メモリー&ラブ・ストリーム
2020/3/20 表記を変更しました。
2018/1/27 誤字を修正しました。
■■■ メモリー&ラブ・ストリーム ■■■
ダウジングロッドの小さな繁華街に黄昏時が訪れる。煌びやかさでは首都に到底及ばぬが、小さい街なりに宵へ臨む賑わいを見せていた。霧が少ない分だけ首都に勝っていると自負する地元民も少なくない。これは表立って見える街の姿である。
背の高い建物同士がひしめく僅かな間隙に身を滑り込ませると、そこには普段の生活空間と異なる特殊な世界が待ち受けている。好奇心をくすぐる怪しげな店があちらこちらで怪しげな客を待っているのだ。
怪しい店の存在は怪しい客にしか知られないのが常である。勝手知ったり、曲がりくねった裏路地を縫うように進むと、明らかに文化の異なる木造建築が見えて来る。先ず目に付くのは赤提灯の明かり、開け放しの出入口からは行燈の頼りない光が漏れていた。年季のこもった暖簾が下がっている。くぐらずにいられようものか。
「やってるかい?」
「やってますぜ。どうぞ中へ、お嬢さんならあちらに。」
白髪混じりの角刈り頭に手拭を巻いた和服姿の渋い年配が席を勧める。薄暗くがらんとした店内の壁際、行燈の明かりに照らされ、桜模様の白い和服姿が暗がりの中で儚げに浮かび上がっているのが見えた。俯き加減の顔を静かに上げたのはトキミである。
小さな机を挟み対面に腰を下ろしたのは、プラプラの保険医ジュウモンジだった。
「待たせたな。」
「いえ、左程。」
トキミの淡白な回答。彼女はジュウモンジの声から彼が上機嫌である事を察していた。
ジュウモンジはその回答を聞き更に機嫌を良くする。望む成果がある事を察していた。
「大将、イカの塩辛はあるかい?」
「×馬鹿言っちゃいけねえ先生。港町ならいざ知らず、どんなに塩辛くしたってこんな山に囲まれた土地じゃそんな代物出せる店は無え。山ウニなら出ますぜ。」
「いいな、それを貰おう。酒はひやを徳利で頼む。」
「へい。」
「トキミ、」
「厚揚げと卯の花、陸ワカメの酢の物。それと、お芋は何かありますか?」
「もう少し待てば新ジャガが入るんだがねえ。ムカゴか芋茎なら出ますぜ。」
「それじゃ蒸したムカゴを。お塩は要りません。」
「へい。─ひやお待ち。」
「どうも。お館様、」
「ん。───?トキミ、最初くらい手酌はよせ。」
「プー。私は別に楽しくないからいいんですー。」
トキミはジュウモンジと自分の猪口へ徳利の酒をそそくさ注ぐが、お館様の乾杯には付き合った。双方いい飲みっぷり、傍目には如何わしい店で不審な男が女児に酒をつき合せているようにしか見えない。見た目通りの認識で概ね正しいのだが、トキミは未成年ではないので倫理上の問題は見た目以外にとりあえず無かった。
山ウニが供されると二人は早速箸を付けた。豆腐の味噌漬けで塩がドギツい、酒が捗る。
「魔法警察は引き上げたのだな。」
「警部さんの退院と同時にストーカー対策も終了です。皆さん騒々しいので会話が丸々外に聞こえてました。──いいんでしょうかね、芝居なら大したものですけど。」
トキミはここ数日の間、腰を痛めたワドー警部の入院先へ看護師のヘルパーとして勤務していた。非常勤医師として関係のあるジュウモンジの伝手により、学園を監視している魔法警察の情報収集に就いていたのだ。スパイごっこなんてお館様は面白がっている、トキミはそれが面白くない。
ジュウモンジは早々勝手に手酌でやっていた。彼が聞きたいのは昨日の顛末である。
「メリーベル姉妹の警護はどうなった。」
「犯人は『喪服の客の連れていた従者の男二人』と言う事に落ち着きました。喪服の主人から離れた従者の一人が、例の青年研修生と一触即発の危機に陥ったみたいですけど、戻って来た主人から便箋が渡されて落着したそうです。」
「便箋?」
「従者達から姉と妹のそれぞれにと。姉妹への恋心を拗らせた従者達があの子達を陰から尾行するようになったので、それを見兼ねた主人が、従者達に姉妹へ正しく想いを伝えさせるため酒蔵を訪れた。──と言った経緯のようです。」
「困った下男のため恋文を渡しに来たと言うのか。あの若造はそれで納得したのか?」
「腑に落ちないと大層不満の様子でした。あの人は姉にホの字らしいので。」
普通の反応だなとジュウモンジは興味を示さない。到着した卯の花に箸を伸ばす。トキミは酢の物を小皿によそった。陸ワカメに切干ダイコン、針ショウガも忘れてはいけない。
「ホの字はさておき、腑に落ちないの正味も少しありまして、」
「ん?」
「従者の一人、ブルなる人物は、ある未解決事件の容疑者に名前と風貌が酷似しているそうです。それもその容疑者は、報酬次第ではどんな危険な仕事も請け負う凄腕の用心棒とか何だとか。」
「女主人の素性は?」
「発言を鵜呑みにすれば公人のようです。今回の不祥事にとても名は出せないの一点張りで、帰りの尾行も巻かれてしまい分からず終いに。」
「もう一人の従者は?」
「ダムドと言う名で、こちらは警察の記録に該当なし。」
「妙な取り合わせだな。」
「近ごろ魔法警察は港でのテロや御禁制の品物の流入を防ぐ事に失敗してるそうで、騒動の気配に神経を尖らせてます。ただでさえ足りない人員を今回のストーカー騒ぎに充てたのも、脅威に捉えているブラック・ドゥーと言う敵情報を見過ごせなかったからでして、」
「なるほど、腑に落ちん。」
怪訝な顔で猪口をあおる。トキミの表情もすっきりしない。
「中途半端です。」
「腑に落ちる所と言えば、あの若造がまんまと得た『娘に近寄れる口実』をあっさり喪失した事だけか。ただのストーカー騒ぎと言うだけならそれで納められなくもない。」
「魔法警察の案件との『関わりを連想させる人物』がストーカー騒ぎに一人居た。──気持ち悪いでしょうね、締まりが悪いと言うか。」
「疑心暗鬼に囚われ偶然とも片手落ちとも断じれずか。─魔法警察はどう動く?」
「学園を内偵していた人員含め、全て一端首都に引き戻すみたいです。組織の再編成は喫緊であるとの大号令が出たみたいで。」
「活動根拠となる情報収集がままならないのでは死に体、妥当な所だ。つまらん。」
「──お館様はどうお考えです?」
つまらぬ所を敢えて訊く。ジュウモンジの顔がそれ程つまらなそうでもなかったからだ。
「判るだろう、情報が足りていない。───女主人だ。」
「?正味で従者達のために姉妹の許へ訪れたと?」
「無論それは表向きだ。女主人への追及を疎かにしたのは、娘にうつつを抜かして男に敵愾心を抱いた若造の失態だな。それが明確にならない今、正しい全体像は見えん。しかし、」
ジュウモンジの傾ける徳利からは雫しか出て来なくなった。徳利の中身を覗き込む。豆腐の味噌漬けなんて頼むからとトキミはおかわりを注文した。空の徳利へ名残惜しそうな目を向けるお館様に話の続きを促す。
「しかし?」
「少なくとも女主人は魔法警察を快く思っていない。酒蔵の姉妹は邪魔だったかも知れん。」
「何故そんな事が分かります?」
「魔法警察を混乱させているのは、連中に失態続きと言う背景があるそこへストーカー下男が半端な犯罪臭を臭わせたからだ。恋文は食い付きをよくするための香辛料、仕掛ける側の持つ遂行の強い意志の現れだな。これらを括って取り去ると何が残る?」
「?下男と恋文が無くなって、残るのは姉妹と女主人ですね。」
「店番でその場に居なかった妹はさておき、姉は女主人に付いて果樹園を案内した。女主人が客だから言う事を聞いたのだ。公人だの高貴な印象作りも発言力を高める香辛料だな。」
「香辛料ばっかり。」
「これらも括って取り去る。何が残る?」
「無くなっちゃうじゃないですか。」
「残るだろう、女が。」
「?───あぁ、女主人から『主人』と言う格を取り去ると女が残って、それが正体だと。」
「それと、そもそも在ったものがそのまま残っているだろう。」
「??」
徳利のおかわりと共に焼いた厚揚げと蒸したムカゴが到着した。行燈の明かりの中で仄かに湯気が揺らめく。豪華なメニューとはお世辞にも言えないが、机上の絵面は多少なり賑やかになった。これがいいのだ。素人目には分からぬが、ジュウモンジは今すこぶる機嫌がいい。
