鼻血で始まるヒーリング
2020/03/20 漢字表記など微修正を。
■■■ 鼻血で始まるヒーリング ■■■
始業時刻を過ぎた辺り、空を眺めれば日の昇りが徐々に早まっている事を実感できる。北北西から吹いて来る風は気持ち強めで、日陰に隠れてしまうと少し肌寒い。これが風通しのいい薄暗い室内ともなると寒さに拍車が掛かるもので、日の光がより一層愛おしくなって来る。
保健室隣の準備室でトキミはそんな事を考えながら大小様々な瓶の数を確認していた。床下収納の重たい蓋を難儀して開けている最中、聞こえて来た控え目なノックの音に彼女は応じる。
「~っはい、どうぞ。」
「失礼します。」
「ああ、お疲れ様です。」
「どうも、毎度お世話になってます。」
準備室の戸を開けて現れたのは酒蔵メリーベルの配達員ポンザ・ロウバル、少し太っちょさんだが筋肉質なおじさんである。制帽を脱いだ金髪のツンツン頭は近ごろ後退気味。太い眉毛に円らな蒼い瞳と団子っ鼻、大きな口はいつも笑みのカーブを描いている。何処か赤ん坊を思い起こさせる愛嬌のある顔から、お得意様からは【ポンさん】の愛称で親しまれていた。
トキミは腰を上げると、申し訳なさそうにポンさんを保健室へ案内する。
「すみませんが少しだけ待って頂いていいでしょうか?そろそろ来られる頃と思い一昨日より薬品の棚卸を始めてはいましたが、不明在庫を調べていて時間が少々…」
「ああ、それなら私もお手伝いしましょう。」
「いえ、そんな」
「いいんですよ、パパッとやっちゃいましょう☆。私もただ待ってるだけってのは性に合わないんで×。」
「そうですか…。そう言ってもらえると助かります、お手数をお掛けします。」
酒蔵の配達員の来訪でどうして医療関係者が薬品在庫の確認をしなければならないのかと言うと、メリーベルが薬品の卸売り販売も手掛けており、使用量に応じて薬品を定期的に納めているためだ。メリーベルはかつて自前で賄っていた酒瓶の製造を外部委託するようになり、その伝手で製薬会社と関係が出来た経緯があった。
そしてポンさんはこう見えて酒蔵の物流全ての管理者であり、プロの倉庫番だった。
「──よし。これくらいですかな、」
「こんなに早く──。私一人では昼まで掛かっていたかも知れません、本当に助かりました。有難う御座います。」
「いやあ、収納から取り出すまでが大変な物ばかりです、お一人ではキツいでしょう。ジュウモンジ先生に手伝ってはもらえないんですか?」
「やらせたくないんです。」
「おお。在庫管理もトキミさんのお仕事、任せられないと。」
「私の仕事と言いますか…先生に任せると滅茶苦茶にされて管理も何も出来ないのです。不明在庫の根源も実は先生の仕業でして。」
「ああ、それは困りましたね。」
「私がしっかり管理してあげないと駄目なのです。」
頬に片手を添え小さく溜め息をつく。小さな看護婦の閉じる瞼に日頃の苦悩が見て取れた。
談笑を交えながら、納品・請求・支払など一連の処理が円滑に進められる。
去り際に制帽を被ると、今度はポンさんが申し訳なさそうにトキミの顔色を窺った。
「あのうトキミさん、ジュウモンジ先生はその…ワインをお召し上がりには……ならないですかねえ?」
「?飲まない事はないですが、先生は清酒の方がお好みなので、ワインは滅多に。」
「はぁ、そうですか↓。」
「どうかされたのですか?」
「いやあ、実はウチの上のお嬢さんがですね、最近になって『訪問販売をします!』なんて言い始めまして、そこで何故か私の所に色々訊きに来るんですよ。私は物の管理が専門で営業は判らないと再三言うんですが、中々理解してもらえないもんで×。いっそ外を回ってる私がワインもお客さんに提供できれば、お嬢さんの気も済むのかなあと…そんな事を。」
情けない笑顔の頬を人差し指で掻く。彼は酒蔵の物流を司っているものの、配達する実物は薬品が主であり、酒類は取り扱った事がない。これは彼が元々製薬会社ゆかりの者であり、メリーベルの人間ではなかった事に起因している。
そう言えば酒を勧められた事は一度も無かった、トキミはそんな事を今更ながら思い返す。
「そうですか、そんな事が。─まあ、解かるような気がします。先生がメリーベルから薬品を仕入れるようになったのは、ポンさんを知り合いの先生から紹介されたのが切っ掛けですから。次期当主がポンさんに求めている情報とは多分、そう言うものなのではないでしょうか。」
「そう言うもの……ですか、」
「うぅん…そうですね、何と言うか……お客から求められるようになる事、『人より愛されるために必要な何か』を知りたいのではないですか?」
「×いやあ、そんな事を訊かれましても、やっぱり私じゃ判らないですねぇ↓。」
「自分の事は自分ではよく見えない、それも仕方のない事。いっそポンさんの働きぶりを間近で見てもらった方が良いのでは?」
「★お嬢さんを連れて回るって事ですか?」
「手っ取り早いかと。」
成程そうですね、寸刻思案したポンさんは助言をくれたトキミに謝意を表すと、いつも通り笑顔で準備室を後にした。つられてこっちまで笑顔になる。
頬の緩んだトキミだが、保健室の戸を開けて早々に額が青筋で隆々としてしまう。自席で背を見せる先生の向こうから、レンガを小刻みに砕くような鈍い音が断続して聞こえて来るのだ。彼女は努めて冷静にそのまま準備室の中へ戻ると、蓋の開いた空き箱を携えて再度現れた。
「お館様、」
「ん?」
「一昨日数えた時にはあったはずの来客用の落雁が一箱分そっくり無くなっているのですが、お心当たりはないですか?」
「在庫は日々変動するのだ。」
「~お手元にあるそれは何ですか?」
「品質保証の期限を最も早く迎える物だ。不良在庫となる前に処分せねばならん。」
「~~日持ちする打物が二日三日で駄目になる訳ないでしょうっ。全く、お茶も無しによくもまあそんな物を延々ガリガリボリボリと……また?またつまみ食いですかっ??」
「トキミ。棚卸とはただ品物の数を数えれば良いと言う訳ではない、現状の品物の価値を正しく把握する事が肝要なのだ。酒など一部の物を除けば、食品は時間の経過で価値が急速に下がって行く。価値を可能な限り損ねないためには、先入先出の在庫管理を透徹し在庫は極力抱え込まない事。これが」
「?」
「どうしたのジェズ、」
「何処か遠くから『重ねた罪をたなおろしー』って裏返った叫び声と、砂袋を拳でボコボコに殴りつけるみたいな連続音が聞こえたような。」
「ジェズ、あんた疲れてんのよ。」
「そうですね…」
二時限目の休み時間、机上へ組んだ腕に顎を埋めていたジェズは頭をもたげた。家臣らの使役のために体力が削られている上、実質休み無しで働き尽くしている。狩りをする余力も無く、彼は回復もままならない状態が続いていた。そんな彼を気遣いミーシャは屋敷において手料理を振る舞うなどするが、期待するような効果は得られず、自らの力不足に歯痒い想いをしていた。
「今度はチーズオムレツ作ってあげるからさ、」
「ありがとうございます…」
「もう、何か不満な訳?」
「×いえ、そんな。僕はいいんです、僕は───リュアラお嬢様が心配だなあと…」
「あーー↓。」
