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危険な来訪者

2018/1/27 誤字を修正しました。

■■■ 危険な来訪者 ■■■


 この国の霧は凄まじい。海に近付けば近付くほど濃くなり、本当に酷い時は昼間でさえ前へかざした灯りを持つ手がぼやけて見えなくなる事もある。人目の届かぬ冷たい霧の中は犯罪の温床。国は対策として港に面した町工場を足掛かりにガス燈の設置を進めているが、殆ど役に立っていなのが現状だ。霧の緩和どころか辺りを照らす事もままならぬのだ、犯罪を防ぐ効果など望むべくもない。

 怪しげな灯り揺らめく空気と水の混濁に今宵も兇漢が暗躍する。


「~チっ、頭数が多い×。─話が違うじゃねえか、ぁあ?!」

「うるさいね繰り鉤(くりかぎ)、身体が鈍ったんじゃないのかい?仕事しなっ!」

「やってんだろが!ったくあのクソジジィ共、病み上がりにこんな事させやがってっ~~」

「お前が勝手な事やったからだろ!こっちはとんだとばっちりさ!~ほら、とっとと走んな!このウスのろ!」

「↑雌ガキがあぁぁ、後で絶っっ対ぇ泣かすっ。」

「~抜かせドーテー、頭を胴体へネジ込んでやろうか?」


 夜闇と濃霧で視界はほぼ無いに等しい船着き場。そんな場所を全速力で走っているのは、繰り鉤ギギシと仲間の一人である。背恰好はギギシより少し小さい程度で、頭から雨合羽のような物を着込んでいる。顔は陰に隠れて全く見えぬが、大きな赤い目が一つ爛々と光っていた。こいつには闇も霧も関係なく周りの物が見えている。ギギシは手にするランプの頼りない明りでこいつの背中を照らしながら走っていた。


「船に着いた!階段を上る、コケるんじゃないよ!」

「クソッたれっ!」

「そろそろ【爆弾】が仕掛けるはず、ぬかるな繰り鉤!」

「★痛てて!~おい!本当にブツはぶら下がってんのか?!俺様見えねえんだからな!?」

「いかにも作業の途中だよってな感じでクレーンに下げられてるよ。手筈通りだけど、爆弾が動かないとこっちも迂闊に手が出せないね、──魔法警察は追いついたかい?」

「↑見えねえっつってんだろ。しかしアイツらどうやって俺様達を追い掛けてんだ?お前みたいな奴が向こうにも居るってか??」

「世の中には自分に似た奴が三人は居るって言うからねえ。」

「お前は目じゃなくて(ツラ)全体で物を見てんのか。誰が人相の話を───おっ★」

「爆弾め、始めたか。─火を焚くよ繰り鉤!」


 隣の船着き場から次々に爆発音が轟き、瞬く間に火の手が上がった。陽動である。ギギシの仕事は、目当ての船荷が検疫を受ける前に別の物へすり替える作業だった。荷物が大きいため船から船へとクレーンで交換するのだが、重機を動かすのはリスクが高過ぎる。よって互いのクレーンに下げられたパレットを繰り鉤で手繰って隣接させ、パレット上で船荷を入れ替える段取りを踏む。


「足元がグラつくぞ繰り鉤!しっかり固定しろ!」

「~こちとら曲芸みてえなマネしてんだ、贅沢ぬかすな早くしろ!」

「↑グルルルルルルルルルッ!!」


 パレット同士を支える添え木が軋み嫌な音を立てる。霧の向こう側で爆弾相手に戦っているであろう魔法警察には聞こえまい。脂汗を掻きながら4つの繰り鉤でパレットを固定するギギシの後ろで、枕木から生木を裂くような破壊音を立てて船荷が移動して行く。一辺が3m超の立方体を押しているのは先程の赤い目である。その目を今は黄色に輝かせ、とんでもない怪力を発揮していた。咆哮を耳にするギギシの脂汗に冷や汗が加わる。