「舞台には酒蔵の果樹園が残っている。女の目的はそこにあったと言う事だ。」
「──────★付き人のあの子ですか?」
「そう考えるのが自然だろう、酒蔵『メリーベル』だからな。──なかなか洒落た相手だぞ、周到な段取りは儀式的な匂いを感じさせる。衣裳に喪服を選んだのも単に世間の目を欺くためだけではあるまい、公人と言うのも遠からずやも知れん。港の事件まで画策通りか判らんが、新興国ご自慢の魔法警察をコケにする辺り、気位は相当に高かろう。真の目的は───」
お館様の乗り気を分かった気がした。記憶に久しい波乱の予感にトキミは気持ちを改める。
「鍵は付き人が持っている………」
「どうなる事やら。」
夜は更けて行く。宴の始まり、始まり。
☆☆☆
夜の風呂は暗くて嫌い。いつもならそう思う所だが今夜は微塵も思わない。頭の中のごちゃごちゃをいっそ洗い流してしまいたい、そんな気分でいる。ミーシャは泡だらけの頭の上で水の入った桶を立て続けにひっくり返した。濡れた髪で顔が覆われる。滴る水を暫く好きにさせていたが、思い出したように洗面台を立つとバスタオルで身を包み、壁掛けのランプを手に風呂場を後にした。
脱衣所でもミーシャはのろのろする。下着を纏った所で鏡に映る自分の姿が目に付いた。絹色の肌、オレンジ色の髪、コバルトブルーの瞳、これがあたしの色。あの人の色は、
(黒かった。褐色の肌、黒の髪、真紅の瞳……あんな人が居るなんて。)
寝間着を着てしまう。今晩は勉強も読書も何も手が付けられない、風呂に入る前から早々に寝てしまおうと考えていた。果樹園での出来事があった時点から既に夢を見ているような錯覚に囚われていたのだ。
リュアラの部屋の前に差し掛かり足を止める。お姉様は警護の話が落着してウィル先輩が引き上げたから安心しているだろう、今頃勉強でもしているかも知れない。安心していると言う事実が何故か妬ましく感じられると、その場を去りたいと言う気持ちから再び足を進めた。
自室に戻りランプの灯りを消してのろのろ寝床につく。
暫くして寝返りをうつ。
もう暫くしてまた寝返りをうつ。
もう暫くするとおもむろに半身を起こした。まるで眠れない。
カーテンの隙間から漏れる光に引き寄せられる。歩み寄り隙間を広げてみると夜空に満月が浮かんでいた。月はタロットにおいて嘘を意味するカードだったような、そんなどうでもいい事を思い出す。
「嘘だったら良いのに、」
思わず口を突いて出た自分の言葉にハッとする。知ってしまった事実を拒絶している自分に気が付いた。気持ちが整理出来ていないのに、果樹園の出来事が頭の中でまた繰り返される。
一陣の風が吹いた。ジェズは戦慄する。
「姐御様?………」
女主人が身を翻す。宙に舞う喪服を御付の男が掴まえたその手前、そこには黒羽で飾られた扇情的な異形の装束を纏う女像が屹立していた。前髪両脇と胸元手首足首に黒と白の羽飾りのストライプ、身体の紋様は鋼の如く黒光り、瞳だけがただただ紅く輝いている。何か人ならぬモノが取り憑いたような凄み、その場を支配している確かな気配があった。
「私は【闇族】だよ。そして──────そして、代を引き継いだ。」
「代を引き継いだって……★それじゃ、その装束はまさか!?」
「そう!これがそうなのさ、驚いたかい?
それでこれが手始めだよ。私の視線は感じていただろう?私は見ていた、この地でのお前の生活ぶりを。お前を見極めるために。」
「★!あの視線は姐御様?───それでどうして、僕の心臓なんか見てたんですか?」
「心臓?私がそんな物を見る必要はないだろう。」
「え?…あぁ、それもそうですね…」
姐御様の表情が変わった。周辺の空気が急に張り詰める。
「──────呪われし滅びの申し子、死するため生まれる【死王】よ。
【虹族ナパンティ】第四王子、ジェズワユト・ウ・ナパンティ!
『 お 前 は 何 故 こ の 地 を 訪 れ た ? 』
本来とうの昔に死んでいなければならぬお前は命を長らえた。人知れず生を全うせんがため新天地を求めたと言うのであれば不問に伏そう。しかし───
よもや、失われた己が【呪珠】を取り戻しに来たのではあるまいな?」
「!呪珠はナパンティの王たる証し。第四王子の呪珠ならば、それは僕が持つべき物です。」
「生まれ出でてすぐ冥府へ送られる運命の死王が呪珠を手にする事は無い。私はそれを不憫に思ったからこそ、禁忌を破ってまで闇の法『夜魔の爪』をお前に授けた。だのに何故尚も呪珠を求める?お前が暗礁密林で争いを起こそうと言うのであれば………
我 ハ 汝 諸 共 虹 族 全 テ ニ 死 ヲ 与 ウ 。 」
有無を言わさぬ強制力、ミーシャは自分が対象でない事を判っているのに、女主人に畏怖の念を抱いた。会話の内容は未だ理解出来ていないが、ジェズの立場が非常に危うい事だけはその身を以って感じられた。幹の陰で両肘を抱きしめる。震えが止まらない。きっとジェズも同じ気持ちなんだ、そうミーシャは彼の身を案じる。
しかしジェズは毅然としていた。負けず劣らじ風格めいたものを全身から放っていた。
「夜魔の爪があったからこそ僕はまだ生きています。爪に何度生命を救われたか判りません。──僕は長らえたその生命をもって、死王を昔話へ変えて呪いから解放したいんです!僕が第四王子である事を示す呪珠は不可欠なんです!」
「呪イヨリ解カレ何トスル?」
「初めの頃は、単純に皆を…見返してやりたいと、それだけでした。でも今は違う!
僕は暗礁密林に『文化』を持ち込みたい!何かを狩るとか何かを採るとか、そこにある物をただ食い潰すのではなくて、自分達の手で育て新しく生み出していく、生産的で文化的な生活をもたらしたいんです!」
「死王ハ忌ミ者。死ヲ免レタ其ガ知レレバ、即チ同族ヨリ命ヲ狙ワルル。即チ暗礁密林ヲ騒乱ガ再ビ席捲ス。我 ハ 其 ヲ 許 サ ヌ 。」
「争うんじゃない!分かり合える、人と人の関係から育てて行くんです!」
「如何様ニ?」
「~そ、それは………今の生活で、学んでいる…所です。」
そこでモゴモゴするんじゃないっ、ミーシャは心中でいつもの調子につっ込んだ。
「【光皇女ホワイト・レディー】ヲ擁スルカ、」
「?」
「歴史ヲ繰リ返スカ、」
「それこそ昔話じゃないですか。そんな神様みたいな人、居る訳ない。」
「──あの支配人がそうではないのかい?」
「え?」
「え?」
ミーシャがぎょっとする。また出て来た訳の分からないキャラクターに何故かお姉様が起用されてしまった。ジェズも一瞬驚いた顔を見せていたが、一呼吸おくと緊張を解かれたような安らいだ表情になった。特別な思い入れがありそうだった。
「リュアラお嬢様が───ホワイト・レディー?もしそうなら、とても…#とても素敵な事。そうか、今の僕にとってリュアラお嬢様は…ホワイト・レディーなのかも知れません。」
「~ジェズ、」
「僕はもう、自分一人だけの僕ではありません。─僕はもう引き下がれない。」
「───いいさ、ジェズの意志は解かったよ。未だ学びの途にあると言うのであれば、断ずるのはまたの機会としよう。」
姐御様は振り返り男から喪服を受け取ると再び身を翻す。黒衣が空を舞ったかと思いきや、そこにはもう喪服姿の女主人が佇んでいた。肌の色まで元通り、早着替えどころか最早魔法である。彼女は帽子の端を片手で押さえながら去り際にジェズへ見返った。
「ジェズ、──────元気でね。」
「姐御様…」
女主人は御付の男を伴い元来た道を引き返して行く。とりあえず一安心、ミーシャは胸の中で苦くなった息を吐き出した。そして次に思う事は「自分がここでジェズの所へ出て行くか」である。彼は何か複雑な事情を引き摺っている、こっそり聞いてしまった内容は知られて構わぬものかが判らない。どうしたものか。
躊躇しているとジェズが声を上げミーシャは俄かに跳ねた。遠ざかる女主人へ宛てた声だ。
「姐御様!」
「─?」
「逢いに来てくれてありがとうございます!
