抽象から具象へ
Dear my friend
9次元が8次元を生み、8次元が7次元を生み、7次元が6次元を生み、6次元が5次元を生み、5次元が4次元を生み、4次元が3次元を生んだ。3次元は2次元を生み、2次元は1次元を生んだ。
それは、ひとつの細胞が分裂し、無限の細胞が生まれるように。そして、そのひとつひとつの細胞が意思を持って生きているように。世界は多世界へと進化していった。
記憶喪失の男
ある田舎町の道路を一人の男が歩いていた。その男は白くしわの寄ったワイシャツに。量産品のスラックスを履いていた。リュックを背負っているが、旅人とは異なる。
「もしもし。」
その男の横に自動車が止まり、中から二人の男が降りて来た。男たちは、青い制服を着ている。また、男たちが降りて来た車は白と黒で塗られている。彼らは警察官であった。
「あなた、どこにいくんですか?身分証明書とかあります?」
ボードに挟まれた調査書を記入しつつ、一人は紙の見つめながら、もう一人は男を見つめながら、得体の知れない男に問い掛けた。
「覚えていないんです。それが。」
「…。」
警察官の二人はお互いに顔を見合わせると、男にパトカーに乗るように指示した。
警察病院精神科一般病棟
「一種の記憶障害のようですね。」
男の持ち物に身元を特定するような物はなかった。取り調べを受けた後、住所不定により、警察署の保護室に収容されて、その間、警察病院で検査を受けることになった。
「自然に記憶が戻るのを待つしかないでしょう。」
男は行き先不定のまま、とりあえず、精神科一般病棟に入院することになった。
「『ムラサキイガイ』、『臭素中毒』、『不自由からの逃走』。」
男が持っていたメモ帳には、その二つの言葉が書かれていた。他の言葉は、なぐり書きや重ね書きがひどくて判別不可能であった。
「臭素中毒やムラサキイガイの中毒症状で記憶障害を引き起こすことがあります。」
「臭素中毒は分かりましたが、ムラサキイガイとはどういうことですか?」
「あれです。あの生牡蠣とかを食べて腹痛を引き起こすやつ。それとは、違う種類で、貝の体内にエサを介して毒素が蓄積されていき、それを食べることによって、中毒症状が出ます。」
「なるほど。では、あの患者は、それらが原因で記憶障害になったということですか?」
「その可能性はあります。」
「『不自由からの逃走』とは何でしょうか?」
「さあ。専門外ですが、『自由からの逃走』という本ならあるはずですが…。」
『近代社会は、我々が思っているよりも、脆く、また多くの人々に不安を引き起こした。…。そして、人々は不安から逃れるべく。我々の祖父や曾祖父が自由を求めたのと、同じくらい熱心に、真面目に、彼らは不自由を求めた。』
「要するに、発達した自由社会は、人々の個性と自由を保障するが、人々が真に精神的自由を手に入れない限り、それに耐えられなくなり、もとの不自由な管理、封建的社会を希求するってことのようですが、何か心あたりはありますか?」
「ありません。」
男の取り調べは、続けられていたが、さしたる進展もないまま、病状が回復するまで、経過観察をすることになった。
脳は予測装置
保育士の越野羽矢は、学生の頃から子どもが好きで将来は保育士になろうと決めていた。保育の専門学校で学び、卒業してからは、地元から2駅離れた、やや田舎町の保育園で働いていた。
「羽矢ちゃん。早く結婚しないと婚期遅れるよ。」
「真田さん。女性同士でも、セクハラって、成り立つの知ってました?」
「あら。やだ。」
「冗談ですよ。」
「でも、保育士って、意外と気がついたら周りの友達はみんな結婚してたっていうの多いのよ。」
「それって、保育士に限らず、みんなそうなんじゃないです?」
