生きてるって言ってみろ 1
男は市街地にある社屋を出ると、小規模な会社やビルが立ち並ぶ小路を抜け、明るい街灯に照らされた中央通りに出た。脇に寄せられ固くなった残雪をよけて、歩道を駅へと向かっている。
今日は仕事納めの日だったが、男の口からはため息しか出てこなかった。
荻原哲也、28歳。市街地にある工作機械メーカー地方代理店の営業員。駅から南へ2駅先にある町に自宅アパートがあり、妻と3歳の息子と3人暮らしだ。
荻原が勤務している会社は、役員と従業員を含めても15人ほどの小さな会社だ。大手機械メーカーのディーラーとして、北信一帯をテリトリーとしている。
荻原は営業部に所属しているが、5人いる営業員の中で成績は常に最下位で、『うだつの上がらない社員』というレッテルを貼られていた。
社内での評価は当然、給料や賞与にも表れており、仕事納めの今日もらった冬の賞与の明細には、昨年末の3割減の数字が並んでいた。
商品の工作機械を納める先は、精密機器製造会社や部品製造会社、金属加工製作所や鉄工所などだが、どこの会社も海外の低価格製品に押されて経営は苦しい。だから設備投資で新しい機械を導入してくれるところは少ない。
そこに来て『おいしい顧客』の少ない荻原が、いくら靴をすり減らして駆けずり回っても、ホットな情報にありつける確率は極端に低い。
『どうしようもないのだ…』、荻原はいつも心で呟いているが、会社や上司はそんなに甘くない。
月に一度営業会議があり、そこには社長と専務、そして5人の営業員が首を並べる。荻原は毎月、会議の2日前から胃が痛みだし、憂鬱の靄を纏いだす。
毎月、どうにかして会議に出席しないで済む方法を考えるが、社長の『営業会議最優先』の方針が変わらない限り、欠席は不可能だった。
会議当日は18時から2時間あまり、荻原は生きた心地がしなかった。専務が先月の営業成績の資料を読み上げ、その後社長の話がはじまるが、後半になると決まって感情的になり、目を血走らせて営業員を罵倒しはじめる。
そして最後に取っておいたように荻原に矛先が向き、延々と罵倒と説教が続く。まさに地獄の時間であった。おまけに残業手当は付かない。
荻原は中央通りをうつむきながら歩く。(…これで正月が明けるまでは仕事からは解放されるが、家に帰れば妻に賞与の明細を見せなきゃならない。あいつは優しいヤツだから責めはしないだろうけど、落胆した顔を見るのは辛い。…春からは息子を幼稚園に通わせる予定だから、昨年よりアップを期待してたけど、まさかの3割減だしな)
繁華街をトボトボ歩いていた荻原の左肩が、なにかに衝突した。
「痛えなあ!」
その声にはっとなった。うつむいて歩いていたため、対向してくる歩行者を見ていなかった。いつの間にか左に寄ってしまい、対向する人とぶつかったようだ。
「あ、すみません!」
顔を上げると人相の悪い3人の若者が、こっちを睨みつけていた。ヤクザ者ではないようだが、目つきは険悪だった。
「どこ見て歩いてんだよ!」
ぶつかった相手が凄むと、となりの男が荻原の胸ぐらをつかんできた。
「ちょっとこっちへ来いや」
そのまま建物と建物の間の、狭い路地に引っぱられていく。荻原は緊張していなかった、ただ諦めのような気持ちでそのまま引きずられていった。(どうせ殴られて、金を取られるんだろう…)
路地の奥に連れ込まれると、案の定一発食らった。平手だったから音の割には痛くはなかったが、指が耳に掛かっていたので、キーンと耳鳴りのような状態になる。
「今日もスッたからイライラしてんだよ、俺等は!」
もうひとりの男は八つ当たりの言葉を、さも当然のように言った。荻原の胸に、普段虐げられ続けている怒りの火が点いた。
「わかったよ!金が欲しいんならくれてやるよ、持っていけ!」
と言うと、尻ポケットの長財布を取り出して、今日の全財産の4千円を抜き取ると、男たちの目の前に晒した。
「ほら、くれてやるよ!」
荻原は久しぶりに大声を出した。
男たちは荻原の手元を見つめると、一瞬動きを止めた。そして同時に笑い出した。
「でかい財布にそれだけか?」
真ん中の男が言うと、
「貧乏人から巻き上げるつもりはねえよ、…行くぞ」
3人は笑い声を止めないまま、路地から出て行った。
荻原は札を前に出した姿勢のまま、その様子を見ていた。3人の姿が消えると札を財布に戻し、深いため息を吐いた。
暴力が繰り返されなかったことや、金を取られなかったことに安堵したのではない。あんなチンピラみたいな連中に貧乏人呼ばわりされ、馬鹿にされた自分が惨めになったのだ。
会社の人間たちに愛想をつかされ、チンピラの連中にも愛想をつかされた気分になった。
叩かれた左頬をさすりながら、路地から明るい場所に出た。
荻原の心には、『虚しさ・情けなさ』その文字しか浮かんで来なかった。