僕にとって姐御様はやっぱり姐御様です!
姐御様が『ブラック・ドゥーを継いだ』って、僕には姐御様ですからっ!」
はっきり見た訳ではない、再び見返った女主人はその時ひっそり微笑んだと思う。目の前の光景に夜空の満月が戻って来ると、窓ガラスに微かに映る自分と目が合った。半分冗談のつもりだったのにねぇ、
「犯人は本当に──ブラック・ドゥー……何それ↓。」
まだ夢を見ているような気分。夢遊病のようにふらふら寝床へ戻ると、伏し目がちにベッドの上で体育座りをする。情報と気持ちの整理が出来ない。ジェズの事情を聞き知ってしまった事をミーシャは彼に伝えていない。こんな気持ちで伝えられない。そのままの格好で横に転がり瞳を閉じた。
(ジェズが王様の子──死んでなきゃいけない──姐御様に助けられた──生きてるのがバレたら命を狙われるとか、知らないそんなの聞いてない………言いたくないか………
違う、言う必要無いもん。ジェズはここの…酒蔵メリーベルのジェズなんだから。故郷の昔の話なんてもう関係ない。
でも──王様の証しを取り戻しに来たって、言ってたよね。故郷へ文化を持ち込みたいとか、そんな事も言ってたよね………ジェズ、居なくなっちゃうの?
ここから居なくなっちゃうの?──────)
胸の中が締め付けられるような苦しみを感じ、堪らずミーシャは半身を起こした。息は出来るが息苦しい、シーツと自分の胸元を握り締め暫く肩を上下させる。少しばかり汗をかいた。こういう時は目を閉じて呼吸を整えれば大丈夫、ミーシャには経験があった。
実はミーシャは「広場恐怖症」で、外界から隔絶された状況が苦手である。
滅多に無いが、パニックを起こすと似たような症状になる事はあった。しかし今はその時のように頭がおかしくなるような緊迫感や恐怖は無い。パニックしていない、ならこの苦しみは何だろう。弱気がちょっぴりベソをかかせる。
そして急に思い出した。以前パニックを起こした際にジェズが助けてくれた時の事を。
それは今年初めの出来事、暗い曇天の日だった。
ミーシャはジェズを連れて園内の資材置き場を案内していたが、現在は未使用の古い建物を見て回っていた際に、建物の中に閉じ込められてしまったのだ。
(あの時は本当に死ぬかと思った。)
扉は樫の木で出来た厚さ10cmはあろう立派な代物。開け放しにしていたのだが、山を越えて吹き下ろす空っ風に煽られ続けた結果、立ち入ったミーシャらの背後で豪快な音を立てて閉じてしまった。拍子に閂まで下りてしまったのだから堪ったものではない。
建物は酒蔵の創業前から在ると言うサイロで、外へ出るには15mほど上にある窓を使う他ない。サイロの中には空の木箱が幾つかあったが、積み上げてみた所で窓へは到底届かない。ミーシャはパニックに陥った。
思い出した当時の状況に心が同調し始める。故に普段は極力思い出さないよう意識しているのだ。荒ぐ呼気が乾いて、空っ風のような擦れた音が喉の奥から漏れた。錯乱の確かな予兆に恐怖が襲うその刹那、ミーシャの網膜にジェズの姿が鮮明に甦った。暗がりの中、厚手生地の防寒着を着た彼が、取り乱す自分の両肩を抱き、懸命に自分の名を呼んでいた。
(!そうだ、その時あたしは見ていたんだ。ジェズの「緑色の紋様」を───)
酷く怯える自分をジェズは優しく宥めて木箱の傍らに座らせる。彼が少し離れて暫し佇んだその時だ。彼の手の甲と横顔に「緑色の紋様」が浮かび上がっていた。
すると魔法のような現象が起きる。
その場にしゃがみ込んだ彼の姿が次の瞬間、衝撃と共にいきなり消えたのだ。
何が起きたか戸惑っていると外から音がする。扉を開けて入って来たのはジェズだった。
『もう大丈夫ですよ、ミーシャお嬢様。』
彼が笑顔で言った言葉に、当時のミーシャは気が緩むあまりその場で気絶してしまった。
今その安心感が甦る。得も言われぬ心地良さに彼女はそのまま眠りについてしまった。
満月が不安を掻き立てるざわついた夜にやっと得られた安らぎだった。
翌朝、ミーシャは起き掛けの視界に入り込んで来た物が何なのかよく分からなかった。鏡に映り込む自分の顔だと認識するのに20秒ほど時間を要する。寝ている間に泣き腫らしていたらしい、これは酷い。通学時刻までの僅かな合間に顔を洗ったり拭いたり大慌て。朝食を摂るような余裕は無いし、珍しく空腹も感じなかった。
汽車の中では何だか居た堪れなかった。いつもの通り小説を読み進める姉の機嫌の良い事と言ったら近年稀に見る上機嫌。実は勉強会の時にもっと上機嫌だったりしたが、ミーシャはその事を知らない。
(~いい気なもんね、ホワイト・レディ~っ。)
ふて腐れていると左肩にジェズの頭がゆるゆるのし掛かって来た。地味に重たく決して楽な状態ではないのだが、今朝も早くから色んな仕事をこなして来たんだろうと労う気持ちで肩を貸してやる。彼の今朝の仕事内容は何だったか思い出せない。昨日のもやもやした気持ちが思考を鈍らせている。
貸してやったはいいものの、カーブに差し掛かるとやっぱり重たく感じる。湿っぽい息を漏らしている事を姉に悟られた。
「ミーシャ、」
「いい。大丈夫。」
「ミーシャ…」
「いいんだって、好きでしてるんだから。」
「───」
降車後の道中、リュアラ達は耳聡い生徒らからウィルの不在を知った。詳しい事は判らねど急遽お呼びが掛かったらしい、とまでしか知る事が出来なかった。緊急招集の発端が自分達のストーカー騒ぎだった事など知る由も無い。騒ぎの発起人のはずのミーシャにはどうでもいい世間話に聞こえていた。
リュアラは平穏が戻った確信に胸を撫で下ろす。そんな彼女をクラスメートらが気遣う。
「何も起きなくて本当に良かったな、ウィル先輩も面目躍如って所じゃね?」
「お手柄と呼べるような武勇は起きなかったので、ご本人はご不満の様子だったけど。」
「え?ババーンと逮捕してドドーンと警察庁へ連行したんじゃねーの?」
「ぅうん、一応示談と言う事になるかしら。手紙を渡されてそれまでって事になったから。」
「お姉様。それじゃ、あたし達こっちだから。」