家政婦長の看護もあって二日酔いのリュアラは一日掛からず回復したが、彼女は酒に対するトラウマから、商品を売り込む意気込みがすっかり失われてしまったのだ。伝統の酒造りで生計を立てている身の上にありながらこれは致命的である。
その自覚のある当人も危機感は持ち合わせていたものの、拠り所を完全に見失い、迷走ぶりが周囲の面々を不安のどん底に陥れる今日この頃だった。ミーシャは険しい顔をする。
「廊下を壁伝いにすり足で歩いてるかと思えば、片手にホットグラスできのこ紅茶を味わつつ、もう片手はカチカチボールをリズミカルに鳴らしながら『マルゴト・ヤッテクル』だか何だかうわ言みたいにぶつくさ言ってたなぁ…」
「カルヤさんが『お嬢様とスパーリングしてた』なんて言うから、怖くなって部屋に行ってみたら、体操着姿のリュアラお嬢様が窓際から外を眺めて『タッグかあ#』とかつぶやいてたんですよ??タッグって×…リュアラお嬢様、プロレスラーになっちゃうんですか?」
「いい加減立ち直ってくれないと周りが困る。」
「どうしたら元気になるのかなあ…」
あんたも大概だからね、言葉を口にし掛けてミーシャは思い留まる。
(こっちの方が深刻。いつからやってるのか判らないし、儀式だか何だか知らないけど、あの娘達に血を吸わせるアレ止めさせないと。このままじゃジェズが本当に…死んじゃう。でも、宝石を取り戻さない限り絶対に止めないだろうし…~ぁあもう、どうしたらいいのよっ×。)
「ジェズ君どうしたの?ここのところ元気無いね、」
気を揉むミーシャの横から、教室へ戻って来たケイトが歩み寄って来た。そう言う当人も何処となく元気が無い。ミーシャにはケイトの影が気持ち薄く見えるような気がしていた。
「ケイト疲れてる?ひょっとして体調悪かったりしない?」
「うぅん、ちょっと。─優しいねミーシャ、ジェズ君が元気無い時はちゃんと傍で支えてあげててさ。」
「ぇ?いや、#っべ、別に元気が無いからとか、支えてあげるとか?特別そんなじゃないよ。いつもと同じ同じ、普通だってば。」
「ミーシャが風邪だった時はジェズ君慌てて悪魔祓いまでしてくれたもんねー?」
「☆いやっ。まあ、それは…#それで……」
横目に斜め下へ視線を逃がす。ミーシャに当時の記憶は全く無いが、先のジェズの様子を見れば彼がどれほど自分の事を想い行動していたかなど想像に容易い。平然を装うも血色の良い頬が満更ではないと白状していた。ケイトはちょっぴりふき出す。
「いいなあ、私も癒しが欲しいなあ。」
「いやし…」
ケイトの言葉にジェズは頭を持ち上げた。
「その『いやし』があれば、元気になれる…ですか?」
「ああ、えっとね、いやしって名前の物がある訳じゃないの。身体でも心でも、傷を治してくれるような助けの事を癒しって言うのよ。『ジェズ君元気無いな、おいしい物を食べてもらったら元気になるかな、元気になってほしいからおいしい物を作ろう』…ミーシャはジェズ君を癒してあげてるんだよ?」
「ミーシャお嬢様が、いやし…」
「☆そ、そうよっ。だから元気出しなさいよね、」
「僕もオムレツを作れば…リュアラお嬢様も、」
「さー、それはどうかな。」
「やっぱりミーシャお嬢様じゃないと?」
「×そーじゃない。」
ケイトの眉尻が下がった。
「傷は人それぞれ。癒しも人それぞれだよ。」
少しだけ笑みを浮かべ自席へ戻って行く。赤いショートヘアー、タイトな背中、揺れるスカート、細い脚。ミーシャとジェズはケイトの後ろ姿をぼうっと見つめながら、彼女の言葉を心中で噛み締めていた。言われないと気付かない事でもないのだが、妙に印象的だった。傷も癒しも人それぞれ。
そうか、ならばとジェズは馬鹿正直に思う。
(リュアラお嬢様はどうしたら癒されるのか、いっそご本人から聞いてみよう。)
気持ちが少し前向きになれたような感じがする。
実家の事情が絡むので確認は屋敷に戻ってからする事とした。
そして迎えた夕刻。果樹園の中をミーシャに付いてジェズが歩いていると、メリーベルの私用車が土煙と共にけたたましい勢いで彼らのすぐ横を走り抜けて行った。二人は暫く咳き込む。戻る視界の前方50mほど先の屋敷の玄関に企画部長と家政婦長が渋面で立ち尽くしていた。ミーシャとジェズは顔を見合わせ、立ちんぼの二人の許へ駆け寄る。
「ただいま叔父様、カルヤさん。」「ただいま戻りました。」
「…やあ、二人共お帰り。」「お帰りなさいませ。」
「何かあったの?」
「あー、うん。何から話せば良いやら…」「では私から。」
頭を掻くニコラスの前へカルヤが踏み出す。背筋は張ったまま姿勢を崩さない。
「お昼過ぎにリュアラお嬢様が早退で戻られました。」
「やっぱり具合悪い?」
「心ここに在らずと言った様子との事で、学園の保健の先生が車で送って下さいました。」
因みにそれは高等部の保険医で、ジュウモンジではない。
「登校中も何だかふわふわしてたけど…」
「その場にフォスター様も居られたのですが、リュアラお嬢様の顔を見るなり『儂に任せろ』と意気揚々、車でお出掛けになられました。」
「あぁ、さっきの車はお爺様だったの。」
「いえ、お昼過ぎのお話です。」
「え?じゃあさっきの車は?」
「マシュー旦那様が。」
「お父様も??」
「いやあ×、それがね、」
斜めへ傾くようにカルヤの陰からニコラスが顔を見せる。
「ついさっき兄さんと街から帰って来たんだけど、リビングにリュアラちゃんがとんでもない恰好でやって来てさぁ。」
「とんでもない恰好?」
「リュアラちゃんがまだ小さかった頃の服をムリヤリ身に着けてたんだ×。勿論ピッチピチのぱっつぱつ、下着も丸見えでね↓。僕らがお茶噴き出すのも構わずあっけらかんに『どうこれかわいい?』とか訊くんだ、兄さん卒倒だよ。」
「あじゃぱー。」
「よくそんな小さい服着れたねって一応受け応えしたんだけど、俯いてぶつぶつ『ウマイ、ウマスギル』って。声掛けたら笑顔は見せるんだけど、何かこう……こう言っちゃ何だが、──薄気味悪くってさ~×。」
「で、お父様が車で飛び出したと、」
「『医者持って来おオイェェエエエエ!』って雄叫びを上げた瞬間、車でビューン。」
騒がしい家だなあ、ミーシャとジェズは他人事のようにそう思った。
一行は夕日の差し込むリビングに赴く。幾つかある内の一番大きいソファーに、肩から叔父のスーツの上着を掛けられたリュアラが俯いて座っていた。前髪より下は影に隠れて表情を窺えない。静かな室内では時計の針の音だけがこの場で唯一変化と言うものを表していた。
ジェズはリュアラへ歩み寄ろうとするが、首の後ろを掴まれ横に持って行かれる。後ろを見るとミーシャのしかめっ面が睨んでいた。彼女は内心、姉の下着姿をジェズに見られる事が何だか面白くない。意図の判らぬ彼は少し困った顔をして横方向から蟹のように歩きリュアラへ近付いた。
「あの、リュアラお嬢様?」
「‥‥‥‥‥…‥‥‥‥‥…、‥‥‥‥‥…‥‥‥‥‥…、」
「リュアラお嬢様っ、」
「‥‥‥‥‥…‥‥‥‥‥…、‥‥‥‥‥…‥‥‥‥‥…、」
「──?」
何かを呟いている。彼女の横顔に耳をそばだててみると、
「アジフライ…ナニカケル…、アジフライ…ナニカケル…、」
ジェズはミーシャらの方へゆっくり向き直る。何か意を決した面持ちだった。
「悪魔祓いの支度をしますっ。」
