十戒 4
翌日の昼過ぎ、黒崎がペントハウスから下りてくると、亜紀はスマホで音楽を流しながら、ブルーのエプロンを着けてカウンターを拭き掃除していた。…そのエプロンはかつてKENTが着けていたものだ。
(そういえばあいつもこんな風に掃除してたっけな…)不意にその姿を思い出し、胸が熱くなった。
「あ、おはようございます!」
亜紀はそう言うと屈託のない笑顔を見せた。すっぴんだが若い肌には艶があった。
「別に仕事なんかしなくてもいいんだぜ」
カウンターに座ってタバコに火を点けた黒崎に、亜紀が灰皿を渡した。
「あたし、オカンに似てじっとしてるのがダメなんですよ。…そこだけはオカンと一緒」
そう言うと、ケラケラと笑いながら手を動かしている。
「それならすぐそこのコンビニでバイトしたらどうだ。…そこの店長はここの客だから、話してもいい」
亜紀は手を止めると、スツールに腰かけた。
「それもそうですね、あたしコンビニバイトの経験あるし」
…スマホから黒崎の聞き覚えのある曲が流れてきた。そして胸が高鳴る。
「これ、KENTの『俺の声』じゃねえか」
黒崎は思わず立ち上がって、亜紀のスマホをのぞき込む。
「あれ?まこっさん知ってるんですか?これ、KENTのデビュー曲、こないだ出たばっかなんですよ。KENTは長野出身で…」
「あいつ、…生きてたのか」
薄い色眼鏡の奥が思わずうるんだ。
「え、まこっさん、KENT知ってるんですか?」
亜紀が顔をのぞき込んできたので、黒崎は後ろを向くとシャツの袖で拭った。
「ちょっと前にここにいたよ。今のお前みてえに店の手伝いをしてた。…お前が着けてるエプロンは、KENTが買ってきて着けてたもんだ」
「えー!マジっすか?」
亜紀は目を丸くすると、エプロンをクンクンと嗅いだ。
「えー、マジっすか。会いたかったー!…オカンがもっと早くここに連れてきてくれたら会えたのにー」
亜紀はしばらくひとりでブツブツ言っていた。
黒崎は階下に降りるとすぐそばのコンビニに行き、店長を呼び出した。そして亜紀のことを告げる。
「ああ、それはこっちも助かります!…うちも年末にバイトが何人か辞めちゃって、手が足りなくて困ってたんですよ。助かります!」
店長は喜んでいた。
亜紀は昼間はコンビニでバイト、夜はふきだまりで店の手伝い、の日々がはじまった。黒崎は、夜もコンビニバイトやればいいと言ったが、亜紀は来る客としゃべったり飲んだりしているのが楽しいようだ。
若いが社交的な性格なので、そのうちに亜紀目当てで頻繁に来る客が増えた。黒崎は、
「お前のせいで忙しくなっちまった…」
と、ぼやく。
だが、亜紀が店の手伝いをしたがる一番の理由は、フジと話したり飲んだりできることだった。亜紀はフジに、憧れと恋心と両方の想いがあるようだ。黒崎はその光景を父親のようなまなざしで見ていた。
そんな日々がしばらく続いたある晩、突然紀美江がやって来た。
ちょうど客が掃けたタイミングで、黒いドアが開いた。
「いらっしゃ…」
エプロン姿の亜紀がそう言いかけた時、暗い顔をした紀美江が入ってくる。うつむき加減の目は真っ赤だった。カウンターの中の亜紀に寄ると、
「全部聞いたよ。…あんた、なんであたしに言わなかったのよ!」
紀美江は叫ぶように言うと、立ったまま泣き出した。店には黒崎と亜紀しかいなかった。
「亜紀、俺ちょっとタバコ買ってくるわ」
黒崎は店を出ると、ドアの表に掛かっているプレートを『CLOSED』にした。亜紀がこの前買ってきてぶらさげたものだ。