「あぁ、はい。行ってらっしゃい。」
「ジェズ行くよー。」
「───」
教室までの道のり、周囲に他の生徒達は居るがミーシャとジェズは二人きりになった。
ミーシャの中では周囲の出来事が淡々と流れている。何処か上の空。
そして何処かわがままな気分になっていた。何かジェズと話がしたくなった。
「ねえジェズ、」
「はい。」
「もう見られてないのよね?その、─厄介な相手から。」
「はい、今の所は。」
「どう言う意味?」
「そのままの意味です、今は見られていないだけ。僕はまだ安心していません。」
相当に厄介な相手、張本人ブラック・ドゥーなら去って行っただろうに、未だ何を警戒する必要があるのか。厄介な相手に「今は見られていない」と言うのは少なくとも嘘ではないが、ミーシャは少し意地悪な気持ちになる。
「そうよねー。ブラック・ドゥーがまだ見ているかも知れないもんねー。」
「ドゥーはもう去りました。」
即答にミーシャの踏み込む片足は砂煙を立てて前へ滑った。秘密の事ではなかったのか。
彼女は慌ててジェズの腕を引き、近くの校舎裏の壁へ彼を押し付けた。
「あんた、見ていた張本人はブラック・ドゥーだったって言うの?!」
「はい。昨日は黙っててすみません、ウィル先輩がいらしたので言い出すタイミングが×。」
「ジェズは『ブラック・ドゥーと遭った』って言うのね??」
「ええ、初めて逢いました。本物ですよ、びっくりしました。あははは☆。」
「ぁあのっ、ジェズってさ、──ブラック・ドゥーの話って……OKなの?」
「おーけー?─あ、オッケーの事ですね。…ん?話がオッケーってどう言う」
「二人ともおはよう☆、何してるの?」
「★ケイト?…おはよう、」「おはようございます。」
「聞いたよ、早速噂になってるね。覗き見のストーカー、ラブレター渡してそのままあっさり帰っちゃったんだって?変な人が居たものね。」
「あーうん…、そうね本当ヘン×。あはは、~~~」
友人の出現によりジェズへの詰問は続けられず、その場はうやむやになってしまう。それがミーシャには駄目だった。生来の白黒付けたがる性分に火が着いてしまった。そのせいなのか授業も今日は何だか上の空。
呷りを食うのはジェズである。教師の喋っている内容が少しずつ判らくなって来た。
「ここテスト出るからなー。えーこの地方はかつて良質の銀が採れた事で有名だが、実は銅と錫も少なからず採れたんだな。当時我が国じゃ殆ど需要が無く邪魔だった代物だ。それに目を付けたのが、北方戦争の真っ最中で物資不足のお隣さんで、『それなら融通してくれ』と申し出て来たのが、交渉のそもそもの取っ掛かりなんだ。勿論、こちとら苦労して掘り出した物をタダでくれてやる程お人好しじゃない。条件として提示したのが」
「~~、~~、~~、」
教科書に記載の無い説明がされている。ジェズは取り急ぎ鉛筆で不明点をノートの端に走り書き、右隣りに机を付けているミーシャへ示した。それを見た彼女の瞳だけがジェズへ向く。いつもと違う何処か眠そうで退屈そうな表情が彼を不安にさせた。ひょっとしてまさか。
走り書きの下に書き足された彼女の記述を読むと、
(「4歳の時、お父様に連れられてその銀山にある宿場町へ泊まった。大きな水浴び場があって、お姉様と泳いでたら知らないおばちゃんに怒られた。反省はしてない。」?……)
まさかの1時限目の授業からこの調子。情けない顔をしていると、右腿にズボンの端を抓まれ引っ張られる感触を覚える。そんな事が出来るのは右隣りに座るミーシャの左手な訳で、手を伝って上げた視線が彼女の目に合うと、何とも言えない悪戯っぽい笑みを浮かべるのだ。何だろう、こんな表情のお嬢様は初めて見るなどと狼狽える内、向こうから右手が伸びて来てノートへ追記がされた。
(「後で教えてア・ゲ・ル♪」?~~ア点ゲ点ル音符って何??お嬢様、酒でも飲んじゃったのかなあ?これじゃ酔っ払いみたいじゃないか★×。)
授業の合間の休み時間も相変わらず、それに何だか距離が近い。お嬢様は喋り掛けるよりも先ずこちらの身体を触って来るので、ジェズはくすぐったいやら恥ずかしいやら。元々真面目な性格だからどうしても気を回してしまう。
(お嬢様に触られるのは嬉しいけど……#嬉しいけどもお嬢様は主であって、僕は従者の身!間違いがあっちゃいけない、変な事があっちゃいけないっ~~~)
律する傍から右腿を摩られて、
「#お嬢様??」
「えへへ、──くすぐったい?」
「ぇ…あぁ、はい。少し…」
「あたし太ももが弱いんだ。小さい頃お姉様とくすぐりっこした時、いつもそれで負けちゃってさ。お姉様はお腹の脇が弱いんだけど、くすぐる前にあたしの太ももを狙って来るの。」
「そうなんですか。」
「もっと弱い部分はあるんだけどね☆。」
「あはは×、」
「#くすぐりっこ、─す・る?」
「☆いやっ、そんなくすぐりっこ?だなんてそんなとんでも!」
「ジェ~ズ~は~何~処~が~弱いのかなぁあ?」
「★いやっ、#ちょっ…お嬢様×?」
脚から尻、腰から腹へとミーシャの手が這う。真面目な男の子は身が持たない。ただでさえ人目を引く分際が災いして格好の注目の的になる。女子生徒らからは好奇の目で、男子生徒らからは羨望の眼差しを向けられジェズの思考は追い付かない。仲睦まじい二人を前に気を遣うクラスメートらは二人から距離を置き出す始末。助け舟は来そうにも無い。
とにかく今日のミーシャお嬢様は変だ、ジェズは真相を訊き出そうと心に決めた。
放課後、ミーシャの一言で二人は下校がてら学園敷地内の庭園を散策する。普段二人が歩く時は主の斜め後ろへ付き人が付くのだが、今はミーシャがジェズの真横のすぐ傍に近付こうと動くので、ジェズの方は歩きにくくて仕方ない。何よりお嬢様との距離が気になる。勘違いの一つや二つ頭に浮かんでしまう。
(お嬢様もしかして、─僕の事が………好き…だったりするのかな?──★いやいや、そんなまさか#、ヴィリジアンの僕なんかがお嬢様に好かれるなんてあるはず無いっ×……でももしそれが本当だとしたら、どうしよう?僕はどうしたらいいんだろう??)