「やーめーれっ。~懲りないねあんたも。ジュウモンジ先生んとこの看護婦さんから怒られたの忘れてんじゃないでしょうねっ、」
「そんな事はないですが、ここは学園じゃないし、火を焚いたって」
「やめなさいっての、馬鹿!」
「×でもでも、この状態はきっと、僕らの伝承による所の…ソースショーユソレトモワタシの悪魔に憑りつかれたに違いありません!」
「~~ぁぁあああもうっ、誰かまともに何とか出来る人は居ないのかな本当に↓。
───
──────────────────ウィル先輩なら…どうするかな?」
「~ぁあ?」
「何?」
「ぃえ、別に……」
珍しくジェズが腹を立てた。こちらの問い掛けに穏やかな顔を取り繕っているようだが、前髪の隙間からは吊り上がったままの太い眉が覗いている、ミーシャでなくともバレバレだ。あのウィル先輩にライバル心を持っているのかジェズは、などとミーシャは感心したり呆れたり。
(馬鹿ねぇ。自分とウィル先輩を比べたって何にもならないのに、つまんない事で張り合おうとしてさ。まあ、出来る男に憧れだとかジェラシーを抱くのは、お年頃の男の子としては普通かもね、気持ちはよく解らないけど。──ジェズはそのくらいの方がいいか……)
彼がひた隠す自身のヘビーな身上の一端を思い返し、ミーシャは小さく溜め息をついた。
「あたし達とは違ったアプローチをしてもらえると思うんだよね。ウィル先輩はお姉様に積極的だし、お姉様の反応も変わるんじゃないかな。」
「★いや、でもでも、ウィル先輩はしばらくテーブルターニングに居るんじゃないんですか?ここへ来て頂くのは難しいんじゃないですかっ?」
「いざとなればお姉様を連れてけばいいでしょ。」
「あああ~あああ~でもそんなお手間を戴くんなら僕がですね」
ジェズが上ずりながら反論を試みる最中、外から耳障りな急ブレーキの音が聞こえ、一同は一様に音のした方へ顔を向ける。間髪入れず後ろから飛び込んで来たのは空挺ジャンプスーツに身を包んだフォスターである。彼は颯爽とゴーグルを頭上へ除けて満面の笑みを浮かべた。
「待たせた待たせた皆の衆!もう安心だぞ!」
「★如何なされましたフォスター様?」
「なあに、ローシェの処に行っとったんだよ。」
「奥様の??」
フォスターの訪ねた人物【ローシェ・メリーベル】は彼の一人娘であり、リュアラとミーシャの母親である。父親譲りの何にも縛られない自由人で、学生の頃より専攻している薬学に傾倒するあまり、メリーベルを離れプラプラとは別の学園に住み込み、非常勤講師の肩書きで研究を続けていた。酒蔵メリーベルと製薬会社との繋がりも彼女の功に縁るものだ。
「ありゃいつだったか、リュアラが麻疹を患った時、治ったはずなのに半月近く臥せっていた事があったろう?」
「12歳の頃ですね。罹った歳が遅かったせいかも知れないとお医者様が。確かあの時は…」
「☆そう!医者に診せても一向に良くならんかったんで、困り果ててローシェの処へ相談しに行ったのを思い出したんだ。それでもって…」
不敵な笑い声を上げながらスーツの懐を探る。ぴたりと止まった腕がゆっくり引かれると、2本の試験管が姿を現した。中には緑色と桃色の蛍光色とに分離した液体が封入されており、揺らめいて怪しい光を立ち昇らせていた。マッドなオーラに初見のミーシャとジェズはドン引きである。
「↑どぉおんな鬱も脱力も晴らしてくれる【魔法の薬】を調合してもらったぞいいいっ☆!」
「★×★×★×!?!?!?→→」
ソファーからリュアラが跳ね起きた。一瞬よろめくと後ずさり胸を庇うように身構え戦慄く。その目は恐怖に見開かれ瞬く事もなく、震える瞳が祖父の手許を凝視する。拒絶の意思が辛うじて首を横に振らせるが、理性の限界が挙動をぎこちなくさせていた。
「ぃい…ぃい、いやっ!それはいや!いやああああああああっ!!」
覚醒したかと思いきや発狂寸前。視認するだけで効果絶大とはなるほど魔法の薬であるが、いささか行き過ぎの感は否めない。服用した当時の彼女の身の上に一体何が起きたのか、あれこれ考えを巡らせるジェズの背中へリュアラが窮鳥の如く逃げ込んで来た。
「××逃げて!」
「えっ?」
「私を連れて遠くへ逃げて!ジェズっ!!」
「───」
一瞬の間。そして次の瞬間リュアラの身体は宙に浮き、物凄い勢いで窓の外へ飛び出していた。後ろから逃げるな待てなど怒号が追い掛けて来るも、それらはみるみる遠ざかって行く。漸くして彼女は自分が力強い何かに支えられている事を理解した。
夕暮れ時の果樹園を小刻みに揺られながら颯爽と進む。木々の影が横へ滑って行く光景を前にリュアラの目は丸くなる。訓練されたかのような静かで規則正しい呼吸に初めて気付くと、全身に強靭な生命力が感じられた。その持ち主の顔は彼女の視界に入っていたのだが、今までまるで意識していなかった。周囲の光が湿気に散るのか、輪郭がぼやけてよく分からないからかも知れない。
やがて果樹園を抜け直接夕陽に晒されたリュアラは眩しさに目を瞑った。それからどれくらい経ったろうか、すり抜ける風がやみ、身体の揺れも納まった事を感じ取って目を開ける。目の前には落ち着いた夕陽を真正面にしたジェズの笑顔があった。
「もう大丈夫ですよ、リュアラお嬢様。」
夢のような出来事、不思議な感覚にリュアラは呆ける。お姫様抱っこをされていると言う今の状況を把握し、羞恥心に火が点き耳まで赤くなるほど顔が熱くなった。おずおずと顔を伏せ、無言のままもう大丈夫の合図をすると彼女は解放された。
心許無く自らの脚で立ったそこは、暁闇にジェズと邂逅した大きな池の畔だった。
(またここ……陽が傾いてて……私、またこんな恰好で↓。)
「……ぁ、ありがとうジェズ。もう大丈夫っ、大丈夫…#だから。」
「☆いえそんな。僕の方こそ、ありがとうございます。」
「え?──どうして?」
「えと、そのっ…#僕、すごく嬉しかったんです☆。さっき、逃げてって…僕の事を…頼りにして下さって。ぇへへへへ♪。」
「そう…なの?」
(とにかく必死だったのは憶えてるんだけど、何をしてたのか全然思い出せない↓。私ジェズにそんな事口走ったの…──この子はそれがそんなに嬉しかったの?そんな事が…)
嬉しいから馬鹿正直に自分を抱え、決して短くない時間をこんな処まで走って来たのか。それが出来てしまうのか。リュアラはジェズの底力にただただ驚き、自らが周囲の者へ与える影響力の大きさを理解しない。
困惑しながらも笑みを保ちつつ、首を横に少し傾げ池の水面へ目を遣る。ジェズの視線が気になって視線を戻すと、彼は顔を池へ向け夕陽に煌く光景を眺めていた。想像を絶する自然の脅威を乗り越えて来たであろう逞しさが彼の姿に見て蕩れる。
ジェズはそのままの姿勢でリュアラに語り掛ける。
「いつものお嬢様に戻られたようで、ホッとしました。
──僕も近ごろ調子が良くなかったけれど、おかげでなんだか…元気が湧いて来ました。」
「ぇ、」
「お嬢様に必要とされている、お役に立てていると思うと力がみなぎって来るんですっ。僕がこうして働いて生きていられるのは、お嬢様のおかげなんですっ。」
「ぉ…大袈裟ね#。貴方は私の声に応えてくれる、私は貴方を必要と感じたからこそ家へ迎え入れたの。貴方は堂々と生きるの、それでいいの。」
リュアラの言葉にジェズは顔を戻した。
銀色の髪が揺らいで瞳が深緑に輝いている。