「そうかも知れないけど、保育士って、出会いが少ないから、彼氏くらい作っておいた方がいいわよ。」
「ありがとうございます。」
羽矢の周りにも、結婚した友達はたくさんいた。
「(出会いが少ないって言っても、男の保育士も多いし…。)」
そのような友達たちは、皆、こぞって休日は婚活パーティーやお見合いパーティーに参加して、良い男を勝ち取っていったという。
「(私は別に男いらないしなあ…。)」
正直、面倒くさいと思う。
「(子どもならまだいいんだけどね…。)」
この前も園の男の子に、先生のお嫁になってあげると言われた。
「お嫁じゃなくて、お婿さんっていうのよ。」
そう教えてあげた。
「ただいま。」
アパートの部屋の扉を開けても、出迎えてくれる人はいなかった。
「(そりゃ。一人暮らしだし。しょうがないか…。)」
荷物を置いて、シャワーを浴びた。
「(なんかあったかな?)」
冷蔵庫の開けても、たいした物はなかった。
「(ま。ビール買いに行くついでだし。)」
高校時代のジャージを来て、近くのコンビニに出掛けた。以前、この格好で歩いていたら、未成年に間違われて補導されかけた。
「(そんな幼く見えるかね?)」
それは高校のジャージを来ていることが最大要因ではある。何せ、胸に〇〇高等学校と書かれているのである。
「羽矢ちゃん。その格好でビール買いに来るのやめてよ。」
コンビニ店長の矢田が言った。
「この前、PTAから苦情があったんだよ。未成年に酒を販売してるって。」
「まじ!?」
「嘘なんかつかないって。」
「以後、気をつけます。」
矢田は缶ビール2缶とチキンライス1皿。6個入りたこ焼き1パックを羽矢の手提げ袋に入れた。
「1246円ね。」
コンビニの前には、高校生が屯していた。
「(本当は、まじで売ってんじゃないの…。)」
部屋に帰ると、ビールが冷えるまで、スマホで、サッカーのUEFAヨーロッパリーグを観戦していた。
ピンポン。
「誰?」
インターホンを見ると、中年女性と男性。警察官が見えた。
「なんか私やばいことしたっけ…?」
見つかって法に触れるような物はないが、一度、部屋の中を見回してから、扉を開けた。
「はい。」
「すいません。私、区役所の生活福祉課の青木と申します。」
女性は名刺を渡した。
「私、駅前交番の前田です。」
警察官が名前を名乗った。
「隣の部屋にですね。明日から、こちらの吉田茂雄さんという方が入られるんですけれど…。」
青木は、隣に立っている男性を紹介した。
「吉田です。」
ぺこりとおじぎをしたその男は、ぱっと見ても、年齢は分からなかった。
「ええと。吉田さんなのですが、実は、記憶障害を患ってまして。」
「記憶障害ですか?」
「ええ。昨年末に、県道で歩いているのを警察の方が保護されたのですけど、しばらく、入院しても、身元が分からなくて、今まで施設の方で様子を見ていたのですが、医師の方からも、在宅での生活が許可されまして、明日からお隣の部屋で生活をすることになりましたので、何か変わったことがありましたら、区役所か前田さんの方へご連絡を下されば思いますので。」
「はあ。」
羽矢は3人の姿を眺めた。突然のことだったので、頭が付いていかないところはあるが、なんとなく事情は分かった。
「交番の電話番号はご存じですか?」
前田が尋ねてきた。
「いいえ。」
羽矢がそう言うと、前田は胸ポケットから手帳を取り出して、さささっと、交番の電話番号をメモして破り、羽矢に渡した。
「目のつくところにでも、置いておいて下さい。」
「それではよろしくお願いします。」
そう言うと、3人は帰って行った。
「記憶障害って…。」