「~終わった繰り鉤!」

「よっしゃ緩めるぜ。向こうの船に戻ったら繰り鉤外してここへ来るのを忘れんなよ!お前は見えても俺様は見えねえんだからなっ!」

「うるさいね、さっさとしな!」

「~~化けモンが→。」


 パレットを元に戻した両名は陽動で炎上させた船へ移動し、魔法警察の後ろから彼らに襲い掛かる。船上の爆弾との挟撃も手筈通り、警官を一人残らず海へ叩き落としてまんまとその場を逃げおおせた。今夜の所は大成功、肝心の船荷の受取りは他の仲間に任せてある。

 ギギシらは港に並ぶ大きな倉庫の一つに潜り込んだ。本来なら霧に乗じて遠くへ逃げるべきなのだが、霧が濃過ぎて難があるとの判断から彼らは夜明け前まで待機する事にした。


 室内の壁のランプに火が灯される。アジトの地下室は熱で生じる空気の動きを肌で感じられるほど湿気が濃密だった。四角い空間の中央には板っきれで出来た机と椅子があり、ギギシと爆弾が腰掛け脚を組んでいる。その周りには大小様々な木箱が転がり殺風景も極まれり、居住性の居の字も考えられていない。ギギシは不満を顔から隠さないし、隠す気も更々無い。

 階段から白い脚を覗かせながら雨合羽が降りて来た。


「通風口も大丈夫。騒がなければバレない。」

「~お前らの『霧恐怖症』にゃ付き合いきれねえぜ。」

「恐ろしいと感じない方がおかしい。お前本当にトランプの生まれかい?」

「ちゃきちゃきだぜ。霧でも周りの見える奴が何をビビッてんだっつの、」

「魂に刻み込まれた恐怖なのさ。─やっぱり人種の違いかねえ。」

「人種の違いじゃね?アホくさ、」


「──恐怖と言えば、」


 爆弾と名を呼ばれる男が口を開いた。背格好はギギシより高く頑健で、随分と襟の高いマントに身を包んでいる。ボサボサで白髪の混ざるシナモン色の髪は目元に影を落とし、目付きの悪さに拍車を掛けていた。痩せ気味の精悍な顔立ちは、マントの下の服装も相まって何処か異国の軍人を想起させる。声もドスが利いていた。


「貴様らの恐怖の象徴、ブラック・ドゥーはどうした?」

「俺様べつに怖かねえがな。ちょいと保留だ。」

「うん?」


 ギギシの発言に眉を動かす爆弾の後ろ、雨合羽は積み重ねられた木箱に上がり、横へ寝転がって頬杖をついた。露わになった細い脚が揺れる灯りに艶めかしく照らされる。目は光を放っておらず、口元だけを陰から見せていた。


「人違いだったのさ。」

「まだ分からねえさ。『夜魔の爪』こそ晒してねえが、只者じゃねえ事は確かだ。」

「あんな優しい子がブラック・ドゥーな訳がないね。盛るんじゃないよ、」

「盛ってねえっ。アイツは片手で俺様を5mも吹き飛ばしたんだぞ!真上にだぞ?!こちとら三日も飯が食えなかったんだからな!?」

「それだよ。いい加減自分の言ってる事がおかしいとは思わないのかね?」

「ぁああ?!」

「いいかい?仮に『私が』お前の身体を片手で真上へ5m程ぶち上げるとしよう。どうなると思う?」


 雨合羽が目から黄色い光を放ち出した。返答しかねるギギシに代わり自ら答えてしまう。


「そんな力をぶつけたら、お前のはらわたはグッチャグチャ、最悪私の腕がお前の腹を貫いてしまうよ。─分かるだろう?お前がそうなってないって事は『真上』か『5m』かのどちらかがおかしいって事なのさ。」