「でね☆、────ちょっとジェズ聞いてる?」
「ぁ…★はい、お嬢様!聞いてますっ。」
「でね☆、そこで叔父様が横から割り込んで来てさらっと言っちゃうのよ、『僕ならここへブロッコリーでも植えるね。ボリューミーで見映えがいいし、何より食べておいしいからね♪』だって!それを聞いたカルヤさんの怒りっぷりったら凄かったの☆。」
「またストマッククロー地獄ですか、」
「フライングクロスチョップだった。腕をバッテンに構えて飛び込むやつ。叔父様もぎゃあとか言うんだけど何か嬉しそうな顔してんのよねー、それがおかしくて☆。」
「旦那様の右腕に家政婦がそんな事して↓、いいんでしょうか、」
「若い頃からずっとそう言う間柄なんじゃないかな、そんな気がする。うちはいつもお母様が居ないんであたし達はカルヤさんに育ててもらったから、ずっと見て来たからね。」
「フライングクロスチョップもずっと×。」
(この国の主従関係って…僕達の感覚の方がおかしいのかな?──いや、そんな事はどうでもいい。お嬢様とちゃんとお話ししなくちゃ。)
「ねぇ、ジェズ…」
人気の無い校舎裏に差し掛かるとミーシャが足を止めた。気持ち遅れて振り返ったジェズと少し距離が開く。彼女の何処か眠そうで退屈そうだった何とも言えない笑みは、いつの間にか疲れ切った表情に変わっていた。口は辛うじて笑みを保とうとしているが、眉毛と何よりその目は泣き出す寸前。ジェズはミーシャのあまりの変化に驚愕する。
「!──お嬢様?」
「…ジェズはさ、ジェズはあたしがどうしたら、ジェズの事を話してくれる?」
「え?」
「昔のジェズの話とか思い出だとか、そう言えば聞いた事ないなって…聞かせてもらった事ないなって、あたし思ったんだ。でもそれはあたしも同じで、今の自分達の事とか、仕事の事ばっかり話してたかなって、そう思って。」
「──あぁ、それで今日って事ですか。」
(何だ、僕の昔の身の上話を知りたいから構ってたって事か。─それを僕の事が好きだなんて勘違いしちゃうとか僕は××。まぁ、そんなもんだよね↓。)
腑に落ちてさっぱりしたジェズはテンションが地の底にまで落ち着く。妙な安心感さえあった。身分も弁えぬ思い違いをした自分が愚かしく、忌々しいとさえ自嘲する。
だとしても大袈裟ではなかろうか、日陰に居るせいかミーシャの姿はとても切なく見える。自分がとんでもなく悪い事をしているような後ろめたい気持ちになった。お嬢様は何故そんな事をこんなにも知りたがるのか、ジェズが困惑する前でミーシャは食い下がる。
「あたしが自分の事をちょっと話したからって…少しばかり仲良くしたからって、その相手が1日2日くらいで自分の事を話してくれるなんてさ、ある訳ないよ。~分かってるよ?分かってるけどさ、あたしって1日2日?もう半年くらい経つよね?1年とか2年経たなきゃダメ?何が足りないかなあ??……どうすればいい?…あたしはどうすれば話してくれるの?!」
何だそんな事、ジェズにとってはその程度。目を閉じて微かに息をついた。
彼はミーシャへ歩み寄る。彼女の細い肩へ両手を添え、潤む瞳を真正面から見詰めた。
「ミーシャお嬢様がそれをお望みならお話しします。ですが、愉快なお話は数える程しかありません。」
「いいよ、それでいいっ。」
「でもその話の中には、愉快な事の倍の量の不愉快な事が含まれてしまうんです。」
「──倍…不愉快……?」
「僕が生きて来た世界は弱肉強食です。周りの自然はもちろん、人と人がいがみ合ったり、呪い合ったり、殺し合ったり。それが当り前、血生臭くてどろどろした世界です。
ウィル先輩の居る魔法警察が相手をしているのは、きっとそのどろどろをこの国に持ち込んで来た連中なのでしょう。」
「───」
「僕はどろどろが嫌だし、僕がどろどろだと思われたくない。何より面白い事が殆ど無いので特にお話はしなかったんです。─ごめんなさい。」
ミーシャの肩から強張った感触が引いて行く。ジェズは手を優しく放した。
彼女は顔を少し俯かせたが、表情は穏やかになっていた。
「…ジェズの気持ちは分かった。それでも、あたしは聞かせて欲しい。」
「×え?」
「面白いとか気持ち悪いとか、そういうんじゃない。
ジェズが、…ジェズから、ジェズの事を話してくれる、…それがいいんだよ……」
「お嬢様──」
ミーシャが必要としているのは身の上話そのものではなく、自身の情報を進んで教えてくれるようなジェズだったのだ。残念ながら彼はそれを正しく理解出来ていないが、彼女の言葉に応えようという気持ちはあった。
「じゃあ今日はちょっとだけ──
昨日のお客は確かにブラック・ドゥーなんですが、その人は実は、僕の義理の姉だったんです。代替わりでドゥーになったと言ってました。言い伝えでしか知らない事だったんですが、まさか本物をお目に掛かれるなんてびっくりしました。
姐は僕がこの国でちゃんとしているのか心配でこんな遠くにまで逢いに来てくれたそうです。陰から覗き見してたのは、姐なんです。お騒がせしました。」
ジェズは敢えて情報を絞る。まだ「安心していない」心配事は伏せておいた。彼の話を聞くミーシャの表情に笑みが戻ったからだ。
彼女はジェズの胸元へ両手を当て寄り添った。
「ジェズ───」
「★お!ぉおぉおぉお嬢様っ!?」
ジェズの顔のすぐ左にミーシャの顔が来る。ほぼ抱き付く格好にジェズは度肝を抜かれた。
(耳のすぐそばでミーシャお嬢様の息がする?首筋に息が掛かってるよ?身体全部でお嬢様の体温を感じる、なななな何か熱い#!お嬢様の手の平からお嬢様の心臓の鼓動が伝わって来てる!凄くドキドキしてる…すっごくドキドキしてるよっ?どどどどどどうしようっ!あれ?何でこんな事になったの?!何が起こってるのか僕にはさっぱり×!やっぱりミーシャお嬢様、僕の事が……好き、なのかなあ??いやいやいや!×…んでもでも、ぇえええっっ?!)
彼女を抱き締めたい強烈な衝動に駆られる。ジェズの両腕は心許無さげにゆるゆる上がって行くが、掴み掛かった先は彼女の両肩。なけなしの理性が彼女から身体を離す事に成功した。全身にのし掛かる超重量物質を漸く押し退けかの如き、想像を絶する疲労感がジェズを襲う。理性の勝利などとちみっちゃい誇りにすがり付いた。しかし、それも束の間の足掻きだった。
両肩を抱かれたミーシャが熱に浮かされたような恍惚とした表情でジェズを見詰めていた。
「ジェズ……あたし………何だか……」
「★★★!」
「熱いんだ……熱いよ、ジェズ…」
「☆★★!」
「ねぇ、……もしかしたら……あたし………」
ミーシャはそう言うと瞳をゆっくり閉じる。微かに顎を上げて静止した。この体勢は、
(☆★!こっ、これは?!くっっっくくくくく口づけ?口づけの格好じゃないか?!ミーシャお嬢様がっ?!愛の…あああああ愛の契りを!?え、ちょっと待って☆!僕は夢でも見ているのか?!いや、でもこれは#!あああああっ~~~~~~
ぁああ……お嬢様のくちびる柔らかそう………お嬢様のくちびる柔らかそう~~~)
タガが外れてしまった。彼女の肩を掴む手に力がこもる。
(据え膳食わぬは───一兎も得ず!!)
欲望に屈した事を間違った諺で言い訳すると、とうとう彼は目を閉じゆっくり彼女へ顔を近付けて行った。お嬢様の唇が、お嬢様の唇が、それしか考えられなくなったジェズだが、彼は彼女の唇の感触になかなか辿り着けない。最初はもどかしく思うだけだったが、暫くして様子のおかしい事に気付く。
薄っすら片目を開けると白い首筋を伸ばして仰向けになった彼女の顎下が見えた。いつの間にか玉のような汗をかいているではないか。崩れるように倒れ込むミーシャを我に帰ったジェズは慌てて抱き抱えた。
「★お嬢様!?………………………身体が……身体が熱い…」
高等学部三年の教室。豊かなレモン色の髪を靡かせてリュアラは振り向いた。
「え?」
「え?」
「?─何か言ったかしら?」
「いや、私は何も言ってないけど。」
「そう。何処からか『また変な言葉教えたろ』って言われたような気がしたんだけど──」
「外が何か騒がしいから、それじゃない?」
「あぁ。そう言えば──」
窓を開けようとリュアラが席を立った所で、教室の出入口に隣のクラスの生徒が飛び込んで来た。ぜいぜいと息を切らせる女子生徒の血相を見てリュアラは身動ぐ。
「っど、どうしたの?」
「~メリーベルさん!あなたの妹さんがっ、裏庭で!大変な事に!」
「ミーシャが?一体何をそんな」
「↑あんなの!私の口からなんて#~とてもじゃないけど言える訳ないでしょ!とにかく早く行ってあげて!あの付き人を止められるのはあなたしかいないっ!!」
「★ジェズが?!」
付き人と聞いてリュアラは教室を駈け出した。ジェズがミーシャへ何か狼藉を働いているとでも言うのだろうか、ありえない。そのうえ、口に出す事も憚られるような行為に及んでいるなどリュアラにはまるで想像がつかない。しかし不安要素には心当たりがあった。
(食事も摂っていなかったし、朝からミーシャは様子がおかしかった。ジェズに対して妙な雰囲気だったし、彼の事で何か?あったのか…~ジェズもジェズよ、何してるのもう!)