羽矢は前田が書いてくれたメモを冷蔵庫に貼ると、扉を開けて、中から、冷えたビール缶を取り出した。
「(記憶喪失ってことかな…。)」
缶を開けてビールを一口飲むと、羽矢は、チキンライスとたこ焼きをレンジに入れた。
「(酔ってなくてよかったわ…。)」
カーペットの上にうつ伏せになり、ビール缶片手にスマホでサッカー中継を見る。
『我々の目にしている色というのは、本来存在するわけではなく、これは人間の脳が作り出した現実に他なりません。錯視という物があります。こちらをご覧下さい。この絵は実際には動いてはいないにも、関わらず、私たちの脳はこの絵を動いていると認識します。こうしたことから、人間の脳というのは、様々な外からの刺激に対して、様々な現実を作り出して、将来を予測する一種の予測装置だとする考えが認知科学者の間では広がりつつあります。』
羽矢はいつの間にか眠っていた。スマホはテレビ番組を映し出していた。その番組では、司会者とタレントが、専門家を交えて最新の科学情報を紹介していた。
自由からの逃走
「待ちなさい。」
保育園では羽矢が園児を追いかけていた。
「先生のお尻を触っちゃだめって言ってるでしょ。」
「だって、先生、胸はぺちゃんこなんだもん。」
「ゆうやくん。あなた、お説教ね。」
遠くでは、真田が園児を教室へ連れて行っていた。
「ゆうやくん。困っちゃいますよ。」
「あの子。ませてるからね。」
「今度、もう一度、定例会で言わないと。」
「だけど、親御さんもどうしたいのかしら?」
「さあ…。」
仕事が終わり部屋に帰ると、シャワーを浴びた。
「(思い出すとむかついてきたな…。)」
胸のことだろうか。シャワーを終えると、羽矢はコンビニに行った。
「(あ、また、ジャージ着て来ちゃったけどいいか…。)」
「いらっしゃいませ。」
「げっ…。」
レジは矢田だった。羽矢の脳裏に矢田の舌打ちの音が聞こえた。
「こんばんは。」
買い物を終えた男が一人。袋を提げて出て行った。
「(あの人…。)」
羽矢が返事をする前に男はすたすたと歩いて行ってしまった。
「羽矢ちゃん。今の人。知り合い?新しい人だったけど。」
「うん。隣に越して来た人。記憶喪失?なんだって。」
「なにそれ。ドラマみたいじゃん。」
「本当にあるんですね。そういうの。」
「僕は羽矢ちゃんが記憶喪失なんじゃないかと、ときどき思うよ。」
「あ、そゆことか、店長。うまいな。流石。男前。」
適当に流して、ビールの前に行った。
「1599円ね。」
ビール缶2缶。スタミナ弁当1個。セロリスティック1箱を袋に入れて帰った。
「(私、オヤジみたいだな…。)」
オヤジギャルという言葉があったのを思い出した。
「(あれ、誰が言い始めたんだろ?)」
羽矢は自分ももはや化石化しているのではないかと思った。
「あれ?」
アパートに戻ると、隣の住人が扉を開けたまま、右往左往していた。
「どうかしましたか?」
「すみません。ガスコンロってどうやって使うんでしたか?」
「え、?ガスコンロ。」
羽矢は驚いたが、袋を提げたまま、靴を脱いで、キッチンに上がった。
「ガスコンロってこれですか?」
「はい。」
そこには、羽矢の部屋と同じ物が備え付けてある。
「これなら、こうやって元栓開けて、コック捻れば…。」
ボッ。
「あとはこれで調節するんですけど、分かりました?」
「ああ。なんとなく思い出しました。ありがとうございます。」
「いえ。」
羽矢は靴を履いて自分の部屋に戻った。
「(あの人、まじで記憶喪失だったんだ…。)」
区役所の職員と警察官が来たのだがら嘘のはずはないだろうが、改めて、分かった。
ピンポン。
隣の住人だった。
「えと…。何か?」
「すいません。お風呂の入れ方。分かりますか?」