「~~分かったよ、その件はいい。だが三日も飯が食えない状態に奴がしたのはマジだ。奴は只者じゃねえ、これだけは曲げねえぞっ。」

「分かったよ。─まあ、それはそれとして、ブラック・ドゥーが見つかったからって洞の言いようになるとは思えないけどねえ。」


 伝説のブラック・ドゥーと思しき優しい子の絵面が爆弾には想像できない。


「どの道その人物が洞にとって都合がいいか否かは見極めねばなるまい。─俺にはどうでもいい事だがな。」

「俺様達ゃ洞の直々だが、あんたフリーで雇われたんだっけか。今回はこれで終いか?」

「そうだ。輸入規制強化に対する報復と銘打っておきながら、裏でこそこそ麻薬の密輸など、卑賤な仕事はもう御免だ。」


「~フン、薬だけならまだマシさ。」


 雨合羽の声が苛立つ。身体を跳ね起こし、胡坐で片膝を立てた。


「あのコンテナ、~薬の他に女と子供が6人も入ってた。」

「人間?聞いてないぞ。」

「↑私だってそうさっ。見えたんだよ、コンテナの中が──あのゴタゴタの中でも眠ってた…多分薬で眠らされてたんだよ。ヴィリジアンの他にサルファラスも居たんだよ?何手広くやっちゃってんのさ!どんな客向けだい!胸糞悪いっ!!」

「単純な労働力欲しさではあるまい。客も客なら洞も下衆な集まりだな。」

「そうさ下衆さ!~~~ぁぁあああっ、もうムカツク!…私もう寝るっ。」


 背を向け横に倒れ込む。虫の居所は相当に悪い。


「寝てる間に変な事すんじゃないよ!」

「ハイハイ、俺様も眠ぃんだ安心しな。」

(だぁあれがお前なんかに手ぇ出すかってえの、化けモンが×。)


 ギギシが嫌厭する雨合羽は、危険な仕事も任される事しばしばの実力者である。自分自身を剛の者と気取るのは毎度の事だが、本人は実のところ女性であり、人に対する感情は普通人のそれに近い。だが、化け物染みた超視力と超筋力は否応もなしに彼女を【食人(グーラ)】と言わしめ、衆人を恐れさせていた。


 それから誰も声を発さない、時折ランプの火が揺らぐだけ。

 静寂だが薄暗い地下室の空気はどろどろしていて、最悪だった。




☆☆☆


「────────────」


「……」

「──────よく…寝る子だこと↓。」


 登校途中の汽車の中、いつもの席でジェズはいつものように寝ている。彼の朝には欠かせない新しい習慣となりつつあった。彼を労ってミーシャがフォローを入れる。


「今朝はニンジンとクレソン、ラディッシュとカボチャの種まき、あとタローさんとこの壊れた井戸の修理もあったから。ね、」

「それは判るのだけれど。─まぁ、ちゃんと寝られるようになったのはいい事なのかも。」

「進歩したんじゃない?」


 メリーベルに来たての頃のジェズはベッドで寝る事を恐怖し、室外に植わる樹へ寄り掛かりながら立って寝る事を頑なに止めなかった。当人曰く、肉食獣や猛毒を持つ虫の類いがいつ襲って来ても大丈夫なようにとの事だが、人の寝所ですら警戒を余儀なくされる程のシリアスな危険生物は本邦に棲息していない。安全である事をジェズのその身へ憶えさせるため、全ての酒蔵(ワイナリー)の従業員が骨を折ったという経緯を思い出し、姉妹は互いの頭の上辺りを向いて遠い目をする。彼は寝られるように進歩、と言うか「進化」出来たのだ。文明の勝利なのだ。


「それはそうとして…」


 ミーシャの方を向いて寝ていたジェズが足を懐にたたみ胎児のように丸くなる。口元を時折ちゃむちゃむさせる辺りなど、飼い馴らされたかつての野生動物でも見ているような錯覚に囚われる。これは如何なものかと周囲に視線をやれば、当然ながら自分達は注目の的になっている訳で、リュアラに目が合った乗客から次々と視線をあちこちへ逃避させ出す始末である。


