ゴンドラの唄 2
翌日の午前中、黒崎がドアを開けて店外へ出てみると老人はいなかった。昨夜掛けてやった毛布は綺麗に畳まれて隅に寄せてあった。
黒崎はしばらくそれを見つめ、なにか考えていた。
駅の近くの一等地、ビルやデパートに囲まれた場所に小さな公園がある。善光寺から流れてきたのかわからないが、いつも野生の鳩が多数群れているので、『ハト公園』と呼ばれている。…その公園のベンチに老人が座っていた。
空気はピリッと冷たいが雲ひとつない冬晴れなので、日差しを受けると暖かい。幸い風もなかった。
老人はかたわらに擦り切れたボストンバッグを置いて、まるで彫像のように動かない。真っ黒な顔の深い彫りの下の目はどこを見ているのか、それともなにも見ていないのか。
やがて2組の母子がやって来た、どちらも若い母親とまだオムツをあててたどたどしい歩きの幼児だ。明るく穏やかな陽気に誘われて散歩に来たのだろう。
幼児たちは母親の手を離れると、インターロッキング張りの広場に群れている鳩を喚声を上げて追いかける。鳩は首を前後に揺すりながら逃げ、つかまりそうになるとバサバサと羽ばたいて飛び上がるが、すぐにまた降り立つ。幼児たちは群れを追うのに夢中だ。
若い母親たちは最寄りのベンチに腰掛ける、そして仲良さそうに談笑している。
老人の背後から若い男がやって来た。携帯を耳に当て通話しながら公園に入ってくると、老人のとなりのベンチに腰掛けた。通話は続いているようだ。その格好からどこかの会社の営業員だとわかる。
「はい、ありがとうございます。…はい、それでは在庫を確認した上、お見積り通りの金額で発注させていただきます。社長、いつもありがとうございます。…それでは納品の日程がわかりしだい、また連絡させていただきます。…はい、失礼します」
男はベンチに座ったまま頭を下げて電話を切った。ポケットに携帯をしまうとタバコと簡易灰皿を出す。火を点けると無言のまま1本を灰にした。もう一度携帯を取り出すと通話をはじめる。
「あ、川内です。部長お願いします。…あ、お疲れ様です。今、池嶋鉄工の社長と話しまして、こないだ見積り出してたプラズマ切断機の注文いただきましたので。はい、いえありがとうございます。…ただ心配なのは、土壇場になって先代がしゃしゃり出てくることなんです。だから契約交わすまでは気が抜けないですけどね。…そう、そうなんですよ。あのじいさん、その時の気分しだいで話を覆しますから。…はい、そうです。代が代わっても未だに最終的な決定権持ってるのはじいさんなんで。…もう若手に任せて隠居してくれたらいいんですけどね」
男は通話を終えると公園を立ち去った。
老人と広場をはさんだ向こう側では、鳩を追うのに飽きた幼児たちがベンチの母親の膝の上で菓子を食べている。やがて立ち上がると幼児たちは手をつないで歩きだす。母親たちは、『おともだちだねー』などと言いながら、見守るように公園を出て行った。
老人がそれらの光景を見ていたのかはわからない。茫洋とした目は動いているようには見えなかった。だが咳払いをひとつすると、ボストンバッグをつかみゆっくりと立ち上がった。そして片足を引きずりながらノロノロと歩きだす。どこに向かっているのか、相変わらずその目はなにを見ているのかわからない。
途中、老人は胸を押さえながら激しく咳き込む。ひとしきり咳をするとようやく落ち着き、路上に黄色くドロドロした痰を吐いた。
街に夕闇が迫ると気温は一気に下がる、まだ日没前だというのに日陰の水たまりは結氷をはじめる。
黒崎ビルの前に宅配便のトラックが停まり、忙しそうにドライバーが降りると荷台から下ろした段ボール箱を抱えて歩きだす。
足元が見えなかったせいで凍った路面に足を滑らせ、かろうじて持ちこたえると急階段を上がっていく。配達先はふきだまりのようだ。3階に到着するとノックをしながら、
「ヤワタ運輸です!お荷物お届けにまいりました!」
と、快活な声を上げ、返事を待たずにドアを開けた。…途端にドライバーは懐かしい気持ちになる。
カウンター内から出てきた黒崎は、ごくろうさん、と声をかけた。
「マスター、お久しぶりです!」
ドライバーはハツラツとした声で言ったが、黒崎には覚えがない。怪訝な顔で見られているドライバーは、日焼けした顔に白い歯を見せ、
「以前、このビルから飛び降りようとやって来た荻原です!」
と言った。黒崎はやっと思い出したがあの時のイメージとまるで違っていて、同一人物と思えなかった。それでも、
「元気そうだな」
と、声を掛けた。荻原は持っていた箱をカウンターに下ろすと、
「はい、毎日忙しくて大変ですが、妻と息子とにぎやかに暮らしています」
と、幸せいっぱいの笑顔で言った。
「今度、職場の仲間と飲みに来ますね!」
そう言うとあわただしく出て行った。駆け足で降りていくドライバーは、階段の途中でよろよろと上がってくる老人とすれ違った。