「だからお嬢様──────僕をもっと、頼って下さい。」
風が凪いだ。
「お一人だけで悩んで苦しまないで下さい。
マイユネーツェお嬢様…メディスン家との確執…宿命───
リュアラお嬢様が『宿命に抗う』とおっしゃるのであれば、僕は喜んで持てる力の全てをお嬢様の願いのために捧げましょう。だから……」
風が吹いて来た。心も身体も包むように、兆しを感じさせる何かが全身に満ち溢れた。湧き上がる喜びに笑顔を見せようとするが、涙でくしゃくしゃになってしまう。泣き声だけは何とか堪えてみせる。
「~~わたし…また忘れてたのね……私には味方が居るんだものね。それなのに一人で空回りして本当、馬鹿みたい…馬鹿だった。
───それをもう一度思い出させるためにここへ連れて来てくれたんでしょう?ありがとう、ジェズ。」
「あぁ…あはははは…」
残念ながら感謝された当人はそんな事など考えていなかった。ここは狩りで通い慣れており、無意識の内に訪れただけである。色んな人がいっぱい味方についてますとリュアラがこの場で諭された事になっているが、それに至る深い思慮などジェズは持ち合わせていない。一人で悩むなの文言もミーシャからの受け売りであるが、彼はその事実を失念している。
リュアラは人差し指で涙を拭うと自然に笑みがこぼれた。
大好きなお嬢様が戻って来た、そう感じるジェズも笑顔になる。
互いに見詰め合う。互いが胸中に暖かいものを感じていた。
そんな良い雰囲気の所へ喧騒が追い着いて来る。遠方から丘を越えて松明の灯りがちらほら現れ始めた。聞こえて来た声は魔女狩りばりに物騒だった。
「★ああっ!見付けたぞ!おおおい皆!こっちだこっち!こっちに来てくれーっ!」「あんな処に居たぞーっ!」「←逃がすな!必ず捕まえろーっ!」「回り込め!←左右から挟み撃ちにするんだ!!」
「お嬢様、どうしましょう、距離を取りますか?」
「──いいえ、もういいわ。私は大丈夫だから。」
「分かりました。」
私は立ち直れた、もう大丈夫だから騒ぎもお終い。等と落ち着いていたリュアラだったが、間近に迫る彼らの先頭に祖父と妹の姿を見て途端に青ざめた。この距離からでも視認の容易な二色のコントラストが今なお二人の手元で存在を誇示している。リュアラは後退りジェズの背中へ身を潜め狼狽した。
「×!×!…ぃや→、やっぱり!やっぱりっ!→→」
「お嬢様?」
「フォッフォッフォッ☆、見~付~け~た~ぞおおぉぉ…」「~もぉお逃がさないからっ…」
「★おおおおおじーさまっ!私はもう大丈夫ですからっ×、だだだだからもう大丈夫!!もうぜんぜ×っ、全然全然大丈夫ですから!!本当ですからっ×!!」
「あ~ぁ、そうだそうだ…。あの時のリュアラもそーんな事を言っとったなあ…」
「★ぁあぁあぁあの時とは状況が違います!私は本当に」
「リュアラ、」
「★はひっ?!」
「良薬、口に苦しじゃ♪。」
「↑お母様の薬はいやあああああっ!
★×★×~~~………───────────────ジェズ…」
身を小さく縮こめ、幼子がおねだりをするようにジェズへ擁護を求める。上目遣いの潤んだ瞳はあざとく見えない事もない。こう見詰められてしまうと、リュアラの強い信頼を得られていい気になっているジェズは、自分の恰好良い所を見せびらかせたくなって来る。声色からしてその気持ちが現れていた。
「フォスター様っ、リュアラお嬢様はお心を取り戻されました、薬の出番はありません!何よりお嬢様はその薬を大変怖がっておられます。どうか…薬はお引き取りいただきたくお願いしますっ。」
「ジェズよ~。お前さんは知らんだろうが、リュアラは小さい頃から飲み薬を嫌っておってなあ。元気な振りで誤魔化して、ちょっとした風邪も長引かせてしまうんだ~あ。」
「え?そうなんですか?」
振り向くと彼女は直視を避け、肩をすくめて双方の人差し指をちまちま突かせている。もじもじしながら視線を戻すとまた上目遣いをするのだ。
「…#ジェえズ~う、」
「☆♪フォスター様!リュアラお嬢様をお守りするためです、ご無礼ご容赦くださいっ←!」
「ほほお☆、儂とやり合うと言うのか?リュアラを庇い切れると言うか…ちょこざいな小童め、フォッフォッフォー←!」
こう見えてフォスターは若かりし頃に飛行船のパイロットを務めた事もある元空軍所属であり、格闘術も兵卒並に覚えがあった。向かって来るジェズを目の当たりに、試験管を持つ手の親指一つでコルク栓を弾き飛ばすと静かに身構え、薬を狙うジェズの手を余裕で去なした。
意外な手強さにジェズは躊躇するが、果敢に老兵へ立ち向かう。相手を傷付けまい配慮と恰好良く見せたい欲のせいで彼の攻めは傍目にも拙く、昔取った杵柄に円熟した老獪さを合わせ持つフォスターには今一歩届かない。鼻先でちらつく薬へ掴み掛かるが巧妙にかわされる、焦らされる。
「~こんのっ←、」
「フォッフォッフォ←♪。」
「頑張ってジェーズーっ!」
「☆#おーーまかせあれっ←←!」
「★ムムッ?!」
リュアラの黄色い声にジェズは奮起する。自分の中で湧き上がる新たな力に大きな歓びを感じていた。軽快な脚捌きで老兵の去なす腕をかわすと背後へ回り込み、彼の肩越しから薬を持つ手の確保に成功した。手首を掴み上げるようにフォスターの身体ごと自ら背を反らせる。老体には厳しい姿勢、苦悶の声が聞こえ出し、ジェズは天に掲げられた薬を仰ぎ見て勝利を確信した。
「☆とうとうつかまえましたよーっ!わーっはっはーっ♪!」
「↑いい加減にしてジェズっ!」
「あ?」
後方よりお叱り、首を更に反らして見える逆さまの世界。目の前には腰へ手をやりこちらを見下ろすミーシャの姿があった。とジェズが思いきや、しかめっ面だった彼女は顔を縦に間延びさせる。次の瞬間、彼は自分の身に何が起きたか分からなかった。
逆さまには見えなかった試験管から二色の液体が彼の開けた大口の奥底へダイブである。
「★×?!?!~~~──────っ、飲んじゃっ×、」
「×あああっ。もう、何やって」
「↑ヒック×!!」
儂の負けだ良くやったと老兵がジェズを称えてその場にへたり込んだその後ろ、ジェズは大きなシャックリをして気をつけになった。ミーシャが祖父の落とした空の試験管を拾い上げた時には、ジェズの顔色が紫から青へ、青から水色へと変化を始めていた。効能を知らぬミーシャは初めて姉の恐怖する薬に戦慄を覚える。
「ちょ……ちょっと、ジェズ?…あんた、大丈夫?」
ホラー小説にあった謎の奇病のシーンを思い出しながら恐る恐る声を掛けてみる。
やがて橙色から赤へと顔色を変化させた彼は、鼻から爆ぜるように血飛沫を上げた。
松明の灯り集う夕暮れの池の畔を少女の悲鳴がつんざく。
自ら形成した血溜まりへ顔から昏倒したジェズはミーシャの懸命な呼び掛けにも応じない。彼女は半狂乱で祖父を問い質した。
「★お爺様、お爺様!この薬って一体何!?どうなるの?!」
「滋養強壮、肉体疲労時の栄養補給に良い『んじゃないか?』と言っとったな。精力剤とか気付け薬とか、そんな物らしい。」
「えっ?じゃあジェズのこの鼻血は……」
「──貴女の想像通りよ。私はあの薬のせいで男子生徒の前で出したくもない鼻血を度々出すはめに遭ったわ↓。小さい頃ならともかく、12にもなってよ?恥ずかしい#……いかがわしい悪夢にもうなされたし、そんな事が一週間も続いたんだから×。あんなのはもう御免よ。」
