憤瘤 ~anger-oma~
彼はいつも耐えていた。
日常的な悪徳・無神経・無能な者たちの稚拙な世渡り…。
そういったモノに、強い憎悪とイラ立ちを感じながらも、頚をすくめて、少し背中を丸めてやり過ごしていた。
ある時、ふと、背中に小さな違和感を感じた。
両方の肩甲骨の間、ちょうど、一番手が届き難く、鏡に映しても、振り返って見るのが難しい辺り…。
そして、すぐに忘れてしまった。
ある日、無能な老人の、下劣な行為が視野に入った。
不快なので、視野から外す。
チクリと背中が痛んだ。
ある日、無能な上司が、無能な話を大仰に語るのを聞いた。
耳障りなので、聞き流した。
チクリと背中が痛んだ。
同じ日、上司の子分が、分別顔で部下を叱り、
他の部署に、的外れな怒りをぶちまけているのを聞いた。
黙殺しながら、チクリ、チクリと背中の痛みを感じていた。
別なある日、厚顔な女が、媚びた態度で、下卑た甲高い笑い声を挙げているのを見た。
眉間にシワを寄せて、視界の焦点をぼやけさせた。
背中で、何かが、ムクリと疼いた。
毎日毎日、下劣なヒトたちの下劣な姿に触れる度、彼は眼を背け、耳を眠らせた。
その度に、背中はチクリと痛み、ムクリと疼いた。
ある日、彼は、背中の『それ』を初めて見た。
赤黒く腫れ上がった『それ』は、鏡越しでも判るほど大きく、背中全体を覆い、
徐々に盛り上がった中心には、所どころ、湿ったヒビ割れが出来ていた。
痛みは、彼の呼吸や鼓動に合わせて、背骨を伝わり、ヂュクヂュクと頭に響いた。
もう、背中を真直ぐに起こすのも辛くなっていた。
日に日に猫背がひどくなり、
歩いたり、身動きする度に、ヂュクヂュクと小さな音を立て、
ほんの少し、イヤな臭いを放つ彼のコトを、周囲のヒトは、気にも留めなかった。
その日の会議も、彼には苦痛そのものだった。
無能な上司の、愚にもつかない問題提起に、
老人は、無駄な尊大さで、中身のないコトを語り、
それを最後まで聞かずに、上司の子分は、他の部署への無用な敵意をまき散らし、
女が、ワケも分からず、追従の哄笑を吐き散らした。
結局、何も決められぬまま、各々が、射精後の賢者面でニヤつき始めた頃、
彼は、ボソリと呟いた。
「みんな…、しねば…、いいのに…。」
背中のイヤな臭いが、強くなっていた。
「ハァ?!」
上司の子分が、好戦的な目を向けた。
「もう一度言ってみろ!!」
日頃から、彼を責め立てる機会を狙っていた老人が詰め寄った。
「みんな、死ねば…いい!!!」
彼が顔を上げ、はっきりと、そう言った瞬間、
ヂュク…ヂュク……ブシュウ~~!!!!
彼の背中から、湿った音と共に、赤黒い霧状のモノが噴出し、耐え難い悪臭が部屋の中に充満した。
女も、老人も、上司も、子分も、
皆一様に、充血した両眼から涙を流し、
止めどなく嘔吐し続けながら、苦痛の声を上げて、床をのた打ち回った。
彼は、その様子を、独り静かに見つめていた。
やがて、部屋は静かになった。
吐物と糞尿の臭いに満ちたそこを、彼は独り出て行った。
背中を真直ぐに伸ばし、しっかりと前を見据えて。