カスバの女 1
例年より遅い初雪が2日前に降った。それで堰を切ったように、今夜も長野市街地に雪が舞っている。
23時過ぎ、店の入り口ドアに吊るしたカウベルが鳴った。カウベルはインテリア製品ではなく、楽器の本物を加工して取り付けているので、ガランガランとやかましい音を立てる。
木製の重いドアが開くと、女が入ってきた。
「……いらっしゃい」
店主の黒崎誠が、カウンター内のスツールに腰かけたまま、不愛想に呟いた。
女は水商売風の派手な顔立ちで、化粧も濃かった。40歳前後だろうか、女にしては珍しく黒革の長いコートを羽織っていた。スタイルが良さそうなので似合っている。
どこかで飲んだ帰りに寄ったのか、足取りには酔いを感じる。
女はそのままカウンターまで来ると、5脚並んだ一番左の止まり木に腰を下ろした。
「なんにしますか」
黒崎は腰を上げると女の前に立ち、面倒くさそうに聞いた。初めて見る顔だった。
「バーボンならなんでもいいわ。ストレートでちょうだい」
女の返事も面倒くさそうだ。そして緩いウエーブが掛かった髪をかき上げると、ため息を吐いた。
黒崎はうなづくと、後ろの酒棚のジャックダニエルの新ボトルをつかみ出し、ウイスキーグラスと一緒にカウンターに置いた。
女は黒崎に不審げな目を向けると、
「注いでくれないの?……それにボトルキープなんて頼んでないわよ」
と、不機嫌な声を出した。
「うちはストレートでも水割りでも、セルフでやってもらう店なもんでね。まあ好きなだけやってくださいや」
黒崎はそう言うと唇をゆがめる。女の前に小皿を出すと、袋入りのミックスナッツをバラバラと振った。頬杖をついて様子を見ていた女が、
「まあ、いいわ」
と、自分でジャックの栓を開け、グラスに半分ほど注いだ。そして一気に空ける。それは飲むというより、口に放り込むといった感じだった。
カウンターの右端で気配を消していた男が、一瞬だけ女に目をやる。細く鋭い眼だ。
狭い店内はカウンターに5脚、ボックスが2席。カラオケもないし女の子もいない。カウンターの中に、不愛想で商売っ気のないマスターの黒崎がいるだけだ。
黒崎は伸びた坊主頭を搔きながら、針が戻ったターンテーブルのLPレコードを戻し、酒棚の下から別のレコードを取り出して、ターンテーブルに載せると針を落とした。
バチバチとひどいノイズまみれのレコードが再生をはじめた。
サニー・ボーイ・ウイリアムソン、1940年代のブルースシンガーの楽曲だった。ステレオの音量は上げていないので、古くてひどいノイズのレコードもさほど耳障りではない。
「お、シュガーママか、ソニー・ボーイの」
右端の男がそう言いながら、ポール・モールをくわえた。そして自分で火を点ける。
黒崎は洒落たバーのバーテンダーのように、客のタバコに火を点けてやるような真似はしない。もともと商売をやってるつもりもないのだ。
黒崎は幼少の頃、遠い親戚にあたる人物に引き取られた。子どものいなかった養父母は誠を大切に愛情持って育ててきた。…しかし財力も土地もある養父母に大切にされすぎたせいか、誠はバイタリティーも欲望もなかった。
市街地に何棟ものアパートや賃貸マンションを所有し、一等地にコインパーキングを何か所も持っている養父のおかげで、働かなくても食うに困らないのだ。
この店がある建物も『黒崎ビル』という名称で、養父所有の物件だ。3階建ての3階にこの『ふきだまり』というふざけた名の、自称『パブ』がある。
1階と2階は小さな会社にテナントで貸しているが、どのような会社なのか興味がないので知らない。
「サニー・ボーイって表記される場合もあるけどな」
黒崎と右端の男は、左端の女の存在など気にもせずに、古いブルースの話を続けている。
思い出して女に目を向けると、2杯目以降はチビチビと飲んでるようだ。だが、宙を漂っているような目は、やり切れないほど悲しそうに見えた。
やがて女は酔いがすぎたのか眠いのか、居眠りをはじめる。
「のんだくれ女だな」
右端の男は横目で眺めながら呟いた。
「そういやお前、ここんとこ毎晩来てるよな。……闇医者稼業は不景気か」
黒崎は無精ひげをさすりながら言った。
「俺みてえな商売は繫盛しねえ方がいいのさ」
黒崎が『闇医者』と呼んだ右端の男は、この店の近くのマンションの自室で医者のようなことをやっているが、文字通り『闇』なので看板など出しているはずもなく、医師免許を持っているのかも不明だ。…恐らく無免許だろう。
一般庶民とは無縁の『闇』に潜み、『闇の中』で動いている何者かが、明るみに出せない患者を送り込んでくる。それらに対して医療行為をしているのだ。
「俺が繫盛するってことは、それだけ世の中の裏世界にトラブルが起きてるってことだ。…それはつまり、表の世界のある部分が綺麗ごとで済まされていないってことだ」
そう言うと、タバコに火を点けた。
「今は入っていねえのか」
「ああ、腹を刺された爺さんがこないだ出てったからな、ゾンビ医院を」
闇医者はそう言うと、ひとりで笑っていた。
黒崎の店に訪れるようになって、2年ほどだ。それ以前はどこでなにをやっていたのか知らない。黒崎も闇医者も、過去の身の上のことなど話すことも聞くこともない。
壁の時計が0時50分を指している。
黒崎はこの屋上にあるペントハウスで暮らしているので、客がいつまでいようが構わないが、女のためを思って起こした。
「お客さん、もうすぐ1時になるけど大丈夫かい?」
肩を揺すって起こすと、女は顔を上げたが朦朧としている。じきに正気になると、
「……タクシー呼んでくださる?」
と言うと、大きなあくびをした。
黒崎は携帯を取り出すと、腐れ縁のタクシードライバーに直接電話した。
立て続けに掛けていたレコードの針が戻り、店は静かになる。
『ここは地の果てアルジェリヤ どうせカスバの夜に咲く 酒場の女のうす情け』
女が呟くように唄いだした、宙を彷徨ったままの目で。酒でかすれた声が、寂しげなフレーズによく似合っている。
「カスバの女か」
闇医者が前を向いたまま、ぽつりと呟く。
黒崎の携帯が鳴った、ドライバーからだ。
「ありがとう、遅くまですまなかったわね」
女は言って、勘定を聞いてくる。1500円と黒崎が答えると、目を丸くして千円札を2枚カウンターに置いた。
隣のスツールに掛けたコートをつかんで立ち上がるが、足はふらついていた。ここは3階でその階段の勾配もきつい。
「下まで連れてってくれよ」
黒崎が声を掛けると闇医者は舌打ちしながら立ち上がり、女の肩を支えた。闇医者は高身長だがハイヒールのせいか、女もさほど背丈が違わなかった。そらっと言いながらふたりは外へ出た。
ドアの向こうでまた『カスバの女』が聞こえ、徐々に遠ざかっていく。
人気がなくなったカウンターの中で、黒崎も同じフレーズを口ずさんだ。