いつの間にかリュアラが傍に居た。周囲に掛けた迷惑を他所にいつもの調子に戻っていて、ミーシャは内心イラッとする。心神喪失で痴女の如き下着チラ見せの恰好をしているくせに、ステータス異常が恥ずかしいだの言われてもまるで説得力が無い。
ジェズの大量鼻血の原因は精力剤に対する過剰反応である事が判り、ミーシャは自らが未だ所持する薬を後々のために保管しておこうと勝手に決めた。とりあえずは一安心である。
星がそろそろ出て来た。後からマシューらが追い付いて来て、半ば強制連行されて来た町医者が診察させられたのはメリーベルのご令嬢ではなく、鞭を打ち過ぎた老体のハッスルさんと薬をキメた血みどろ小僧。いずれにせよ憂き目である事に変わりは無いかも知れない。借り出された従業員らもお疲れ様だった。
これを以ってリュアラお嬢様を誘拐した不届きな使用人の討伐クエストは完了した。
☆☆☆
暗い地下室、湿り気が身体中に纏わり付いて気持ち悪い。ランプの灯りまでさながら陽炎の如く目に映る。ここ最近こんな役回りばかりクソジジイ共が、繰り鉤ギギシは悪態をついていた。ここはテーブルターニングの工場町、例によって秘密のアジトがある倉庫群の一角である。外は陽もとうに暮れて、港は濃密な霧に包まれていた。
階上から感じられる人の気配にギギシはローブを着込み直す。死角へ身を隠し、懐の得物の具合を改めて確認しながら様子を伺っていると、階段からボロ布を身に纏ったみすぼらしい小男が忍び足で下りて来た。ギギシは息をついて姿を現す。
「遅かったじゃねぇか、」
「…悪いな。ここいらを張ってる奴らが居てよ、回り道で骨が折れたぜ。」
両者は頭の覆いを捲り素顔を晒した。小男も褐色肌で頭はボサボサ、頬のこけた随分と不健康そうな顔をしている。こんな形だが彼はいわく付きの品を扱う取引の仲介人である。
彼を通じて秘密裏に品を入手しようとする客は多い。故に密売人からも彼のような人物は重宝されている。洞は古くから独自の密売ルートを持っているが、仲介人の登場した近年において販路を着々と拡大させていた。
文明の発展により人々の生活は益々豊かになって行く。
しかし、人々の心から闇が潰える事は無くむしろ歪に変化を続けている。
皮肉と嘆くべきか、必然と悟るべきか。
「警察にブツの在り処がバレたか?」
「かもな。この倉庫はもう引き払った方がいいぜ、今日の取引を済ませたらな。」
「とっとと済ませちまうか、─こっちだ。」
ギギシはランプを手に取り木箱の積み重ねられた迷路を進む。湿り気を掻き分ける感触は霧の中と似ているようで少し異なり、閉所独特の圧迫感と息苦しさを身に擦り込んで来るような厭らしさがある。霧に恐怖を感じない彼でも地下室の湿り気にはいい加減気が滅入っていた。
迷路の行き止まりに辿り着くとそこには横長で宝箱のような物が横たわっていた。ギギシの後ろを廻り込みどれどれと手を付けようとする仲介人をキギシの片腕が遮る。
「待ちな。」
「何だ、」
「開けると匂いが立つ。中に咳込まれるとブツにマズい。少し離れてくれ、俺様が開ける。」
馬鹿に丁寧な所作で上蓋を持ち上げる。僅かに開いた隙間から漏れ出たのであろうタールのような毒々しい油の匂いと得も言われぬ刺激臭が彼らの鼻腔を苛む。仲介人は案の定むせた。それ見た事かとギギシは仲介人を横目に無言で開帳する。姿を現したのは人間サイズで焦げ茶色をしたぐるぐる巻きの包帯まみれ、初めて見るけったいな品物に仲介人はしかめっ面をした。
「……これがそうなのか?」
「おう。顔を改めるか?」
「見られるのか?」
「触るなよ、かぶれるぞ。」
ギギシが手袋をはめて包帯の一部へ手を付ける。持ち上げたそこだけは蓋のように外れた。中から覗いたのは若い男の安らかな寝顔、真っ白で端整な顔立ちはまるで彫像のようである。ギギシは仲介人に口元を布で覆えと指図し、手元のメモを読み上げた。
「あー、『ボルフェット国立病院、西病棟2─1室、腎臓内科入院患者、ネミソス・ファー・エイカー、26歳、男』…ふん、こいつで間違いないのか?」
「…客から受け取った写真の通りではある。本物かどうかまで俺には分からんが、死体が無くなったってな事件は知れてるし、この出来なら客も納得するだろう。」
「検収完了だな。それじゃ」
「待てよ、車まで運び入れるまでだぜ。」
「分ーってるよ、細けえな。」
今回の取引の品は彫像ではなく「人の死体」である。恐ろしい事に昔から顧客は一定数が存在しており、洞にとっては特別珍しい注文でもない。因みに、ギギシとこの仲介人にとっては初めて扱う品だった。
遺体は縁者へ引き渡される前に洞が病院から盗み出したもので、洞の誇る呪術師達の手により防腐処理を施され、一級品のミイラに仕上がっていた。ギギシにミイラ作りの経験は無いが、製法のグロさや勝手は重々把握しており、こんな物を欲しいと思う縁者でもない人間の気持ちが彼には理解できない。仲介人と共に宝箱を運びながら妙な気分を味わっていた。
「っ、~酔狂な客も居たもんだな。」
「お陰で俺達が儲けてるんだ、いいじゃねえか。」
「死体をとっといてどうしようってんだ、飾って愛でるつもりか?」
「今回の客はどうやらそれっぽいな。こっちは売り物の用途なんざどうでもいいんでワザワザ客に訊きやしないが、中にはワザワザ教えたがる客も居てな、何考えてんのかサッパリ分からんわ。そんな奴らが俺達を蛮緑だ下等生物だとホザくんだぜ?文明国家??何を上流ぶってんだか笑わせやがる。」
豊かさを力に正道を気取る絹色社会など、歪な闇を知る者の目には卑賤に映る。
「この国の奴らはどいつもこいつも狂ってる。」
狭い中を難儀して移動する。漸く外へ出ると視界は最悪で、光源と言えばガス灯の明かりだけが宙に頼りなく霞むだけ。そんな中をどうやって移動するのかと言えば、長い柄の先に傘を被せたランプを付けた物で、足先を照らしながら建物の壁伝いに進む。闇夜に倉庫群を跋扈する連中がよく使う手法で、濃い霧の中でも進む事は出来るが、結局見えるのは足元だけで周りの見えぬ事に変わりはない。
敵キャラクターのエンカウントは目の前にいきなりである。
「「★おわっ!?」」
「★×どっ~~おい繰り鉤!しっかり持て!」
「待てちょっと置け!──何者だ手前え?」
相手もローブを被り顔は判らぬが、警察でない事は匂いから容易に知れた。
「…持ってる荷物は何だ?」
「俺様の質問が先だ。答えろや、」
「………【ガノエミー】の者だ。」
「──あー、あのペド親父ん所の、」
「~こっちの質問だ、その荷物は何だ?」
「男の死骸だ。欲しけりゃ金出しな。」
「×おい繰り鉤!これは俺の客の注文だぞ!」
「そっちは一見だろ。ガノエミー一家は洞と付き合いが古いんだよ、得る物次第じゃ付き合いを取る。──なんて言っちゃみるが、だいたい男の死体なんて誰が欲しがるよ?心配しなさんな、」
「中を見せろ。」
「そりゃダメだ。流石にこの霧の中じゃ晒せねえ。」
「なら何処か倉庫の中ででも構わない。」
「買う気があるならそれもいいぜ。そうじゃねえならお断りだ、面倒臭ぇ。」
ガノエミーの遣いは沈黙する。
攻撃の意思を嗅ぎ取ったギギシが鼻でせせら笑う。