羽矢は隣の風呂場へ行き、給湯機とシステムバスのシャワーの使い方を教えてあげた。
「分かりました?」
「なんとなく思い出しました。ありがとうございます。すみません。本当。」
「いえ。」
「なんか。いちからすべてを覚え直しているみたいですよ。」
「そすか…。」
「ありがとうございました。本当。」
羽矢は自分の部屋に戻った。
「(あんまり来られても困るけどな…。)」
そんな心配も杞憂で、その後、男がインターホンを鳴らすことはなかった。
吉田という男
「男ってのわね。ある意味。子どもに戻りたいわけですよ。うちの彼氏なんてしょっちゅう甘えてくるんだから。」
「里佳それ。なに。のろけてんの?」
「じゃなくて、男は子どもに戻りたいの。でも、それじゃあ、ダメだから、そこのところをうまくやって、大人のままにしといて、稼いで来てもらわないといけないのですよ。」
「里佳それ、結局、お金って言ってるだけだよ。そんなこと、彼氏の前で言ったらだめだよ。」
「言うわけないじゃない。ねえ。羽矢。」
アパートから2駅離れた地元の町の居酒屋で、同級生たちと、飲んでいた。
「なんで男は子どもに戻りたいわけ?」
羽矢が飲むのは、相変わらずビールである。
「そんなの、男に聞かないと分かんないけど…。」
「里佳は、なんでだと思うの?」
「そうだなあ。私たちもそうかもしれないけど、大人になると、だいたい人生のレールが決まっちゃうじゃない。子どもだと、まだ、先は決まってないみたいなところがあるけど。可能性がほしいんじゃないの?」
里佳はレモンチューハイを飲んでいた。
「里佳。それ、今、つけたっぽい話だよ。」
「瑠菜も彼氏いるんでしょ?」
「彼氏っていうか。友達っていうか。」
瑠菜はカルーアミルクを飲んでいる。
「あんた。また。そんな3人も4人も男作ってると、ろくなことに合わないよ。高校のとき先輩に目つけられて、ひどい目にあったの忘れたの?」
「覚えてないなあ…。」
「少しは羽矢を見習いなよ。男っ気の一欠片もないんだから。」
里佳は酔っているのだろうか。それとも普段からこんな感じなのだろうか。
「あんた。けんか売ってんの?」
「うそうそ、ごめん。だけと、男も女も、可能性に夢を見たいんだと思うよ。白馬の王子様的なことじゃないけど、変身願望っていうのかな。」
「うまくごまかそうとしてる。」
「まじ、まだおこなの。ごめんって。」
終電には間に合った。
「じゃね。」
「またね。」
里佳と瑠菜は彼氏か友達を呼んでいるみたいだった。
「(生ビール。3杯だけだけど。ちょっときついかな…。)」
明日は、保育園である。
「(隣、灯り消えてるな…。ま、そりゃそうか。)」
もうすぐ、日が変わる。
「(明日、シャワー浴びよ。)」
部屋に入ると、羽矢はそのまま、カーペットで横になり眠った。
羽矢が部屋で酔って眠っている頃、隣の部屋では、吉田が、鍋で何かを茹でていた。キッチンは真っ暗で、電気はついていなかった。
具体性の記述1
「吉田さん。どうですか。生活の方は?」
「ええ。なんとか。いろいろ生活の仕方も思い出して来ましたし。」
月に一度の区役所の職員の訪問である。
「ごみ出しとか、曜日の感覚とか大丈夫そうですか。」
「ええ。」
「はい。それでは。また、改めてひと月後にお伺いしますので。」
職員は帰って行った。
「ごみか…。」
部屋の隅には、18Lのポリ袋が置いてある。半透明のその中には、もう一枚、コンビニのレジ袋に入れられた何かが入っていた。
「次は金曜日。3日後か…。」
生活保護を受けながら、吉田は暮らしていた。
「こんばんは。」
吉田の部屋は一番角にある。隣の住人には、夕方から晩にかけて、時折、出会う。