現場と思しき校舎の壁際に十人近くの生徒らが身を潜めているのが見えた。裏庭を覗き込んでいるようだが、彼らの顔は何かに明るく照らされており、全員が一様に怪訝な表情をしながら固唾を飲んで校舎の裏を凝視している。息を整えたリュアラが野次馬らに声を掛けようとしたそのとき何かが起きた。彼女は一瞬なにが起きたか判らなかった。そして、
断末魔のような奇声が聞こえて来た。
「↑メンカタメアジコイメアブラオ~~~メ!!」
「★こ×、この声は?!」
人垣を迂回して恐る恐る裏庭へ立ち入る。
展開される光景を目の当たりにしてリュアラは絶句した。
火の手が上がっている。キャンプファイヤーよろしく四方に焚き木が組まれ、燃え盛る炎が派手に火の粉を撒き散らしている。炎は奇妙な魔法陣を囲んでおり、その中央ではミーシャが山ほど敷かれた雑草の上へ横に寝かされていた。彼女の頭上と足元には小石が積まれ、狼煙のような煙を上げている。原始的な祭壇を想像させた。
そしてそれを前にひれ伏す異形の人物が居る。褐色の肌を晒す半裸のそれがジェズなのは確定的だが、リュアラはそれを全力で否定したくなった。極彩色の羽を飾った頭巾、多数の牙をあしらった首飾り、爬虫類の物と思しき皮で出来た腰布に腕輪・足輪。何より目立つのは肌を彩る七色の紋様。一色一色が太い紡錘で描かれ、手足や胴に七色が扇状に配されていた。
常軌を逸した奇態にリュアラの声は裏返った。
「×××ジェズっ!」
「メンカタ…★リュアラお嬢様!?」
「★ひいいいいいいっ!!」
何だそりゃ。振り返った彼の顔も彩色済みで、目から上は炭のように真っ黒、頬は虹の扇になっていた。収穫祭のお化けの仮装でもこんな酷い恰好はしない。酒蔵で従業員の印象向上を常日頃心掛けているリュアラにとって、この有り様はとても容認出来るものではない。
「↑あなたは一体何をしているのかっ!?」
「大変なんです!ミーシャお嬢様が熱病の悪魔に憑りつかれたんです!」
「熱病の───『悪魔』ぁあ?」
「そうですっ!この悪魔に憑りつかれると、熱にそそのかされて普段なら言わないような事を言ったり、変な事をし出したりします。熱で乗っ取れないと悪魔は頭痛や身体の節々に痛みを起こして、憑りついた人を動かせなくなるように仕向けます!ついには食べ物をとる事も水を飲む事も出来なくなって~~その人は死んでしまうんです!」
「それは病気で悪魔は関係ありません!それと今のこの有り様は何の関係があるのです!?」
「これはミーシャお嬢様から悪魔を追い払う『悪魔祓いの儀式』ですっ!!」
「↑ミーシャを生贄にして悪魔を呼び出しているようにしか見えません!!」
「事は一刻を争います!急がないと!
メンカタメアジコイメアブラオ~メ、メンカタメアジコイメアブラオ~~~メ!!」
「病気ならお医者様に診てもらえばいいのです!こんな真似はおやめなさい!」
「しかし、ミーシャお嬢様は僕に助けを求められたんです!…それに応えなければ!!」
「~~~あっなったっとっ言う人はぁぁぁぁああああああっ、」
リュアラは珍しくキレていた。周りの人達に醜態を晒している上、何よりジェズが自分の言う事を聞かないからだ。焦りがそうさせるのか、今の彼は頑なである。双方がこんな状態になるのは、ジェズがベッドで寝る事を躾けられていた以来の珍事だった。
激昂したリュアラが後ろへ駈け出す。すぐさま踵を返すとそのまま助走し背面跳びのように跳躍した。宙を舞う身から足が伸びて、
「←いい加減になさああああああああいっ!」
「★?メシウマッッ!×」
「ドロップキック、華麗に決まりましたーっ!
生贄の少女を悪魔へ捧げる邪悪な儀式のカットに飛び出したのは我が学園の才媛!金色に煌めく白き鋼『ゴージャス・リュアラ』ーっ!」
歓声が上がる。釣られてリュアラもポーズを取ってしまった。いつの間にやら周辺の観衆は数を増しているではないか。傍らにはテーブルが設置されており、メガホンを手にした小柄な眼鏡男と老け顔の筋肉男がパイプ椅子に座っていた。捲くし立てているのはメガホンだ。
「対するのは突如現れた謎の呪い師!彼の儀式が完了すれば悪魔召喚は成就するッ!少女の生命は風前の灯!絶体絶命!悪魔を呼び出すも追い払うも自由自在の変幻自在!虹色マッドマン『レインボー・ウンババ』ーっ!」
「ニンニクスリゴマ!ニンニクスリゴマ!↑フジサンオトシ~~~ッ!!」
ジェズのリングネームはウンババが相応らしい。彼はドロップキックのダメージなどものともせず立ち上がり儀式を続ける。機敏に両腕で頭上へ山を象り屈伸を繰り返す、彼の方こそ悪魔に憑りつかれてはいまいか。
場のテンションがメガホンの実況に高められて行く。ギャラリーの目には純白のレスリングコスチュームに身を包むリュアラの眩しい姿が映し出されていた。そんな姿で捉えられている事などリュアラには当然分からない。
「レディー、ファイッ!!」
遂に闘いのゴングが鳴らされた。
リュアラは勢いでウンババへ咄嗟に掴み掛かる。校舎裏に歓声が沸いた。
「両者リング中央で組み合ったー!オーソドックスなストロングスタイル!力比べは均衡して……いや、リュアラ選手ウンババを逆手に取った!ウンババ苦悶の表情!初手はウンババ劣勢です!」
「←いや、ちょっと待って下さい!実況コッペさん、」
「何でしょう、解説ゴリさん?」
「押され気味ですがウンババの体勢!あれ、──リュアラ選手の胸、当たってませんか?」
「★ぉおっとお?あれは…確かに、」
「あれ絶対に当たってるよね?」
「当たってますね、」
「あれ絶対に当たってるよね!?」
「当たってますねー!苦悶のウンババ、実は悶えていただけだったー!」
女の敵、俺と替われ、様々なブーイングが飛び交う。しかし、儀式の継続に焦るウンババが跳躍するとブーイングはどよめきに変じた。彼はリュアラの真上で倒立し、頭上を越え彼女の背中側を向くようにして降り立つ。手を掴まれたままの彼女は腕が交差した状態でブリッジせざるを得ない。10秒と持たず彼女は無茶な姿勢に耐え兼ね腰をくだけてしまった。
「★おーっと!ウンババ空かさずリュアラ選手を抱きかかえ走り出したー!一体何をするつもりなのか?!新たな生贄とされてしまうのかリュアラ選手!!おっと?場外へ飛び出したあ!」
「ワーン!ツー!スリー!」
「レフェリーは女性ファン急増中!お馴染み『疾風の紅』ことヴァーミリア・セシルー!」
場外のカウントをし始めたのは歌劇団で男役をやりそうな長身の麗人。レフェリースーツを華麗に決めて颯爽と現れたその瞬間から黄色い声が上がった。プラプラの有名人らしい。
お構いなしのウンババは離れの草叢にリュアラをころんと転がして、猛ダッシュで魔法陣に駆け戻り両腕で天を仰ぐ。一際大きな雄叫びが響き渡った。
「↑ニンニクマシマシヤサイスクナメ!アブラオ~メ、カラメオ~~~メ!!」
不気味な呪文が全てを震わせる。彼の叫びに呼応するかの如く火の手は勢いを増し火の粉を吹き上げた。人体の動きを遥かに超越する奇怪な踊りは増々加速し、観衆は何某かの絶対的な力の下に目を放せなくなってしまう。儀式は最終段階へ移りつつある事を全員が確信し、恐れ慄いた。或る者は家族の名を、或る者は精霊の名を呟く。跪く者まで居た。
