幕間その1~過去~
一月の後半、よく冷え込んだ朝の五時。一人の少女が、灰色に汚れたベッドの中で寝ていた。
「ふわぁ……」
少女は大きくあくびをし、犬が体についた水を払うように体を大きく震わせた。そして外を見て、舌打ちをする。
「降ってら。くそったれ。」
所々錆びた窓枠には、文庫本程の厚さの雪が積もっていた。薄汚れた窓ガラスを通して見れば、牡丹雪がゆっくりと、しかし休むことなく空から舞い降りてくる。ただの大雪、と言いたいところだが、奇妙な点があった。雪の色は白ではなく、灰色だったのだ。
少女は寝室のドアを開ける。すると突然、鉄を切り裂くグラインダーの轟音が聞こえてきた。
「うるせぇ!」
少女は声を上げる。その先には、一人の人間がしゃがみ込んで作業していた。
「おいババア!うるせぇっつってんだろ!」
少女は再び怒鳴るが、ババアと呼ばれた女性には聞こえていないようで、手元から火花を上げながら作業を続けている。
「いい加減にしろって!」
少女は女性に駆寄り、両手で肩を掴んで揺すった。女性はようやく作業の手を止め、少女の方を向いた。
「おはようハトル。よく寝たかい?」
女性は付けていたマスクを脱ぎ、歯をにかっと見せた。60代くらいだろうか。顔のあちこちに皺が入り、髪も白が占める割合の方が多い。それでも表情から見えるエネルギーは、若者と大差無いように思えた。外装はボロボロなのに、エンジンは新品同様の車、と言った所か。
「そーいやハトル、あたしのことババアっつったね。しばくぞ?」
「結構前から聞こえてたじゃねぇか!」
ツッコミを入れるハトルを見て、老女は上を向いてからからと笑った。
「そーいやババア、何やってんだよ。」
「ババアじゃなくてマダムと呼びな。」
マダムと名乗った女性は、窓の外を指さした。
「この雪を、飲料水にする。」
ハトルはそれを聞いて、しばらくポカンとしていたが、やがてため息をついた。
「ババア、とうとうモーロクしたか。」
「失礼だねぇ。私はいつだって大まじめだよ。」
「この水を飲めるわけねーだろ。上の連中が工場から出した毒が、いっぱい入ってんだぞ。この前3丁目のゴロツキがトチ狂って食っちまって、そのままあの世に行っちまったじゃねえか。」
マダムはハトルの話を、にやにや笑いながら聞いていた。
「だからだよ。これが飲めるようになりゃ、この街が毒の雨や雪に苦しむ必要は無くなる。素晴らしいことじゃないか。」
「できっこねーって。」
「出来るか出来ないか、じゃないんだ。やるんだよ。だからハトル、手伝え。」
マダムはハトルの二の腕を掴んで、ぐいと引っ張った。
「作業着に着替えてきな。」
「……ヤだ、って言ったら?」
「朝飯と昼飯と夕飯抜きだ。」
「1日飯抜き、でいーじゃんか。」
ハトルは頭を掻き、着替えを取りに自分の部屋へ向かった。
「よし、これで大体良いだろう。」
マダムは額の汗をぬぐった。窓の外は相変わらず雪が降っていたが、雲の向こうから染み出る太陽光は消え、ただひたすらに暗い世界が広がっていた。
「結局朝飯も昼飯も抜きだったじゃねぇかよ。」
ハトルは作業帽を地面に放って、大きく伸びをする。そしてそのまま重力に身を任せ、床にへたり込んだ。
「まぁまぁ、いいじゃないか。装置は出来たんだしさ。」
マムの言う通り、彼女達の目の前には機械が一台、鎮座していた。樽のような形状をしたボディから、排煙筒と思しきパイプが2本、天井へと繋がっている。一般的なストーブに酷似していたが、それにしてはボディの脇についた蛇口が、明らかに異質だった。
「このパイプから熱を持った空気を吐き出して、屋根に積もった雪を溶かす。そんでその水をもう一方のパイプから引き込んで濾過。そーすりゃ美味しい飲み水のできあがりって訳だ。」
「それ、5回くらい聞いた。」
「悪いねぇ。年を取ると物覚えが悪くってさ。」
からからと笑うマダムに、ハトルは再びため息をついた。
「それじゃあ、早速やってみようかね。」
マダムは胴体に付いているレバーを引いた。装置がうなり声を上げ、活動を開始する。しばらくして、もう一種類音が加わった。片方のパイプから、流れ落ちる水音が響き始めた。