「やめときな。手前ぇの目的なんざ知った事ゃないが、こっちは手荒いマネぁしたくねえんだわ。手前ぇが本当にガノエミーん所の奴ならな。」
「ハッ×、お前も洞の奴とは限らないぜ。」
「~~~っ、」
妙な雲行きになったと仲介人の顎がしゃくれる。ギギシはやれやれと横目で歯をむき、懐から名前の由来を取り出して遣いの目の前でぶら下げて見せた。見せられた方は一瞥すると斜に構える。
「~何のマネだ?」
「××鉤だっ!見て分からねえのか?俺様、洞の『繰り鉤』ってんだ!」
「知るか。」
「→タハーーーっ!俺様の名前も知らねえとか×、新入りか雑魚のパシリか?!」
「うるせえ。お前の事なんざどうでもいい、いいからとっとと中を見せやがれ!」
「そーかそーか。そんじゃあ…今日は憶えて帰ってな~あ、」
お笑い芸人の決まり文句の如き台詞を吐くと、口をいの音に広げてギギシも臨戦態勢になる。彼は自らの知名度の低さが気に食わないようだ。つまらぬプライドに全く関係ない仲介人は大目玉である。
「★おい繰り鉤!面倒事は後にしてとっととブツを運んでくれ!」
「ちょいと待ちな、モノを知らないクソ雑魚にゃ身体に覚えさせるのが早えのよ。」
「×それどころじゃねえっ!ちんたらしてたら」
彼の訴えは彼が懸念する事象に霧散する。第三勢力のお出ましだ。
「↑全員そこを動くな!!大人しく手を上げろ!」「無駄な抵抗はするな!」「してもいいけど、蜂の巣だからなー、」
「★ほら見ろ警察だ!やべえぞ、おい繰り鉤い!!」
見ろと言っても霧で何も見えない。
「~チッ、次から次へと…
──おーいポリ公共お、そっからこっちが見えんのかあ?弾を当てられるもんなら当ててみなあ、脆灰風情がイキッてんじゃねえぜ~。」
「★やっめっろっ煽るなバカ!殺されるぞ!!」
「何年こんな商売してんだよ?ビビりなさんなって。今日みてぇな濃い霧は物運びにおあつらえ向きじゃねーか、見えねえ相手に当てられる訳ねえだろう。雑魚にかまけてこのザマたあ、俺様もツいて」
高を括っていたギギシの身が一瞬跳ね上がりボヤきは呻きに変じる。乾いた音を聞いたやも知れぬ、彼は堪らず膝を着き右手で左腕を押えた。起こるはずのない激痛に目眩すら憶える。ギギシの挑発通り、ポリ公共が最悪の視界の中で銃の弾を当てて来たのだ。
疑問より先に怒りが立つ。被弾箇所が悪過ぎだ。
よりによって魔法警察のヒヨッ子ウィルから受けた銃創のすぐ近くだった。
「×~~~~~~っ、↑↑調子コいてんじゃねえぞクソがああああああっっ!!」
彼の右腕が懐を潜って雄叫びと共に闇の向こうへ伸びる。懸糸を手繰り力強く鉤を水平に薙ぐもののまるで手応えが無い。ギギシは舌打ちして歯をむき、即座に鉤を引き戻すと仲介人へ振り向いた。
「逃げるぞ、」
「…ぉおい?!返り討ちにするんじゃねえのか?ブツはどうすんだ?!」
「置いとけ。ランプは持ってけよ、」
「★ふざけるな!取引をふいにする気か!?お前と洞だってタダ働きになるんだぞ!?」
「こっちは攻撃を当てらねえが向こうは攻撃を当てられるんだ、話にならねえ…
──────おい、ガノエミーの雑魚はどうした?」
「あ?───居ねぇ……↑とっととトンズラしやがったあの野郎!!」
「~あンのクソ雑魚がああぁぁ↑↑…タダじゃおかねえっ!こりゃあ丁重にお礼を入れとかねーとなあっ。」
「★↑っひいいいぃぃ×!撃って来やがったあっっ!?」
「チッ×、いいからこっち来い!!」
厄介事を持って来ただけの雑魚にギギシの怒りは募るが、こう見えてこの男は意外に冷静で気持ちの切り替えが素早い。彼に首根っこを掴まえられた仲介人は、後ろ歩きで未練たらたら手足をジタバタさせていた。そこへ乾いた音が徐々に、着実に近付いて来る。
「はぁ、はぁ、──っ確かこの辺だが気配が無い。×逃げられたか…手応えはあったんだけどなあ。」「なあ、もういいだろ、火を点けようぜ。」「×お前いつまで怖がってるんだ、霧魔なんて居る訳ないだろ?確りしろよ。」
「★イテッ×……何だ?足元に何かあるぞ、」「逃げた奴らの物か?」「×もういいって、点けようぜ!」
真っ暗闇の中に突如として、宝箱へ群がる警官らの姿が浮かび上がる。彼らが手持ちのランプへ一斉に火を点したのだ。制服姿は比較的若い男三人で、いずれも右手にライフルを携えていた。
「なあ。この箱、まさか…人間が入ってたりしないよな?」「可能性はある。開けられそうか?」「いや、これ見ろよ。鍵穴だろ?ロック掛かってる、今すぐ開けるのは無理だ。」
「取り逃がしたのがもし例の猟奇殺人犯だったら悔やまれるな…。とりあえずこの箱は押収しよう。中に人が居てまだ息はあるかも知れない、慎重にな。」「~かなり重いぞ×、お前も持てよっ。」
ライフルを肩に戻し三人掛かりで漸く箱を持ち上げる。えっちらおっちら、片手にランプを掲げる警官の先導で押収品が運ばれて行く。真っ暗闇から銃撃して来た連中だが、かさの張った重たい物を運ぶにあたってランプの明かりは必要と判断したらしい。
暫く進んでいると先導が霧の闇の向こうに微かな光源を目敏く発見する。
ガス灯のものではない地面に近接するそれは、
「!おいあれ、さっきの……」「何?取り戻しに来たか?灯りはマズい、先手を打たれる!」「一端この箱を下ろすぜっ、」
銃撃するため重たい押収品を地面へ下ろそうと彼らが腰を曲げたその瞬間、異変が起きた。手に掛かる重量が急激に増し、ガタガタと箱が暴れ出したのだ。人気の無い深い夜霧の中での気味の悪い出来事に、彼らは警官である身の上を忘れ慌てふためく。緊急事態と言う切迫した状況が乱心に拍車を掛けた。
そんな彼らへ追い撃ちするかのように箱の上蓋が衝撃を伴って口開く。
現出する魔物の如き異形の影。絶望に彼らの世界は静止した。
((─霧─魔───))
☆☆☆
昼飯時。ダウジングロッドの午後からのお天気占いは「晴れ時々曇り、所によってはにわか雨」となっている。読んで字の如く占いであり予報ではない。相応の占い師によって占われた結果が翌朝の新聞などに載せられるのだが、その情報を実生活に活用している者など皆無である。いくら精霊信仰の根強い土地柄とて、占いを鵜呑みにするほど地元民らは蒙昧でない。
そんな情報ではあるが、学生にとっては多少の話題を提供する程度に有用となり得た。
「『ラッキーアイテムはレインコート』……にわか雨の時ラッキーって事?」
「何読んでるのミーシャ?」
「ああケイト。購買行くついでに職員室に寄ったんだけど、これ号外だよって先生がくれたの。別に欲しい訳じゃなかったんだけどね。」
「号外?───『夜霧の倉庫街に霧魔現る』?──ああ×、隣のクラスでもそんな事を話してた人たち居たなあ。」
「こんなの『だから何?』って感じしない?新聞ってあたし興味ないから発行元の事情なんて全然解らないんだけど、こんな記事で号外にしちゃうんだね。」
「本当下らない。こんなの霧魔じゃないのに、」
「え?そうなの?」
二人の視線が合う。ケイトの唇は少しだけ開いていた。
「…ああうん。だってほら『霧魔に襲われた!』みたいな話って大抵嘘だったりしない?本物かどうかなんて確かめられないし。襲われたら最期、必ず殺されちゃう、それこそが霧魔…だと思うな、私は。」