怒濤の展開の速さに場外のリュアラもすっかり呑まれていたが、レフェリーのカウントが耳に入るとその場を跳ね起きてリングへ駈け出した。
「エイティーン!ナイティーン!!トゥ」「←させないっっ!!」
「ブタマシブタマシ!!ブタマシブ★べらっっ!?!?」
「☆ぉおおおっとー!?20カウントギリギリでリュアラ選手のフライングクロスチョップがウンババの首元を直撃ーっ!横に吹き飛ぶウンババ、マットに轟沈んんんんっ!!」
「←待って下さい実況コッペさん!」
「何でしょう解説ゴリさん!?」
「ウンババ、あの体勢で受け身を取ってます。まさに根性ですね、執念です!」
「★何と言うバイタル!そこまで悪魔を呼び出したいか強烈なメンタル!ウンババ、恐ろしい男っ!ウンババしつこい!しつこいぞウンババーっ!!」
「←リュアラ選手が仕掛けます!彼女はこれで決めるつもりです!!」
「ウンババをロープへ投げてー、かーらーのーアックスボンバー決まった!☆リュアラ選手、攻撃の手を休めない、↑コブラツイストーー!!ウンババこれは抜けられないいいいっ!!」
「←しかしこれはっ……女体に絡まれるウンババには『ご褒美』なんじゃあ、」
「★確かに!ワタクシも絡まれたい!!会場から非難と懇願の声が巻き起こるっー!★おっとリュアラ選手が急に吹き出した?!爆笑です!笑い転げたこれはーっっ?!」
「←ウンババ、くすぐり攻撃ですねっ。」
「ウンババまんまと戒めを逃れた!リュアラ選手、脇腹を責められると弱かったーっ!!ああしかしリュアラ選手諦めない!ウンババの後ろを取りアトミックドロップ!尻ダメージに千鳥足のウンババをそのままロープへ…リュアラ選手フランケンシュタイナー!!流れるような連続技!!」
「←リュアラ選手、大胆な太モモ攻撃ですねっ!」
「太モモ攻撃っ!ワタクシも挟まれたいっ!!あの眩いばかりの双丘に顔をうずめて、天へ召されたいいいいい!リュアラ選手そのままフォールっ!!」
「ワーンッ!ツーーッ!スリーーーッ!!」
勝利のゴングが高らかに鳴り響き会場の興奮は最高潮に達した。観衆はいつの間にか対面の校舎の窓際にまで及び、事態は高等学部全体を巻き込む大騒動になっていた。レフェリーが邪悪な儀式の完遂を阻止した勝者の手を取り天に掲げる。その場の皆が彼女の功績を喜び大いに称えた。
そんなお祭り騒ぎの感動シーンの傍ら、現実的で真面目な動きは地味に進んでいた。
「─風邪ですね。熱は高いですが、一晩もあればお薬だけで。」
トキミである。今日はいつものナース姿だ。
彼女は横たわるミーシャの額と頸から口元を流すように触診するとあっさり断じた。
白い彼女が居るなら黒いあの男も居る訳で、
「そこのチンドン屋はどうだ、」
「切羽詰まっていた事だけは確かですね。」
「ん?」
「自虐思考の使命感と思春期特有の青臭い性欲との悲しくも虚しい葛藤の痕跡があります。」
「──」
「完全に気絶してますね。本職のチンドン屋さんドン引きの奇天烈な化粧はともかく、表情は綺麗です。」
「そうか。」
「ああ、それと、」
「ん?」
「鼻腔から大量の出血があります。正直あまり触りたくないです。」
「そうか↓。」
貴様ら何をしている、ジュウモンジの胴間声が轟いた。炸裂したぶっきらボマーに辺り一帯は騒然となる。その場に居合わせた女子はミーシャの搬送に、男子は消火と周辺の清掃活動を当然の如く強制させられた。
ここに至ってリュアラは我に帰ったが、顔色を目まぐるしく変えると急に暴れ出した。その場の空気に乗ってしまった自分への嫌悪と、空気を醸造してまんまと乗せてくれた実況解説らへの逆恨みから、リュアラの精神は暗黒面に堕ちてしまったのだ。諸手でパイプ椅子を振り回し実況者と解説者へ執拗に襲い掛かる。女子レフェリーの身体を張った必死の制止を受けて、リュアラは漸く正気を取り戻した。
レインボー・ウンババことジェズは、保険医が懐から出した小瓶の匂いで無理やり覚醒させられた。因みに小瓶の中身はアンモニア。彼はミーシャの容態と保健室で看てもらえる事を聞かされ安堵するのも束の間、怒りのスピリットをひた隠すリュアラから雷をよろしく頂戴し、主人共ども生徒指導室へ連行されて、教頭よりお叱りを受けるわ反省文を書かされるわ便所掃除を賜るわの散々な目に遭わされる事となる。
(──そうだ、罰なんだ。
ミーシャお嬢様に変な事を考えた罰なんだ。ああ、僕のバカ↓↓↓
バカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカ──────)
☆☆☆
「──夢を見ていたみたい。」
翌朝、大学校舎の保健室でミーシャはそうのたもうた。高熱で気を失っていたが、トキミの処方箋によりミーシャは一晩で快癒したのだ。それが夢を見ていたような感覚に拍車を掛けている。そのうえ朝から保健室の畳の上で異国の朝食をいただき、緑茶など上がっているのだから尚更だった。
見舞いに訪れたジェズは肩透かしもいいところ、あっけらかんとするお嬢様の目前で露骨に肩を落とす。
「お加減は…いかがですか?」
「お加減も何もピンピンしてるけど。」
「それは何より↓。」
「何よ、ピンピンしてちゃ不満だって言うのっ?」
「★いえ、そんなとんでも×…あはははは。」
(悪魔祓い…あんなに頑張ったのに、何だか訳の解らない内にリュアラお嬢様に止められちゃったしなぁ。それが薬を飲んで寝ただけで治っちゃうとか×…あふん↓。)
捨て身の献身が無駄骨と知った彼の落胆ぶりは推して然るべし。しかも、高熱で倒れていたミーシャは憶えていないのだから、ジェズがどれだけ頑張ったのかなど誰も評価をしてくれない。例えミーシャが憶えていたとしても、彼女が彼の意に沿う評価をあの奇態に適用できるかどうかは甚だ謎である。
更に、ミーシャは気絶で記憶が無いどころか、昨日の記憶が丸々曖昧だと言う。発熱していた影響と思われるが、ジェズは都合が良い事もあり悪い事もあり、一人寂しく複雑な気分を味わっていた。
トキミが小さい盆に湯呑み茶碗を乗せて来た。割烹着姿がこじんまりとして似合っている。彼女は湯呑みを畳の上のちゃぶ台へ置くとジェズへ茶を勧めた。
「あなたは付き人でしょう。主に付き添っているのなら変調にも気を付けなさい。」
「↓はい。」
「悪魔祓いは今後一切しない事。この地にはこの地の理があるんです。」
「↓↓はい。」
「それと、学園内で火は起こさない事。生徒手帳にも明記されてるでしょう。」
「↓↓↓はい。手帳は…知りませんでした。」
「いいでしょう。手帳は後で確認なさい。──先生、」
自席のジュウモンジがぶっきらぼうに椅子を回してちゃぶ台へ向く。いつもの仏頂面で茶を啜っていた。
「言う事は特に無い。授業に遅れるな。」
「「はい。」」
一服したミーシャとジェズが退室すると、立ちんぼだったトキミは割烹着を脱ぎ出す。
「放っておいて良かったんですか?」
「良かろう。要らぬ詮索は野暮と言うものだ。」
「酒蔵の関係者に聞かれては、彼にとって都合の悪い事があるかも知れませんね。」
「こちらの読み通りならそうなるな。」
「………」
やっぱり面白がっている、トキミは話し相手を横目にそう気付くと眉をひそめた。向こうもそれに気付いたらしい。
「粋と言うものだ、詮索は野暮天だぞ。」
「お腹の中を探るのはお好きでも、探られるのはお嫌のようで、」
「何だそれは。」
