってしまっていたのです。それでいいと」
南田はふたたび酒を口に運ぶ。
「しかし高齢になり身体が弱くなると、たびたび寝込むこともありました。しかし私の体調を気遣う人間は、妻以外にはおりませんでした。4代目にした息子でさえ心配することなどありませんでした。…やがて妻が病気で他界しました。妻が亡くなると私の理解者は誰もいなくなりました。…その時にやっと気づきました。私は南田武雄ではなく南田建設の社長という肩書きだけで生きていたと。息子に代が代わった時、振り向けば私には友人と呼べる人間はひとりもいませんでした。私に寄ってくる者は利害関係のある人間だけだったということです。…現役の時は多忙だったので地域のことも妻に任せきりにしていたため引退した現在、地域の人々でさえ誰も寄っては来ません。趣味も交友も捨てて仕事のみで走ってきた人間の末路です」
南田はグラスの酒を干したので、黒崎は注いでやった。
「…そして私は肺がんを患っています。余命半年と言われた半年前から、こうして放浪しているのです。…私の傲慢さの犠牲で泣いたり苦しんだ人は多分、数えきれないでしょう。恨みながら亡くなった人もたくさんいるでしょう。…だから私は懺悔の意味も込めて、人生の最後は底辺の暮らしをしながら、野垂れ死にしようと決めたのです」
黒崎は黙ったまま、自分も燗酒を注いで飲む。…苦さが喉にからんできた。
「ご主人、『生きる』という映画をご存じかな?」
南田は穏やかな表情で聞いてきた。
「知ってるよ、黒澤監督のだろ」
「そうそう…」
南田はそう言うと、『ゴンドラの唄』を口ずさんだ。
『いのち短し 恋せよ 少女紅き唇 あせぬ間に 熱き血潮の 冷えぬ間に 明日の月日は ないものを』
…数日後、黒崎は、『河川敷で服毒自殺した高齢男性の死体が発見された』という新聞記事を読んだ。詳細を読む気になれず、新聞を放った。
レコードの棚に『ゴンドラの唄』の音源があるか探した。
― 完 ―




