十戒 6 ― 完 ―
女は亜紀とともに3階まで上がってきた、一緒に店に入る。
「なんだ、凄子も一緒か」
黒崎がボトルを拭きながら言った。
「凄蔵のとこに転がり込んだ娘っ子って、この子だったんだな」
亜紀と凄子は並んでカウンターに座る。
「セイコ?セイゾウ?…もしかして姉弟なんですか?」
亜紀はふたりを交互に見ながら言った。
「親子だよ」
凄子がガラガラ声で笑う。
「親子?…まこっさんって名前じゃないんですか?」
亜紀は腑に落ちない顔でそう言った。
「名前なんてどうでもいいのさ」
黒崎が唇をゆがめた。その後3人は遅くまで飲んだ。凄子と凄蔵はわけあって離れ離れになっていたが、最近になって親子とわかり、凄子はちょくちょく飲みに来ているらしい。
ふたりは不良学生のようにお互いをからかい合い、子どものように音楽の話をした。黒崎がギターを出してくると、凄子と亜紀は代わる代わるリクエストして歌った。
亜紀から見てふたりはやはり親子とは見えず、姉弟のように見えた。…自分もいつか、母親とこういう仲の良い友達のような関係になれるだろうかと思った。
凄子がさっきの出来事を語らなかったので、亜紀も口にしなかった。…凄子は女なのに喧嘩も酒もめちゃくちゃ強くて、背が高くてかっこいい。しかもまこっさんの母親。
普段どんな暮らしをしているのか想像できないが、亜紀はこの中年女性に憧れた。
翌晩、亜紀がバイトから戻ると、カウンターに見覚えのある後ろ姿が見えた。亜紀のクラス担任だった玉川だった。
「玉川先生…」
呼びかけると玉川が振り向く、30過ぎの実直そうな男だ。銀縁の眼鏡をかけて地味なジャケット姿は、まるで壮年教師のようだ。たしかまだ独身だったはずだ。
「坂本、元気だったかな」
玉川は微笑んだが、なんとなく申し訳なさそうな表情だった。
亜紀はこの地味な教師を信頼していた。派手なパフォーマンスをするタイプじゃ当然ないが、いつも親身に生徒の相談に乗ってくれる優しい男だった。
「こんなところにどうしたんですか…」
多分、自宅に行ったが亜紀がいなかったので、紀美江に居所と帰る時間を聞いてやって来たのだろう。
カウンターのドリンクは、先日亜紀が買ってきたウーロン茶だ。
黒崎が察してカウンターを出ると、亜紀に合図をして階段ホールに消えていった。
「実は今日、クラスのある生徒が僕に相談があると言うので、放課後に話を聞いた。…そこで、坂本が自主退学する原因となった『事件』のことを初めて聞いたんだ。生徒が誰とは言えないが、その子は泣きながらすべてを話してくれた」
亜紀は息苦しくなってきたが、スツールに座ると玉川に向き合う。
「そして加害者のSとTとMに事情を聞こうと思ったが、彼らは今日、揃って欠席だったので話は聞けてはいない」
亜紀の脳裏に、昨夜の様子が浮かんできた。
「彼らは坂本に卑劣な暴行をしておきながら、彼らの親たちが学校に発覚しないように、クラス中の保護者に口止めをしていたようだ。…言い訳になるが、そのために今日まで、校長も僕もその事実に気づけなかった。…坂本、本当に申し訳なかった」
玉川はそう言うと、涙を浮かべて亜紀に深く頭を下げる。亜紀もつられて泣きそうになった。
「明日、彼らと保護者を呼んで、全てを白状してもらうつもりだが、坂本はお母さんと相談して、強制わいせつ罪で告訴した方がいいと思う。…いづれにしても彼らは退学になるだろう」
亜紀は黙って聞いていた、母親に知られたくなくて言わなかったが、事の大きさに驚いていた。
「…それで坂本には、学校に戻ってきてほしいんだ」
玉川は意外なことを言った。
「でもあたし退学届け出しちゃったから、戻れないですよ…」
「たしかに坂本からそれは受け取ったが、校長と相談して退学処分にはしてないんだ。正当な理由をひとつも聞いてなかったから。…今は休学状態になってる。だからいつでも学校に戻れるんだ」
玉川は真剣な眼差しで亜紀に訴えてきた。
「でもあたし、クラスのみんなと今さらうまくやっていけるかな…、学校やめる時、大暴れしちゃったから」
亜紀は憂鬱そうな顔になるが、玉川は笑顔でその肩をポンポンと叩いて言った。
「大丈夫だよ。自分の親が口止め料もらったせいで、真実を暴露できずに苦しんでる生徒がほとんどだって、その生徒が言ってたから」
亜紀の胸になにか温かいものが満ちてくるのを感じる。
「わかりました、今晩よく考えてから先生に報告します」
亜紀がかつて見せていた快活な笑顔が戻り、玉川は嬉しくなった。
3日後、亜紀は自宅に戻ることにした。翌日に学校にも復帰できるようだ。
いつの間にか増えた荷物のせいで、遠足にでも行くような大きなリュックを背負っている。
「まこっさん、本当にお世話になりました!」
黒崎が無言でうなづくと、笑顔で言った亜紀の表情が途端にくずれ、ポロポロと涙をこぼす。
「わがままなあたしを文句も言わずにあずかってくれて、優しくしてくれて、楽しい思いをさせてくれて…」
子どもみたいに嗚咽した。黒崎はどう声をかけていいか困った。
「…あたし、昔からお父さんいないから、なんかお父さんにかわいがってもらってる気がしちゃって、だいぶ甘えてしまいましたね」
亜紀は泣き笑いになった。…コロコロ表情の変わるところは変わらないなと、黒崎は思う。
「そうだ、まこっさんはオカンと同級生だから、オカンと結婚して!…そしたら、まこっさんと親子になれる!」
亜紀はまだ涙目だが、ここに来た時よりはるかに元気になっていた。
「バカなこと言うなよ。…でも学校嫌になって紀美江とケンカしたら、また来いよ」
黒崎が言うと、亜紀は笑いながら出て行った。
ペントハウスの居間を亜紀が使っていた。そこは整然と片付いていた。綺麗に畳まれた布団を見た時、黒崎はちょっとした喪失感を覚えた。
― 完 ―