「こんばんは。」
若い女性であるが、何者かは知らない。吉田はコンビニに出かけた。
「いらっしゃいませ。」
「今日は暑いね。」
「そすね。」
よく見かける店員は、金髪のちょっと変わった髪型の人であった。かといって、若者というわけではなく、吉田と同じくらいかもしれない。
「ここらへんで業務用スーパーはないかな?」
「業務用スーパーすか?ちょっと心当たりないかな。すません。」
「いや。ありがとう。」
弁当を買って帰る途中、隣の女性にあった。高校名が入ったジャージを着ているが、まさか高校生ではないだろう。
「よく会いますね。」
女性の方から声を掛けてくれた。
「すみません。この辺りに業務用スーパーはないかな。」
「業務用スーパー?ちょっと待って下さいね。」
携帯電話で調べてくれているみたいだった。
「一番近いところで、2駅先ですね。えっと…。ちょっとここにいて下さいよ。」
女性はコンビニに走って行った。
「これ地図です。手書きで分かりにくいかもしれないですけど。下りの電車に乗って2駅。〇〇駅で降りて、北口。〇〇っていうファミレス分かります?その裏にあるみたいです。どぞ。」
手書きのメモをくれた。
「ありがとう。あなたはやさしい方ですね。」
「とんでもない。」
アパートに帰る。
「なんで業務用スーパーなんて探しているのかな?」
それは吉田自身にも分からない。ただ、何か業務用スーパーという言葉と空間が吉田の体の中に刻まれているようであった。
「もしかしたら業務用スーパーで働いていたのか?」
翌日。下り電車に乗って、〇〇駅で降りた。
「あそこか。」
ファミレスの裏に業務用スーパーはあった。吉田はさっそく中に入ってみる。
「いらっしゃいませ。」
店内には、雑多な物がいろいろと置いてある。
「(ここに何があるのだろうか…。)」
ざっと店内を見て回る。菓子類。酒類。季節の品物。並んでいるものを眺めながら歩いて行く。
「あ…。」
吉田はある品物の前で立ち止まった。
「これか…。」
吉田は手にした品物に心当たりがあった。その品物を2、3個、レジに持って行った。
「945円です。」
1000円札を1枚出して、おつりをもらった。レジ袋を提げて、上り電車に乗る。袋を触ってみると、冷たい。
「こんばんは。」
「こんばんは。」
隣の女性だった。
「業務用スーパーありました。」
「ああ。そうですか。よかったですね。」
部屋に上がると、吉田は買って来た物をレジ袋ごと冷凍庫に入れた。
「あとは、これを茹でるだけか…。」
夜になると、突然、落ち着かなくなるときがあった。そういうときは、何故か鍋にお湯を張り、何かを茹でると落ち着く。
「分かった。俺はこういう仕事をしていたんだ。」
そのことを体が覚えている。だから、それと同じことをすると、心が落ち着く。そういうことだと思った。夜も遅くなった頃、吉田は鍋にお湯を沸かして、今日、業務用スーパーで買って来た物を茹でた。近所に迷惑になるかと思いキッチンを真っ暗にしていた。
具体性の記述2
吉田の記憶にはもうひとつ覚えがあった。
「780円になります。」
コンビニから、歩いて20分くらいのところにあるドラッグストアに吉田はいた。
「ありがとうございました。」
レジ袋に小さな箱を入れて、歩道を歩く。今日は知り合いに会うことはなかった。ガサガサという音を立てて、中身を取り出して2、3個飲んだ。
「懐かしい。この感覚…。」
飲んで30分もすると眠くなる。眠気を受け入れて吉田はそのまま眠りについた。
「う…。」
目を覚ますと真夜中であった。
「さてと…。」
