生きてるって言ってみろ 4 ― 完 ―
荻原はビルを出ると夜の街を歩いた。いつの間にか降っていた雪が、歩道に薄く積もっている。
顔にも降り落ちるが、今は不快ではなかった。ひと言で言うと荻原の心は吹っ切れていた。
時刻は23時、荻原はダウンジャケットのポケットからスマホを出すと、妻に電話を入れた。
「遅くなっちゃってごめん。もうすぐ長野駅に着くとこ、先に寝ていいよ」
スマホをしまうと少し早歩きになった。そして『ふきだまり』のマスターのことを思い返していた。
「俺、考え直します。…それで、死ぬのはやめにします」
荻原が言うと、店主は黙ってうなづいた。
「なんか今日は救われました。…この店に入ってきて、マスターに会えて本当に良かったです。ありがとうございました」
荻原は深々と頭を下げた。
「それより早く帰ってやれよ、家族がいるんだろ」
店主は少し照れた様子で言った。
「はい。じゃあお勘定を…」
荻原が財布を出すと、
「そんなもん、いらねえって言わなかったか」
店主は言ってきたが、財布から4千円を抜き出しカウンターに置いた。
「じゃあ、まあご自由に」
そう言うと唇をゆがめた。
白い息を吐きながら、定期を出そうと内ポケットに手を入れるとなにかに触れた。出してみると千円札が4枚だった。(…店を出る前にトイレに寄ったすきに、マスターが入れたんだな)荻原は店主の表情を思い浮かべて、ありがたく思った。
電車は空いていた、座席に腰掛けて今日という長い一日を思い返す。どっと疲れが出た。
最寄り駅で降りると、アパートまでの道を急いだ。玄関の鍵を開けるとまだ灯りが点いていて、妻の千夏が出迎えてくれた。
「まだ起きてたの?」
「うん、今日仕事納めでしょ?…哲ちゃん、1年おつかれさまでしたって言いたくて」
荻原は千夏の笑顔を見ると、心が重くなった。肩提げバッグから出した賞与の明細を渡すと、
「俺、会社を辞めるよ…」
と言った。
「え?」
千夏は目を丸くした。リビングで向かい合うと千夏に打ち明ける。今まで話さなかった会社でのこと、それから帰りに立ち寄った店でマスターと話したこと。…死のうと思って行動したことは、当然伏せておいた。
話し終え、千夏の落胆した顔を見るのが辛かったが、千夏は意外にも晴れやかな笑顔だった。
「…ショックじゃないの?」
荻原は恐る恐る聞いた。
「ショックだよ。でも良かった…」
「良かった?」
「うん、…だって哲ちゃん、ここ何年もずっと苦しそうだったから。辛い気持ちを、毎日毎日耐えているの、見ててわかってたから…」
荻原はうつむいたまま聞いていたが、胸がつかえてきて勝手に涙がこみ上げてくる。
「あたし、もう会社辞めちゃえばって言おうと、何度も思った。…無理して元気なフリしたり、笑顔を作ってた哲ちゃん見るの、あたしも辛かったし」
「ごめん、気づいてたのか…」
荻原は涙を拭いて、洟をすすった。
「当たり前でしょ。…仕事なんてどうにかなる、あたしもいろんな人に聞いてみる。それより3人で仲良く暮らすことの方が大事!」
千夏はそう言って、荻原の肩に手を乗せた。
翌日の午前中、荻原は電車に揺られていた。家を出る前、社長に電話して、
「ご相談したいことがあります」
と、アポを取っておいた。スーツの内ポケットには、今朝早く書いた退職願が入っている。荻原はその上をポンポンと叩いた。
社長の家は最寄り駅から歩いて5分ほどのところにあった。初めて来たが、立派な日本建築の邸宅だった。
呼び鈴を鳴らすと格子戸の玄関が開き、社長が出迎えた。白髪混じりのウェーブがかったオールバックの頭髪、薄いグレーの入った眼鏡の奥の目は、ギョロリとしている。荻原がいつも怯えていた目だ。体格はいい。
「まあ、入りなさい」
少し訝しんだ目つきで言ったが、荻原は、
「ここで結構です」
と言い、内ポケットから退職願を出すと、社長に差し出した。目を丸くした社長は、
「玄関先で話すことではない、いいから入りなさい」
と言い、踵を返して中に入っていった。失礼します、と、荻原も続いた。
広い応接間に通された荻原は、社長と向かい合う。テーブルに置いた封筒を見ながら、
「ずいぶん非常識だな、君は」
と、不機嫌な目を向けてくる。充分に威嚇の要素を含んだ目だ。荻原はいつも恐れていた目だが、今はなんともない。水平な目線だ。
「申し訳ありません」
口ではそう言っているが、荻原の目線も厳しく社長に負けてはいなかった。不意に社長の目つきが変わり、
「ボーナスが気に入らないんだな。…それなら減らした分を、今度の給料に乗せてあげよう」
上から目線の舐めた言い草に、荻原が怒りの火が点くが我慢する。膝の上の拳に力を込め、
「そんなことをしてくれなくて結構です」
と言った。すると社長の顔色が見る見る変わり、会議の時の血走った目で、
「はっきり言って、君のような人間はどこに行ってもうまくいかないぞ。忍耐も努力もせずに中途半端で逃げ出す人間は」
(逃げ足の速えヤツが生き残れるんだぜ)荻原の脳裏に店主のセリフと、唇をゆがめた表情が浮かんだ。黙っていると、今度は宥めにかかってきた。
「君が知ってる通り、今は業績が良くない。世の中を考えると仕方ないことなんだが、経営者としては甘いことを言ってられないんだ。…君に対しても、あえて心を鬼にして厳しいことを言っている」
懐柔するような目つきだったが、荻原は黙ったまま目を見据えている。社長は折れない荻原を見て、懇願するようなことを言った。
「…君がいなくなったら他の4人はどうなる。正直言って、君がいたから彼等もがんばれたんだ。…下には下がいるってことで…」
そこで荻原の言葉が重なった。
「馬鹿にするんじゃねえ!なにが下には下だ!俺をかませ犬みてえに扱ってんじゃねえぞ!」
怒声を上げると、テーブルの上の退職願に手を叩きつけた。社長は目と口を開けたまま凍りついた。荻原は怒りに燃えた目をそらさない。じきに社長の目は充血してうるんできた。
部下をさんざん罵倒して虐げてきたこの男の本性は、どうやら打たれ弱い小心者のようだった。
荻原は、失礼します、と言ってドアを開けると、茶を運んできた社長の奥さんと鉢合わせになった。もう一度、失礼します、と言って、社長の屋敷を後にした。
外は曇ひとつない冬の青空だ、心底晴れやかな気分に、荻原の口から『生きてるって言ってみろ』が吐き出される。この爽快感は何年ぶりだろうと思った。
「俺は生きてる!って言ってやる!」
ひとり言を言ったあと、(夜になったらふきだまりに行こう、そしてとことん飲みまくろう。…マスターにつきあってもらって)荻原は大きくジャンプした。
生きてるって言ってみろ ― 完 ―