(#何よ。うちでジェズをこき使ってるようにでも見えるのかしら↓。)

「ジェズっ、」

「んぐぅ…」


 身体が更に転がる。とうとう背もたれへうつ伏せ、正座するような恰好になった。ああもう何だかあり得ないわ見ていられないわ。赤面しながらリュアラがジェズの両肩を揺さぶろうと腰を上げた時、次の駅へ近付いた汽車が制動を掛け始めた。体勢を崩した彼女は彼の肩を掴んだまま後ろへ倒れ込んでしまう。

 丁度ジェズと二人並んで席へ座る恰好になった。流石に彼は目を覚ます。


「───ぇぶっ、ぁ…あれ?西日……★っもう夕方?!」

「落ち着きなさいジェズ×。あなたの席が前後入れ替わっただけです。」

「え?あれ??───あ、本当だ。でも何で?」

「あなたの寝相が酷かったの。」

「はぁ↓、大きなマシュマロのお化けが夢に出て来たんですよ×。それに襲われてうわー潰れるーって思ってたら、ミーシャお嬢様がそれにガブーッてかぶり付いて!一口で丸呑みにしちゃったんです!そしたら今度はミーシャお嬢様が」


「★ちょっと待ちなさいジェズ!昨日マシュマロ焼いてあげたのがあたしで、それガッついて喉を詰まらせたのがあんたでしょう?!そんなので勝手にあたしを夢に登場させて変な事させないでちょうだい×!」


 そこかしこからクスクスと微かな笑いが聞こえ、姉妹は揃って顔を真っ赤にする。ここまで恥ずかしい想いをするのは記憶に久しい。そんなお嬢様達の気も知らない使用人は周りにつられて笑みを見せている。ほのぼのとした日常の光景があった。


 その日常は彼の中で突如消え去る。ジェズの目付きが鋭く変わった。


「─────────」

「─ジェズ、急にどうしたの?」

「いえ、───ひと眠り出来たので頭がスッキリして来たところです。」

「良かったね、勉強が捗りそうで。」

「↓もう少し寝てていいですか?」

「こら。………」


 ミーシャはこの時既に使用人の様子がおかしい事に気付いていた。メリーベルの中でも彼と接する機会が最も多いから当然、と言う訳ではない。普段からジェズの事をしっかり見ている彼女の成果である。加えて敏感に察知できたのは彼女だからこそでもあった。今の彼は彼女の危惧する「怖いジェズ」そのものだったからだ。

 自分の変化を主に悟られている事も気付かぬ彼は、以降も時おり目付きを鋭くさせ、傍に居るミーシャの不安をただただ募らせて行った。今の彼には主の心を思いやれる程の余裕が無くなっていたのだ。


 事が動いたのは四時限目の体育の授業中。女子は100m走、男子は野球であった。


「いいかジェズ、お前の守備範囲があそこから向こうまでのレフトと呼ぶ場所だ。」

「守備範囲、レフト…。はい。」

「打者のバットに打たれたボールが飛んで来たら、出来るだけ地面に落ちない内に左手のグローブで受け止める。落ちたら右手で拾っていいぞ。」

「棍棒がバット…、玉がボール…、出来るだけ落ちない内…、厚手の手袋がグローブ…、受け止める……。はい。」

「そしたら、打者が走って向かうベースんとこに居る仲間へ受け取ってもらうよう、ボールをすぐに投げるんだ。」

「白い敷物がベース…、受け取ってもらうようボールを………」

「オッケー?」

「………はいっ、大丈夫がオッケーです!」


 級友に教えてもらいながらでフォームも滅茶苦茶。とても見られたものではないが、何とかジェズは野球をこなしているようである。


「行ったぞー!ジェズーっ!」

「★は、はい!~~~~~~取った!取れましたー!」

「セカンドへ投げろ!」

「セカ……何処ですかーっ?!」

「ジェズから二番目に近いベースーっ!」

「二番のベースがセカンド…、はいっ!」


 離れに居るミーシャは気が気でない。自分以外が走者である待機中は、体育座りをしながら片時も彼から目を離さない。


「次っ。マグワイアとメリーベル、スタート位置に着いて!」

「★あっ、はい!」


 ミーシャがハーフパンツの埃をはたく後ろで快音が響いた。打球はファールに終わったが、場外も明後日の方向へ去って行く飛球の確保に向かったのはジェズである。ミーシャの注視はここで完全に途切れてしまう。