「後者も私は嫌いじゃありません。今感じている解ってほしい想いを、敏感に、繊細に、自ら望んで、察して頂けたら…と、思う事はあるんですよ?」
「それはそう言え。腹の中を探るというトキミの言い回しは物騒だ。」
「?」
「どうしたのジェズ、」
「保健室の方から素手で魚のハラワタをつかみ出すみたいなエグい音が聞こえたような。」
「気のせいよ。」
「そうですね。」
大学校舎を後にする。ミーシャの斜め後ろにジェズが続く。いつもの立ち位置、いつものお嬢様。ジェズはいつも通りで安心すると同時に、昨日のベタベタも悪くはなかったと名残惜しいものを感じる。それはさておき、
(熱病に伏すミーシャお嬢様のため、リュアラお嬢様の制止も振り切ってあれだけ頑張ったんだ。せめてミーシャお嬢様にだけは……)
リュアラの太腿に挟まれ振り切ったのは彼の意識だったのだが、今の彼は理解者が欲しくて仕方がなかった。
「──ミーシャお嬢様、お嬢様が倒れた時は大変だったんですよ?熱病の悪魔は短くても三日三晩は憑りついた者から離れません。本当なら悪魔を追い払うためには四日以上儀式を繰り返さなくちゃならないんですっ。」
「へー。」
「悪魔祓いは術者数人が交替で執り行います。火も焚き続けなきゃならないんで、燃やす物の確保が大変なんです!あのとき儀式を出来る者は僕しか居なかったけど、あそこは燃やすのに手頃な植木がいっぱいありましたから、やり遂げられると思ったんです!」
「ふーん。」
「えと、…ぁあぁあの衣裳は僕のカバンの中に入れていつも持ち歩いてるんです!化粧の塗り薬は使いきっちゃいましたが↓…ああでもでもっ、この辺でも材料を調達できるかも知れませんから!例えまた悪魔に憑りつかれても大丈夫ですよっ?その時は僕に任せて下さい!!」
「あそ。」
「ミーシャお嬢様あぁ↓↓↓、」
ミーシャの素っ気ない態度にジェズは酷く悲しくなった。報われない辛さは親しい刺激と思っていたが、新種の辛さに彼の認識は脆くも崩れ去る。情けない顔で半ベソだ。
そんな彼らの後方から聞き覚えのある声が追い掛けて来た。
「お断りしますっ!」
「★あっ…」
(しまったあああああ!すっっっかり忘れてたぁ×……)
大学の校舎から追って来たのはリュアラである。そもそもジェズは彼女と一緒に大学へ訪れたのだが、道中に割り込みが入り、彼女の指示で彼だけ保健室へ先行していたと言う訳だ。
前傾姿勢のリュアラはしかめっ面で肩をいからせながら迫って来ている。昨日から大目玉をたらふく食っているジェズが慌てない訳がない、彼女の間合いに捉えられた事を本能的に感じ取るとミーシャの陰へ身を縮める。その全く隠れられていない彼の顔に、いよいよリュアラの影が落ちて来た。
「─ジェズ、」
「★フはっ!×××はい…」
「あなたは名を呼ばれ次第、私の居る所へ馳せ参じるのではなかったのですか?」
「はい……はい、そそ」
「←何あ故え呼んでも来なかったのですかっ??」
「?!…スそっ、それわ~~」
(いやあ、だって完っ全っにミーシャお嬢様の事しか考えてなかったもんなあぁぁ×。)
「──私はあなたを少し甘やかしていたのかも知れません。」
「は…はわわ!×」
リュアラは更に踏込み顔をジェズの耳元へそばだてる。
冬の夜の半月のような荒涼とした顔をしていた。
「帰ったら少し…『お勉強』をしましょう───」
「!!★×★×★×………………」
「あ、居た居た!待ってくれリュアラ君!我々と共に頂点を目指しましょう!!」「プロレス界へ殴り込もうじゃあないか!!」「待ってリュアラ!私とタッグを組もう!私達が一緒ならきっともっと強くなれる!!」
顔色を無くしたジェズの焦点の向こうから砂煙を上げて群衆が追い掛けて来る。今度は彼らの声を聞いたリュアラが顔色を無くした。
「~~差し当たってジェズ、あの人達をここで食い止めなさい!私の姿が見えなくなったら自由にして構いません!」
「ぇ…え?」
「いいから!頼みましたよっ!
───謹んでお断りします!私はプロレスなんてしないですからーっ!!」
リュアラは堪り兼ねた様子で逃げ出した。あまりの俊足と帰ってから「お勉強」がある事にジェズは呆然自失となる。気が付けば追手は既に目前まで迫っているではないか。
「★あわわ!まっ、ままま待って下さい!ここここここから先に通す訳には!」
「←どいて!ウンババの中味ーーっ!!」
「?★ブタダブルッ×!!」
『疾風の紅』ことヴァーミリア・セシルのウェスタンラリアットがジェズに決まる。砂塵に呑み込まれた彼が再び姿を現したのは、群衆が走り去った後の地面の上。仰向けに倒れボロ雑巾のようになっていた。
リュアラを追い掛けているのは大学のプロレス同好会の面々である。昨日の騒動の火付け役であり、ミーシャの迎えの道中で割り込みを掛けて来たのも彼らだ。実は前々からリュアラに目を付けていて、ジェズの騒ぎを利用してスカウトに踏み切ったらしい。ジェズがボロボロなのは完全にとばっちりだが、連中が居ようと居まいと結果に大差は無かったと思われる。
もはや煮るなり焼くなりアズユーライク、ジェズの目からしょっぱい涙がダダ漏れる。
そんな彼に救いの手が差し伸べられた。一条の光にジェズの手も自然と伸びる。
救いの主はミーシャだった。
「あたしの言った通り……ジェズの事、ジェズから話してくれたね。」
「ぇ、」
「あたしの言った事、これからも守ってよね。」
「☆ミっ…ミーシャお嬢様あっ#♪─────────あれ?
言った通りって?ミーシャお嬢様、昨日の出来事をはっきり憶えてなかったんじゃ…」
「あー、そうね、はっきりとは。でも、うっすらとは憶えてるかもねー?」
「×えっ??」
「あたしの言う事、ちゃんと聞かなきゃどうなるか……解るよね?」
姉を真似てミーシャも踏込み顔をジェズの耳元へそばだてる。
彼女は小悪魔のようなちょっとだけイタズラっぽい顔をしていた。
「あたしにキスしようとした事は…内緒にしといてあげる───」
「!!★×★×★×………………」
(ミーシャお嬢様が?!アレを憶えて?!よりにもよって?!恥ずかしいいいい#!いやいやそんな事より、あんな事がもしも…リュアラお嬢様にばれでもしたら……~~~
↑うわああああぁあぁあぁあっ!怖い怖い怖い!そんなこと考えたくもないし考えようとする事すら怖くて出来ないいい!いいいいやああああああっっ×★@〒▼!!!!)
ジェズは恐る恐るミーシャに陳情を試みる。
彼の額は煮詰めた獣の脂のような汗を垂れ流していた。
「─っミ、ミーシャお嬢様……あのー…昨日のあの、あれですね…その、えと~~~」
ミーシャは身を少し離すと翻る。一晩明けて身体がすっきりした事もあるが、今朝は何より心が晴れやか。今の彼女には「ジェズは自分を裏切らない」と言う確信があったからだ。
一昨晩の憂鬱が嘘になる。すこぶる気分がいい。
オレンジ色の髪を靡かせながらジェズへ向ける指鉄砲、そしてウインク。
「あたしの機嫌を損ねない事ね☆。」
ジェズはまた勘違いをしていた。ミーシャの上機嫌がジェズの決定的な弱みを握った事によるものと考えている。始業前にたっぷり脂汗をかいたと思ったら、放課後にはたっぷり油を搾られる、彼はまるで生きた心地がしない。不憫だ。
(─僕って、僕が思う以上に、か弱いんだなあぁ………あふん↓。)