「そう?確かに襲われた警察の人たち、生命に別状なしってなってるけど…あたしジェズに霧魔から助けてもらった事あるよ?」
「───まあたまた×、」
「ホントだってば。~もう、誰も信じないんだから。」
「あはは、ミーシャが嘘をついてるだなんて思ってないよ。
私達ってほら、霧魔の事を小さい頃から怖がってるじゃない?子供から大人まで皆勝手にイメージ作っちゃってるから、自分のイメージに合わないと本物って認められないのかも知れないね、」
「──そっか、確かにそんなものなのかも。」
ミーシャは昨日のケイトの言葉を思い出した。
「傷も癒しも、霧魔も人それぞれ。」
「一緒くたにしないでよ×。
─そう言えばジェズ君、少し顔色良くなったんじゃない?ミーシャの癒しが効いたかなあ?」
「さて、それはどうかな…」
ミーシャは困った顔をして頬を掻く。その隣に座るジェズは昨日と同じように机上へ腕を組み顎を埋めていたが、昨日と比べ幾分ましに見える。彼はケイトの声を聞いて姿勢を直すも、やはりまだ本調子ではなさそうだ。
「ご心配をおかけしました。僕はなら大丈夫です…気持ちは。───何となく。」
「良かったね。いいなあ、私も元気になりたいなあ。あやかりたいあやかりたい、──おすそわけおすそわけ☆。」
ケイトがミーシャの前を回り込み、ジェズの机上の両手を自身の両手で包み擦った。
それを目の当たりにしたミーシャは突然跳ねるように席から立ち上がる。
びっくり箱じゃあるまいし、訳の分からぬケイトはきょとんとした。
「どうしたの?」
「……いや?その、ぇええっと…」
「?」
改めてジェズの方へ顔を戻す。彼は丸い目で顔を真っ赤にしながら小犬のように打ち震えていた。女の子から手を握られたのが恥ずかしかったのか、照れちゃって可愛いなどとケイトが含み笑いをするのも束の間、彼女の視界は赤一色に染まり何も見えなくなってしまった。
眼を白黒させて眼鏡を外す。直後に背後の席から男子生徒の声が上がった。
「★血イイイイイっ!?血の雨が降って来たあああああああっ?!」
「え?」
「↑?血イイイイイっ!×ケイトが血まみれだああああああっ!!」
「え??」
自分が血塗れ、きゃあうわあ、教室を見回すと自分を見たクラスメートらが一様に悲鳴を上げる。気が付けば自分の胸元も、両肩までもが血に染まっているではないか。髪の毛もべちゃべちゃ、顔中に液体の流れる感触がある。慌ててポケットから取り出した手鏡を覗き込んで納得、自分の頭の上から胸元までが真っ赤に血で濡れていた。眼鏡のあった目元は赤くならずに済んでいて、そこだけ統一感を欠いている。変な顔。
「何これ?───★↑ジェズ君!?わっ、何々?!どうしたの血!←血が出てるよ!ちょっと大変ミーシャ!!」
「…いや、うん、そうなんだけどさ、ケイトも…アレよね、」
「何が?!」
「いやあ×…ケイトって今さ、思いっきりジェズの…鼻血、浴びたんだよ?何かバケツ一杯のトマトケチャップを顔一面に掛けられたみたいになってるのに、結構……冷静よね→、」
「冷静でいられますか!ジェズ君こんなに鼻血出すなんておかしいじゃない!全然治ってない、何か大変な病気よこれ!早くお医者さんに診てもらわないと!!」
「あーうん。病気ではないんだけど↓…でも貧血は深刻か……」
「←保健室連れて行こう、早くっ。」
昨夕リュアラの恐れ慄いた薬を誤飲したジェズは、少しの刺激で興奮し鼻血を出してしまう症状に見舞われていた。ミーシャもそれに気を遣って登校したのだが、ジェズの爆発は本日これで既に2度目。体力の回復を助ける薬でも、いちいち鼻血を大量に出していたら体力は相殺どころかマイナスである。更には親友に粗相を掛けてしまうも、当人は嫌な顔一つせずジェズの介抱を買って出てくれる。ミーシャは面目次第も無い。
「ごめんねケイト、そんな…ぐちゃぐちゃに汚しちゃって。ケイトの服…全部家で洗って返すから……」
「大丈夫だから気にしないで。─ほら男子!ボサッと見てないで誰か手伝って!」
「い、いやぁ★、にわか雨がまさか…血の雨の事とは~×。う、占いも捨てたもんじゃないのかなあ?レインコートがあれば汚れなかったかな?なんて……あはは××↓。」
「私、レインコート着ないんだ。」
「えっ→?…あぁ、そうなの。」
ケイトは血塗れになった眼鏡の取り扱いに手を持て余す。
「好きじゃないんだ。」
「──で、何故大学の保健室へ連れて来たのです?」
トキミは淡々と問う。高等学部の生徒がわざわざ訪ねて来たのだから当然だ。
椅子へ座らされ青い顔でフラフラするジェズの後ろにミーシャが疲れた様子で立っている。本来なら彼女が自力でジェズを連れて来たいところだったが、身体へ迂闊に触れて彼がまた興奮しないとも限らない。彼女は男子生徒らの手を借り、担架でジェズを大学の保健室まで運び込んでもらった。どうして大学なのかと訊かれれば、
「高等学部の保健室が満員だったんで、仕方なく↓。」
血塗れのケイトを見た女子生徒らの内、失神者を優先して収容したためである。ミーシャは文句が言えない。頼りに出来る心当たりとして、真っ先にジュウモンジが思い浮かんだ次第だ。
「──ジュウモンジ先生は?」
「不在です。」
「×ぇえ?お出掛け?」
「いえ、隣の準備室に居ます。」
「何だ居るんじゃない、良かったあ。先生にジェズを診てほしいんだけど、」
「それは出来ません。」
バッサリ。暫く沈黙が続く。
「居るのよね?」
「居ますとも。」
「医者でしょ?」
「医者ですね。」
「患者が居れば診てくれるのが医者じゃない?」
「東に病気の子供が居れば行って看病しますし、南に死にそうな人が居れば行って怖がらなくてもいいと言います。」
何故かミーシャは雨にも負けそうな気がして来た。
ラッキーアイテムのレインコートがあれば何とかなったのだろうか。
東はともかく南もどうにか助けてよと心中で突っ込む。
「患者が来たのに手が離せないって言う事?何してんの??」
「棚卸です。」
「棚卸?──ああ、そっか。先生ん所はそろそろロウバルさんが医薬品の補充に行く頃ね。」
「ポンさんなら昨日補充に来て下さいました。」
「───なら何を数えてるの??」
「菓子箱を。」
「菓子箱……棚卸しなきゃなんないほど大量に?売り物にするの??」
「空き箱ですよ。いや、──『空けた』箱ですね。」
「捨てれば?!」
「罪とは贖えても消える事など無いのですよ。
先生が今数えているのは犯した罪とその重み、積み重ねなのです…」
トキミが準備室へ顔を向ける。その眼差しにミーシャは幾千もの屍を乗り越えて来た孤高の戦士の姿を垣間見た気がした。棚卸やら重ねた罪やらそんな単語も何処かで聞いた気がすれど、圧倒的何だこりゃなミーシャはどうにもこうにも思い出せない。
「~もう、先生はいいからあなたが診てよっ。」
「いいでしょう。今日はどうしました?」
「ぁあ×?ぇええとその、昨日間違って精りょ……~気付け薬を飲んじゃって、そのせいで何か鼻血がすぐ出ちゃうんですよ、こいつ↓。」
「鼻血は何も昨日に始まった事でもないように思いますけど…」
ゴージャス・リュアラVSレインボー・ウンババ戦において、リュアラのゴージャスな太腿に頭を挟まれたジェズは、普通に昇天して普通に鼻血を出していた。トキミはこの手の鼻血に穢れを感じ、血の持ち主に触れる事を好まない。表情こそいつもと変わらぬが、ジェズを触診する手の渋々感は素人目にも見て取れる。される方は朦朧としながらされるがままだった。