 だだっ広い校庭の外側、高等学部の校舎よりも少し離れた人気(ひとけ)の無い庭園近くで転がっているボールに、ジェズはあと100mの処まで近付いていた。


(人前じゃ出来ないからなあ。─それより、久し振りだけど出来るかな。)

「──Suhoi mj uuonyo kkoenn us yesinza, mniienz iaerku om yasnoanko...」


 小走りしながらジェズは息に乗せて囁くように言葉を発する。奇妙な発音だった。


「Biahnss ay zoiukn oon hia hz saumuan, sihoiyr aa gnu ungaary io his.」


 草叢から顔を出しているボールを取る手には、眼を模したような紫色の紋様が浮かび上がっていた。それを目にしたジェズは静かに意気込む。気味の悪い紋様は全身に及んでいる。彼は上体をおもむろに起こした。


(───【百目梟(ヒャクメフクロウ)ノヤドリ「瞠視(ドウシ)」】──────────────────)


 閉じた瞼を僅かに開き正面を見据える。


(───居た。校庭に近い木陰に一人───敵意なし、疲れ……女……視線に憶えはあるけど知らない人だな。ただの興味本位、大した事無さそう。


───校舎の5階………何の部屋だろう、一人居る。───何だ繰り鉤か。敵意なし、疑い、凄く疲れてる、退屈そう。僕を見たって楽しいものか、何だってんだい。


───ん?校舎の4階にも………リュアラお嬢様★××待てっ、この距離ならお嬢様に呪紋(じゅもん)は判らない、集中するんだっ。

────────────まだ居るはずなんだ。また見られている、何処だ───)


 索敵している。

 今の彼は、視界に収まる辺り一帯を隅々まで見渡す事が出来る状態なのだ。


 朝の汽車に居た時点で彼は「驚異的な何か」の視線を向けられている事に気付いたのだが、他の雑多な視線に紛れてしまい正体は掴めていない。驚異の程度がどうしても気掛かりだった彼は、それを見定める機会をずっと窺っていたのだ。何せ相手の視線はジェズの「心臓」にも向けられていたのだから。そして、


(───見付けたぞっ………庭園の樹の上、葉の茂みに隠れているな───敵意なし、女……女……視線に憶えはある?けど誰だろう、思い出せない。───思い出せない………)


 哂  っ  た  。


(★気付かれた!───この距離でこちらが見ている事に気付いた?!)


 朝の視線はこいつに違いない、何者だと思考を巡らす寸前に奴の気配は消失する。

 奴の目的は、自らの存在をジェズに知らしめる事だったらしい。

 校庭から自分を呼ぶ声が聞えて来るまで、彼は暫し呆然としていた。




「ジェズ、あなたお昼は?」

「えと、これからです…」


 チーズとホウレンソウのサンドに口をつけようとしたリュアラはジェズに呼び止められた。教室の中で級友らとランチを摂ろうとしていた彼女だが、駆け込んで来た使用人のただならぬ様子に面食らう。彼女の級友らへの挨拶もそこそこにジェズはリュアラに詰め寄った。周りの級友らはベーグルなどを食みながらメリーベル劇場開演と洒落込んでいる。