「もうすぐだねぇ。」
「うん。」
マダムは身を乗り出して、うなり声が大きくなり始めた装置を見つめる。乗り気ではなかったはずのハトルも、祈るように手を握り、マダムと同じ方向をじっと見ていた。
チン、という音が鳴った。装置に取り付けられたベルの音だ。
「行くよ。」
ハトルは黙って頷いた。マダムは傍らにあった、使い古されたコップを手に取る。そしてそれを蛇口のしたにあてがい、栓を回した。
水が出てきた。透明で、異臭もない。第一段階はクリア。しかし、まだ分からない。8分目に水を注ぐと、マムはそれを口に含んだ。
「……どう?」
ハトルが聞く。マムは答えない。水を口の中で、右へ左へ動かしている。
ぴしゃり。水音が響いた。マムの口から、床へ吐き捨てられたものだった。
「飲んだらヤバいね。これ。」
ハトルの瞳が、少しづつ呆れと落胆に染まっていく。完全に切り替わると、彼女は今日一番のため息をついた。
「結局だめじゃねーかよぉ。」
ハトルは両手で頭をかきむしり、手足をめちゃくちゃに動かし始めた。やりきれない悔しさを、どうにかしてやりきろうと努めているようだった。
「なんだい、結局お前が一番悔しかったんじゃないか。」
「悔しくねーよ!モーロクババアに付き合って1日無駄にしたことがヤなんだよ!」
マムは心底愉快そうに笑った。失敗しても、彼女はこたえていないようだった。
「『飲んだら死ぬ』から、『飲んだらヤバい』くらいになったんだ。素晴らしいことじゃないか。」
「うるせーよ!」
マムは再び笑った。そして、ハトルの頭を撫でる。
「腹減ったね。飯にするかい。」
「肉。それか甘いもん。くれ。」
ハトルの声を無視して、マダムは隣の部屋へ入り、すぐに戻ってきた。両手には、丸形の黒いパンがひとつづつあった。
「ほらよ。」
「肉でも甘いもんでもねーじゃん。」
「それ以上のご馳走だよ。空腹は最高の調味料、さ。」
マムはハトルに押しつけるようにして、黒パンを彼女の掌の上に置いた。ハトルは少しためらっていたが、やがてそれを口に運ぶ。パンはなかなかに硬いようで、噛みちぎるのに難儀しているようだった。数十秒の格闘の末、ようやく口にひとかけら放り込んだ。
「マズい。なんかすっぺぇし。」
「口にモノを入れたまま喋るんじゃないよ。行儀の悪い。」
「別に良いじゃねえかよ。二人しかいねーんだしさ。」
「そういう問題じゃないよ。マナーさ。マナー。」
二人の会話は続く。夜は更け、雪が積もっていく。
「ハトルさん、どうかされましたか。」
リーゼにそう言われて、ハトルが我に返った。ぱちぱちと弾けるたき火の火に照らされた顔は、せわしなく色が変わっている。炎が燃える音の遠くには、木々が葉を揺らすささやきくらいしか聞こえない。
「なんでも無い。」
ハトルはそう言うと、手に持っていた黒いパンにかぶりつく。それを即座に噛みちぎると、2、3度咀嚼し、嚥下する。
「マズいんだよな、これ。すっぺーし。」
ハトルはリーゼの方を見た。彼女もまた、同じく座って黒パンを食べている。しかし食べ方は大きく異なり、芋虫が木の葉を囓るように、少しずつ、上品に食べ進めていた。
「マズいだろ、それ。」
「いえ、そんなことは。」
その返事を即座にしようとした反動か、リーゼがむせる。ハトルの口角が、ニヤリと上がった。
「ウソつくなって。王女様にはキツいだろ。」
「でも……せっかく用意してくださったものですし。」
「いーんだって。遠慮すんなよ。」
リーゼは口をつぐんだ。目を左右に動かしながら少し考えた後、口を開く。
「個性的な味、ですね。」
「何だよそれ。」
ハトルは小さく笑い、残りのパンを口に放り込む。
「よし、寝床の準備して寝るぞ。」
「はい。……寝床、あるんですか?」
「作るんだよ。」
「……はい。了解しました。」
ハトルは一度背中を後ろの方へ傾け、前に起こす反動で立上がった。リーゼはそれを見て、優雅に腰を上げる。彼女達の頭上にぽっかりと開いた樹冠の穴から、星空が太陽に負けない気概で輝いていた。
とりあえず週1投稿を目指します