恍惚のブルース 5
カウンター内のスツールに腰を落とした黒崎は深いため息を吐くと、後頭部に指を組んでタバコをふかす。途方に暮れた表情だった。
眺めていたフジがカウンターにグラスを置くと、タバコをひねり潰して立ち上がる。
「こうなりゃ柴山に話を回した方がいいな」
「シバヤマ?」
黒崎はタバコを噛んだまま聞く。
「ああ、…人目につかない裏の道を歩いてる連中を束ねている男だ。ヤツはいろんな伝手を持ってる」
ワインレッドの開襟シャツと黒い背広の上に、厚手のPコートを羽織るとドアに向かって行く。立ち止まって振り向くと、
「凄子の手も借りるかも知れねえ」
と言い残して出て行った。
黒崎は大晦日に実の母親と判明した女のことを考える。
幼少の頃、黒崎は父子のふたりで福岡で暮らしていた。だが鳶職の父親が工事現場で墜落死したことで、遠い親戚の黒崎家に引き取られた。以降ずっと長野に暮らしているが、時々幼い頃の記憶が甦ることがあった。
…どこかで他人に連れ去られ、狭いアパートと思われる部屋で折檻を受けている自分。母親がいないことで不安になり泣きわめくと、さらに怒鳴られ叩かれた。
そのうちに下着だけに剥かれて両手を縛られ、狭い風呂場に閉じ込められた。泣き続けても誰も助けに来てくれないことを悲観して、風呂場の床に座り込んでいると、外でなにかをぶっ壊す音や男女の悲鳴が聞こえてきた。激しく怒鳴りつける声も聞こえる。
幼い自分は鬼がやって来たと思った。昔話のアニメーションで観た赤鬼を想像した。自分を折檻した男女の声が途絶え物音が静まると、今度は自分が殺されると覚悟した。
やがて風呂場の扉の磨りガラスに、鬼のシルエットが現れた。恐怖で声も出なくなった自分は、目を強く閉じて下を向く。
だが扉が開いた瞬間に鬼はいなくなり、代わりに大好きな母親が現れて自分を抱きしめてくれた。恐怖と緊張から一気に解かれた自分は、堰を切ったように泣き出した。
自分を強く抱いてくれた母親はもっと大きな声で泣いた。…そこで記憶の映像は終わる。
そして大好きだったはずの母親の顔は、いつも霧に包まれたようにはっきりしない。今まで何度か甦ったがいつも同じだった。
除夜の鐘が鳴る頃、あの女から自分が母親だと告白されて、夜明けまで語り合った内容を考えると、自分の母親に間違いないのだが、どうしても結びつけることができない。
凄子という名の母親は、自分を『凄蔵』と呼んだ。…そう呼ばれた瞬間に、親子3人で暮らしていた頃のいくつかのシーンが写真のように浮かんではきたが。
携帯電話が鳴った、登録されていない番号だ。黒崎は無言で電話に出る。
「…あの、黒崎さんでしょうか?」
「そうですが」
「私、金田義和の妻です」
黒崎は胸が高鳴った。
「…実は夫がどこかに外出したまま、この時間になっても帰って来ないので、携帯にかけてみたんですがつながらなくて…。以前夫から、『俺になにかあったらこいつに電話しろ、昔からの親友だ』と教えられたのでかけてみたんですが…」
金田の妻の声は不安で沈んでいる。
「ここ1ヶ月ぐらい前から、休みの日はどこかに出かけているので心配はしてなかったんですけど、…今夜はどういうわけか変な胸騒ぎがしまして…」
「そうですか、…俺も心当たりはないんですが」
と答えるが、胸が痛んだ。黒崎が知っている事実を話せば、金田の妻はなおさら不安になるに違いない。
「あの、金田は車で出かけていますよね。できればあいつの車のナンバーを教えてもらえませんか。俺の方でも知り合いに当たってみますんで」
そう言って、金田の車のナンバーを聞き出した。
電話を切るとすぐにフジに電話し、金田の車のナンバーを伝えた。
「そいつは助かる。今いろんな情報網を使って、運ちゃんの居所を探っていたところだ。…横浜の連中の情報もな」
フジや母親の凄子、それに柴山とやらの組織がどんなものか知らないが、黒崎は腹の底からありがたいと思った。そして『腐れ縁』と称していた旧友の存在が、自分にとっていかに大事なものであったかを。
ボックス席のカーテンを開けると、やけに外が明るく見えた。どうやら月明りのようだが、窓を開けても月は見えない。ビルの屋上に隠れているようだ。
黒崎は店を出て階段を降りると外に出た。歩道まで移動すると、上が少し欠けた月が見え、右側にオリオン座も見えた。
自分の吐く息のように白い靄がかかっている。
『金田、どうか無事でいてくれ』
月を見上げて祈るように思った。