「リュアラお嬢様、お願いがあります。」

「どうしたの急に?」

「何かお困りの事があったら大声で僕をお呼び下さい。」

「え?」

「どうか訳は訊かないで下さい!」


 ジェズはリュアラの前で跪き頭を垂れた。


「お嬢様のお傍へ飛んで参ります!僕の出来るだけ早く!だから」

「ジェズ、」

「っ…はい。」

「つまり、それはあなたが『私の付き人』同様になる─と、そう解釈していいのかしら?」

「えと、?ぇえと………っはい、その通りにお考え頂ければ。」

「───、」


 リュアラは自分の口元がちょっぴり緩んだ事に気付いていない。実は目尻もごく僅かに垂れていたりする。観客らにはバレバレだが、本人は努めて表情を変えていないつもりだった。


「そ☆…──そうなの、分かりました。あなたがそこまで言うのなら、事情は訊かないであげます、とても良い心掛けだと思うわ。─あなたの言い分を聞き入れましょう。」

「ありがとうございます!」


「ちょっとジェズ!」


「ぁ、─お伝えしたかった事はこれだけです、お昼のお邪魔をして申し訳ありませんでした。僕はこれで、失礼します。」

「ちょっとジェズっ、──────どうしたのかしら?あの子、」


 教室の入り口から彼へ声を掛けた主は腕を組み入り口の壁に背中を預けていた。彼に付き合わされたミーシャである。彼女は教室から出て来たジェズの片腕を掴むと、昼休みの廊下の往来の中を無言で引っ張って行った。

 辿り着いたのは校舎1階の階段裏。ミーシャはジェズを壁際に押し付けて腕を組んだ。


「~ちょっとあんた、あれどういうつもり?」

「はい?」

「はい?じゃないっ、なに切羽詰まってるのかって訊いてんの。─いきなりお姉様の所へ案内しろだなんて言い出したと思ったら何?お姉様の付き人もやらせてくれ??訳分かんないの!一体どういう事よ!?」

「えと、それはー……」

「──あたしに言えないんだ、」

「ぇ、」


 ミーシャは口惜しげに解いた腕と視線を落とす。ジェズはぎくりとした。


「理由はあたしにも言えないって言うのねっ…」

「★いや、それはだから」

「~だから?だから何??」

「………………っ、」

「──屋上での時もそうよね、後ろめたい事があるとそうやって口ごもる。」

「×でもそれは」

「お黙り!何で口ごもるのか、あんた自分で分かってんの?」

「えっ?」

「自分の不始末を何とかしなきゃならないと思ってても、自分一人じゃどうしようもない時にそうやってモゴモゴすんのよ!」

「★いえっ、今回は術が無い訳じゃないんです!」

「嘘っ!…いや、嘘なんて吐かないもんね、あんた馬鹿だし───ホント馬鹿…」


 また馬鹿馬鹿言われてる。本当の事だから仕方ないがジェズにも思う所はある。

 ミーシャは瞳を閉じて大きく息を吸い込むと、ジェズを真正面に見据えた。


「嘘ではないけれど、あんたの言う術は『大丈夫と自信を持てる対策じゃない』って、自分で言ってんだからね?そんなの信用できますかって言うの、馬鹿。」

「それでも、僕が何とか」

「一人だけで問題を抱え込むのはやめなさい。」

「!」

「──今朝の出来事に関係するんでしょ?」


 ジェズは胸の奥に痛みを感じる。普段は無視している無数の古傷にミーシャの優しさが沁み込み、痛みがあちこちで思い起こされる一方で、暖かく癒されて行く確かな感触に安らぎを覚える。この人はどうしてこんなにも自分ごとき者の事など思ってくれるのだろうと、胸の中がいっぱいになる。嬉しいという感情が止めどなく溢れ出て来て仕方がない。