男は立ち上がる。冷凍庫から袋を取り出す。コンロの上にある鍋に水を入れて、火をつける。そして、早くも水が沸かないうちから、袋を開けて中身をバラバラと鍋に入れる。一連のその行為を男は慣れた手つきで流れるように行う。暗闇の中のその姿は吉田茂雄ではなく、別の誰かであった。鍋の中身が茹で上がると、パクパクと口に入れて、ムシャムシャと咀嚼する。廃棄物はレジ袋に入れてから、ゴミ袋に入れる。食べ終わると、ドラッグストアで買った箱から中身を2、3個飲んで眠りについた。
「こんにちは。」
「こんにちは…?」
目を覚まし、扉から顔を出すと、見知らぬ人から挨拶を受けた。男は部屋に戻った。
「知り合いか…?」
その女性に見覚えはない。
「どこだ?ここは…。なぜ、私はこのアパートにいる?部屋の鍵?何故こんなものを持っている?」
初めての場所だった。気がついたらここにいた。
「帰らねば。」
男は部屋を飛び出した。辺りは見たこともない景色が広がっていた。男が歩くと、駅がある。
「6079円」
それが男の財布に入っていた。駅の名前は知らない。
「私はどこから来たんだ?」
何故、ここにいるのかも、自分が誰なのかも分からない。とりあえず、男は勘を頼りに電車に乗った。
不自由からの逃走
「最後に見かけたのは、月初めぐらいの日の朝でしたかね…。」
「そのとき、何か変わった様子とかありました?」
「普通に挨拶したくらいですけど…。」
羽矢と警察官の前田が話をしていた。
「そうですか。」
前田はメモをしまった。
「そういえば、前、業務用スーパーを教えてくれって言われたので、〇〇駅の近くの業務用スーパーを教えましたけど。」
「それはいつ頃のことですか?」
「えっと…。最後に見た1週間前くらいだったと思いますけど…。」
「分かりました。また、何か思い出したら、交番の方へ電話して下さい。」
前田は自転車に乗って帰って行った。
「(何か思い出したんじゃないのかな…。隣の人?)」
羽矢は部屋の中に戻った。そこは、いつも知っている。羽矢が生活している部屋であった。
「(里佳から…?)」
『来週の日曜さあ
瑠菜もつれて三人で合コンしない
うちの彼氏には内緒でさ
羽矢もずいぶん長いこと男と飲んでないでしょ、
ε=ε=(ノ≧∇≦)ノ
男達は、瑠菜が集めてくれるってさ(≧∇≦)b』
「(合コンかあ…。)」
『おけ。(||゜Д゜)ヒィィィ!』
『恐がんなくて大丈夫だってば(^_^)
じゃ。また連絡すっから。』
「婚活しようかな…。」
ジャージ姿のまま、羽矢はベッドへダイブした。
その頃、吉田茂雄いや、見知らぬ男は、そこから何百kmか離れた県の見知らぬ土地に、突然、降り立ったように、どこから来て、どこへ行くのかも分からぬまま。ふらふらと歩いていた。彷徨っている。という形容が正しい。男はやっと培った記憶と人生を放棄して、彷徨い歩いている。それは、事の初めは意図的な放棄なのか、それとも不作為的な放棄だったのかは、分からない。ただ、分かっているのは、男はやっと、名前を手にして、生活に慣れて、新しい記憶を作り出したとしても、男の体に刻まれた記憶と意欲によって、振り出しに戻る。男には安住や将来設計などという概念は通用しない。あるのは、何故自分が今ここにいるのかという疑問と自分はどこに向かっているのかという疑問だけである。それは、人間にとっての永久の哲学的問題である。しかし、その人間最大のテーマは、男にとっては、哲学ではなく、実学的テーマであった。
「ここはどこ?私は誰?」
さまよえるユダヤ人は、イエスを。さまよえるオランダ人は神を罵った罪で世界や海を放浪しているという。では、この男や私たちは何故に彷徨っているのだろうか。
「もしもし。あなた、どこへ行かれるんですか?」
その問いかけに答えられる者はどのくらいいるのだろう。