カスバの女 2 -完-
翌日の夜、たまに来る2人組の会社員が、忘年会の帰りに立ち寄った。口の回らない同士でしばらく言い合っていたが、ひとりが酔いつぶれたのでお開きにした。
「黒さん、今年もありがと。メリークリスマス!」
などと言って、千鳥足で帰っていった。
黒崎は壁のホルダーに掛けてあるギターを手に取った。ギブソン L‐1という12フレットジョイントの小さなアコースティックギターだ。
タオルでボディーの埃を取ってから、音叉でチューニングする。しばらくほったらかしだったので弦の表面は錆びでザラザラだった。
スリーフィンガーでブルースを爪弾く、ちゃちなボディーは余韻の短いチープな音を奏でた。
23時、またあの女がやって来た。昨日と同じコートを羽織り、やはり酔っているようだ。昨日と同じ左端のスツールに座った。
黒崎はギターを置いて、無言のまま左端のカウンターにジャックのボトルとグラスを置く。そしてまたギターに手を掛けた。
「今夜はロックにするわ」
女は黒崎に、意地悪そうな眼差しを向ける。
黒崎は立ち上がると、アイスペールにロックアイスを放り込んで、カウンターに置く。そこにトングとマドラーを突っ込んだ。
……やっぱりね、というような含み笑顔で、女は自分で酒を作った。黒崎はガラスの灰皿を女の前に置くと、カウンターから出て右端のスツールに座り、ギターを爪弾く。
しばらく黙って飲んでいた女が、ギターを弾き続けている黒崎に話しかけてきた。
「ねえ、マスター」
「……ん?」
「マスターは結婚してるの?」
「結婚?……してねえよ」
「そうなんだ。……いくつになるの?」
「42」
「42か、あたしの3歳上だ」
女は頬杖をついたまま、天井に煙を吹き上げた。
「なんで結婚しないの?」
「うーん、……めんどくせえから、かな」
それで女は一度黙り、黒崎の指の動きを眺めていた。
「それ、誰の曲?」
「……ロバート・ジョンソン」
「ふうん」
女は次第に目がすわってきた。そして昨日のように悲しげな目を宙に向けた。
「あたしもさ、結婚なんてするんじゃなかった」
と言うと、ため息を吐く。黒崎は気にも留めずに音を出している。
「いいように利用されて騙されて、…気が付いた時にゃ金も店も取られてた。……それでバイバイよ。……頭がいい男だから注意しなさいよって周りに言われてたけど、気づいた時はもう手遅れだった」
黒崎は弾きながら薄い色が入った眼鏡の奥で、女の顔を眺める。横を向いたままの目に涙が浮かんでいるのが見えた。
ギターを置くとグラスを持ち出して、ジャックを注ぐとひと息で空けた。またギターを爪弾くが、今度はブルースじゃなかった。
『涙じゃないのよ 浮気な雨に ちょっぴりこの頬 濡らしただけさ
ここは地の果てアルジェリヤ どうせカスバの夜に咲く 酒場の女のうす情け』
黒崎はギターを弾きながら唄った、女も途中から一緒に唄う。かすれた声は唄うと意外に低く、黒崎のキーに違和感なく重なった。
女は唄い終わると時計を見上げた、0時30分。約束でも思い出したように、
「ありがとう、これで帰るわ」
と、腰を上げた。勘定を聞いてきたので2000円と答えると、微笑みながら払って出て行った。今夜は昨日よりましな足取りで、階段を降りていったようだ。
翌日は天気予報通り、山沿いだけでなく市街地にもまとまった雪が降り続け、道路にも積もった。しかし年末近い金曜日なので、夜は忘年会で人出が多かった。
『ふきだまり』は表に看板など出していないが、世の人出に合わせるように、いつもより客足はあった。こんな店をよく見つけるものだと思う。
黒崎は商売でやってるつもりはないので、店内が賑やかになることは嬉しいことではない。早く帰ってもらって、のんびりとレコードを聴きたい気分だった。
それでも22時を回ると、『明日にかけて降雪がひどくなる』との予報のおかげで客はいなくなり、いつもの闇医者と黒崎のみなった。
「あの姐さんは昨日も来たんか?」
「ああ、来た。一緒にカスバの女唄った」
黒崎がそう言って笑うと、ほう…と闇医者はあきれ顔をした。
「今夜も来んのかな」
「どうかな、夜中から大雪予報だからな」
そう言うと、酒棚の下のレコードを持ち出してかけた。クリスマスが近いからというわけじゃないが、店内にゴスペルが流れる。
「あれねえのかな、クリスマスによく聞くやつ」
「ゴスペルのクリスマスソング……、うーんと、あれかや」
黒崎はそう言うと、大量に並んでいるLP棚から1枚を取り出した。『We Wish You A Merry Christmas』
「これこれ、どういうわけか聴きたくなるんだよ、この時期は」
闇医者は目を閉じて聴き入っている。
「……なんか、似合わねえな」
黒崎は闇医者の様子を見ながらそう言うと、小馬鹿にしたように笑った。
23時、やはりあの女はやって来た。今夜は黒革のロングコートではなく、雪のように白いコートを着ている。
振り向いたふたりに微笑むと、指定席に座った。
「一昨日はありがとう、闇医者のお兄さん」
黒崎と闇医者は目を合わせた。酔いつぶれて眠っていたと思ったが、どうやら会話を聞いていたらしい。
女は飲んでいるようだが、昨日一昨日と雰囲気が違っていた。なんというか、目に力が入っているというか、なにかを決めたような清々しさが漂っている。
黒崎は決まっているかのように、ジャックのボトルとグラスを女の前に置く。
「今日はゴスペル?」
「不似合いだが、好きらしいんでね」
黒崎がそう言いながら顔を向けると、闇医者はそっぽを向いた。
「雪景色にゴスペル、なんかいいわよね」
女の様子はやはり昨日とは違っていた。
0時30分、女は時計を見上げてから、コートを羽織った。
「今夜は大丈夫そうだね、姐さん」
闇医者は口元のタバコを揺らしながら、女に言った。
「そうね。……これで最後かな、マスターありがとう」
黒崎は今年最後という意味で、
「こちらこそ、よいお年を」
と言った。女は金を払うと重い扉の向こうに消えていった。
「……なんか吹っ切れた感じだったな」
「やっぱお前もそう思うか」
「いい方に吹っ切れてくれてたらいいんだが……」
黒崎は闇医者の、なんともいえない表情を見つめた。
……救急車のサイレンが聞こえだし、それは近づいてきた。なにかを喚きながら、すぐ近くに来ている。警察車両のサイレンも重なってきた。明らかにこの近辺で停まった。
黒崎はボックス席の向こうのカーテンを開けた。オレンジ色の外灯に雪が踊っている。思っていたより本降りだ。
窓を開けて見下ろした。白く積もった歩道の上に男が仰向けに倒れ、周りの雪を真紅に染めていた。手前に白いコートの女が立ち尽くしている。コートの胸は真っ赤で、片手にナイフを握っていた。倒れた男のそばに立つ若い女が、ガタガタと震えているのも見えた。
それらを取り囲むように雑踏が輪を作り、パトライトの赤と、すぐ近くにあるラブホテルのネオンの色が交じり合っている。
黒崎は闇医者にあごをしゃくった。
「……無理だな、明らかに死んでいる」
― カスバの女・完 ―