十戒 3
嫌なことを思い出したのか、宙を見つめる亜紀の目はキッとなにかを睨んでいるようだ。大きな目だが少し吊り上がっている。黒崎はその顔が誰かに似ていると思った。
亜紀は我に返り缶ビールを飲み干すと、もう忘れたかのように笑顔になる。コロコロと表情が変わる娘だ。
そして酒棚の下のステレオと大量のLPに気づく。
「それ、レコードってヤツ?」
と聞いてきた。今の子どもたちは知っていても見たことはないかも知れない。亜紀はカウンターに置いたスマホを操作して音楽を流した。
いまどきの曲かと思ったら、黒崎も知っているメロディーだった。
『発破かけたげる さあカタつけてよ やわな生き方を変えられないかぎり 限界なんだわ 坊やイライラするわ』
黒崎は気づいた。
「お前の顔、若い頃の中森明菜に似てんな。…その睨みつける目が特に」
亜紀はその言葉に嬉しそうな顔をした。
「あたし、明菜大好きなんだ!…オカンが名前のうしろに『ナ』をつけてくれたらよかったのに」
カウベルが鳴ったので亜紀は振り向いた、背の高い男が入ってくる。オールバックの黒髪に切れ長の細く鋭い目。(うわ!かっこいい…)亜紀はその危険な雰囲気の男に、胸が高鳴った。
同級生などはいくらイケメンといえど、しょせん親のスネかじりの甘ったれた顔だった。だから同い年の男など惚れたこともない。
3カ月前に別れた男は、亜紀よりも8歳上の職人だった。男が転職して遠い地に引っ越すことになったので、仕方なく別れたのだ。
「ドアの前にこのカバンが置いてあったぜ」
男は右手に提げたバッグをカウンターに置いた。それは紛れもなく亜紀のものだった。…母親がわざわざ持ってきて置いたのだろう。それはまさに家に帰れないという証だ。
「あ、それあたしの…」
亜紀が小さな声で言うと、男は冷めたような視線を送ってきた。亜紀はドキンとする。男の目は黒崎に移動した。
「こいつ、同級生の娘。ここであずかれって言われて困ってる。…そうだフジ、お前んとこであずかれよ」
亜紀は、まるで犬や猫のように扱われていることに少し腹が立ったが、(この男のとこならいいかも…)と淡い期待を寄せた。だが男は、
「そんなんダメに決まってんだろ。…俺さ、こないだ昔飼ってたのとそっくりの柴犬もらったんだ。そんで同じ『ケン』て名前つけて。これがかわいいんだよ」
と、顔にふさわしくないことを言った。…亜紀はますます犬猫扱いにふてくされた。
「お前、なんていうの」
フジと呼ばれた男は、かがんで顔を近づけて聞いた。身体から香水だかコロンの匂いが漂っている。その香りも亜紀好みだった。
「亜紀…です」
男は、ふうん、と言うと興味をなくしたように顔を離し、右端のスツールに座った。亜紀は顔を右に向け、
「フジ…って名前なんですか」
と聞くと、フジはあいまいにうなづいた。
「フジさんかあ、…富士山ですね」
亜紀はひとりで笑うと、目の前に指で山の形を作った。黒崎とフジは同時に苦笑する。
「じゃあ、ここであずかるしかねえか。…紀美江が許してくれるまで、仕方ねえよな」
黒崎は亜紀に向かって言う。亜紀はもう覚悟を決めた。
「はい、オカンがいいって言うまでお世話になります」
と頭を下げた。
「黒さん、手を出すなよ」
タバコに火を点けながらフジが言う。
「同級生の娘だぜ。…ありえねえよ」
黒崎は酒棚の方に向くと振り返り、
「お前が飲みてえ酒はあるか」
と聞いた。亜紀は、うーん、と言いながら並んだ酒を見回し、
「じゃあ、無難なとこでジャックダニエル!」
その言葉に、黒崎とフジは目を見合わせ笑った。
「ませた小娘だ」
黒崎はボトルを下すと、3個のグラスを並べる。
…亜紀の新生活のはじまりだった。