鼻鏡で鼻の中を覗き込むとトキミは怪訝な顔をした。
「…妙ですね、」
「妙?」
「出血は薬だけのせいじゃないように思います。」
「薬のせいよ、普段は鼻血なんて出さないもん。」
トキミは異議を敢えて伏す。勿論プロレス騒ぎの事である。
流石に普段から太腿天国ではないだろう。
「血液に脂質異常のある事は確かです。」
「★え?病気だったの?」
「病気と言う程ではないですが、健康に理想的とは言えない状態です。簡単に言うと、彼の血液はパサパサで血管を傷付け易い性質になっています。これは生活習慣に起因するもので、薬の影響ではありません。」
隔週の血の餌付けのせいかも知れない。
言わずもがな、ミーシャの顔面がしょっぱくなる。
「生活習慣……」
「で、妙なんですよ。」
「あぁ、妙は別だったんだ×。」
「血液は血管を傷付け易いはずなのに、その血管自体は至って健康、理想的な柔軟性を保っているんです。出血して間もないのに傷がもう治っている、それも今朝から2度目でこの状態はあり得ません。」
「──もう鼻血は出ないって事?」
「そうではなくて、そもそも血が出易い『体質』なのではないか…」
「体質??」
「と言ってしまえば簡単ですが、そんな例は聞いた事がないのです。だから妙だなと。
─さておき、薬の効果はもう殆どありませんから、その点は心配無用。おいしい物を食べさせて安静にしていれば彼の症状も落ち着くでしょう。」
(効果が一週間も持続したと言うあたしの姉は何だったのか。)
「おいしい物って、例えば?」
「え?───すき焼き…ブリの照り焼き…」
本邦でそんな物は食べられない。トキミはミーシャの頭上に浮かぶハテナを視認した。
「あー、とにかくお肉ですお肉。彼の場合は脂身もたっぷりと。」
「×ぇえ?でもワニなんてこの辺じゃ食べられないじゃない、」
「×いや別にワニじゃなくていいでしょう。…何処からワニが出て来たのですか、」
「★!?───ぇえと、何処だろ~?あたしよくわかんない~い。」
「まあ、何でも構いませんけど。取り敢えず今日はここで彼を預かります。
─もし貴方、立ってベッドまで歩けますか?」
「──はぃ、………」
「まだ難しそうですね。ミーシャさん手伝って下さい。」
「×えっ、でもあたしがジェズに触ったら」
「大丈夫。ほら見なさい、」
ジェズの胸元にトキミが自身の手でぺたぺたと触れる。そう言えば先程から彼女は診察でジェズを触りまくっていた。異性に触れられて興奮爆発は治まったようだ。それとも興奮したとて失血のため再度出血するほど血圧が上がらないのか、いずれにせよ鼻血の心配は無さそうだ。
何とか自力で立ち上がろうとするジェズだが、ふらついて後ろへ倒れそうになった。ミーシャは慌てて彼の背中を受け止める。
「×ちょっと大丈夫?しっかりしなさいよ、」
「☆!?」
(こっ、……これはああああああっっ↑↑↑#!)
ジェズが目を見開く。ここに至って初めて覚醒した。
彼は背中全体でとても優しく柔らかな温もりを感じていた。
いつか体験した衝撃、感動。直に伝わる息遣いと胸の鼓動。
そして気付く、その鼓動を挟むように存在を主張して来る左右のふくよかさ。
鼻をくすぐる芳香、脚の先から頭の上までお嬢様で満たされて行く。
「★×★×★×!?────────────」
そして本日3度目は彼の真正面に居たトキミへ炸裂した。彼女は顔面へぶち撒けられた穢れを無言で受け止める。と言うか、咄嗟の出来事で目を瞑るくらいしか出来なかったのだ。
純白のナース服は群生する彼岸花が如く真っ赤に染まった。トキミはそのままの格好で暫く硬直していたが、次第に眉間が痙攣し始めて、彼女の手は頭上へゆるゆる伸びて行く。ナースキャップを脱ぎ降ろす動きはあくまでゆっくりだったが、顔前へ至ると握り締めたそれで顔をけたたましく拭き始めた。ミーシャが思わず「うわあ」と声を漏らすや否や、トキミはぴたりと動きを止めてキャップが床に落ちる。穢れは落ちきっていないが手元に拭く物が無い。
表情一つ変えず今度は穢れたナース服を脱ぎ出した。中は下着でヘソ出しシャツに飾り気の無いパンツ、ストッキングをガーターベルトで留めている。ガーターはまだ早い、ミーシャが言葉を口に押し留めるうちナース服も床へ落ちて行く。肌が特別に白い分だけ首から上の赤が目立って怖いような可笑しいような、しかしここでクスリともしてはいけない。
空気が張り詰める中、目を回しているジェズをトキミは静かに見下ろし一歩踏み出した。
「~~はーはーほーほー。フーン、へーぇえ…。いっぱい、いーっっっぱい出ましたねー鼻血~♪。こぉんなに沢山っまだ出せたんですねぇ。は~ぁあ…舞い上がっちゃいました?女の子に触られて興奮しちゃいました??そーですかそーですかぁ☆
………触診の時に鼻血が出なかったのわぁあ、性的に刺激が少なかったから…と。触っていたのが『女の子未満』だったから、『お子様体型』だったか!ら!と、そーゆー事なんですねぇえ?カラダは正直ですものね~ぇえ?ですよねーですよねー★。分かりました、アハー…」
(あー、自分で言った言葉に自分で傷付いて気持ちが昂っちゃうタイプだこの子→。)
そう悟るミーシャが上半身で支えているジェズをトキミは両腕で抱き寄せる。彼の頭を優しく抱え込んだ次の瞬間、踏み込むように身震いすると不気味な鈍い音と共に一瞬だけジェズの首があり得ない方向に曲がった。
ミーシャが絶句する。
彼女は椅子からこぼれ落ちそうになる弛緩しきった彼の身体を急いで受け止めた。
「★×ジェっっっ!?ちょっとあんた大丈夫?!」
「ほうら大丈夫でしょう、もう鼻血は出ませんよ。」
「あ、ホントだ。──────じゃなくて!どうしたの何したのこれ!?」
「死体にしたのです。死体は興奮しません、鼻血も出しません。」
「………い、↑意味が解んないんだけどっ!!」
「安心なさい、仮ですよ。仮死状態。死体カッコ仮です。─さ、これで心置きなく彼をベッドへ運べますよ。」
哀れな出血多量の患者を体術一つで仮死状態にする看護婦など聞いた事がない。下着姿でジェズの足を持ち運ぶトキミを見て、やはり戦士か露出狂が多いな、などとミーシャは思考をおかしくしていた。ジェズの身体の重たさも驚くばかりで持ち上げるだけでも一苦労。
何とかジェズをベッドへ寝かしつけたところで準備室の扉が開いた。姿を現したのは保険医ジュウモンジである、この男の仏頂面は常時ブレが無い。ミーシャが今更感を気付かれぬよう横へ背けた顔の前、トキミは激しく取り乱して両腕で保険医の視線から下着部分を匿った。
「★☆お館さ…───、##先生えっ!」
羞恥に悶える彼女の顔は上気立ち、他人の血と合わせ正味で林檎のように赤くなる。
一方のジュウモンジには状況が全く理解できない。何をなよなよもじもじしている。
真っ白な肌を晒け出し首から上だけ赤させている看護婦に先生は呆れて一言のたもうた。
「…燐寸棒か。」
柔らかい陽射しの心地よい春の日の昼下がり、どうやら雨の降る心配は無さそうだ。
陽の当らぬ保健室のベッドには重症患者が仮死状態で横たわる。その数2つである。