 お嬢様にはかなわない、彼は観念した。


「…僕は監視されています。こないだの繰り鉤とは比べものにならないくらい、相当に厄介な相手です。」

「!やっぱり危険人物が他に居たんだ、」

「正体はまだ分かりません。何をして来るかも分からない。だから、お嬢様達だけは僕が」

「判った。─そういう事は早く言うの。ウィル先輩に相談してみよう。」

「×あの人はまだ僕を信用していません。僕のせいで酒蔵がまた疑われてしまいますっ。」

「またも何も目を付けられっ放しでしょ、何を今さら。」

「…すみません、」

「~ホイホイ謝るなって言ったよねっ?全く──────いいの、好都合じゃない。」

「え?」


 ミーシャはジェズに向けて右手の人差し指を立てた。


「物は考えようよ。」


 ウインクしながら決め台詞。その直後に彼女の腹の虫が鳴いて二人は赤面する。

 ジェズはミーシャから「腹が減っては戦は出来ぬ」という言葉を教わる事が出来た。




 ダウジングロッド中心部に位置する病院の一個室、【バッカス・ワドー】の名札の壁の裏が俄かに騒がしくなる。


「自分達が囮になるう?一体何の話だ?」

「ミーシャく……っミーシャ・メリーベルからの提言です、『姉妹は狙われている!』と。」


 患者はメリーベルでイノシシに突き飛ばされたトレンチコートの警部、見舞いに訪れているのは彼の教え子ウィルである。警部が受けた衝撃は大したものでなかったのだが、蓄積した腰の疲労がここへ来て露呈した。日頃の無理が祟った恰好だ。

 ワドー警部は研修生の珍妙な発言に苦虫を噛み潰したような顔をした。


「~~まあいい、話を聞いてからだ。」

「はい。先週プラプラで起こった屋上事件の容疑者の一人、酒蔵メリーベル従業員ジェズことジェズワユト・ウ・ナパンティから出た話らしく、信憑性に乏しいのですが、」

「ん?ヴィリジアンのくせにミドルネーム持ちか?」

「話では。まあ、彼らには姓すら無い者も居ますし、本名かどうかも怪しいですから。」

「まあいい。それで?」

「彼の話によれば、昨日の朝から何者かにつけ狙われているらしく、狙いはメリーベル姉妹の内どちらかではないかとの事です。」

「~でぇえ?囮ってのはどう繋がるんだ?」

「囮になるからそいつを捕まえてくれ、と。」

「はああぁ↓、」


 警部はベッドの上でげんなりしながら髪をくしゃくしゃにする。こげ茶色のカリフラワーのような髪は毛羽立ち、実験に失敗して爆発したような頭になった。しかめっ面で腕を組む。


「─ウィル、君が本件を俺に持ち掛けた理由を説明してくれ。」

「はい。先ず、仮にストーキングが事実であった場合、これは生活安全課の管轄です。フー・セクションの取り扱う事案ではありません。」

「そうだ。」

「ですが、彼らがこちらの監視に勘付いた可能性は考えられます。」

「否定は出来んな。それもこちらの思惑の範疇ではある。」


 彼らフー・セクションは、屋上事件の犯人と目すジェズとギギシの周辺を監視中である。


 実は、学園プラチナプラタナスを核とする学園都市開発計画そのものにテロ組織との繋がりを疑問視し、かねてより内偵を進めていたのだ。今回の事件でヴィリジアンが二人同時に入学したと発覚してから、学園の警戒を強化しようという矢先であった。


「そして僕はここから判断しかねているのですが、」

「ん?」

「犯人が──────『ブラック・ドゥーかも知れない』と言うんです。」

「★ぅううわっ、ここでその流れー?君好っきっだっねーソレさあ××。」

「僕ではなくミーシャからの話なんです。僕がジェズをドゥーだと疑っているのを見込んで、話を振って来たのは先ず間違いないでしょう。」

「成程な。あれこれ詮索してもフワフワするばかりで身の振り方が分からない、って事か。」


 警部は袖机の上に置いていたウィルからの見舞いのバナナをちぎって彼に渡すと、手元のバナナの皮を手際よく剥いてもぐもぐ食べ始めた。ウィルもいただきますと食べだす。皮をごみ箱へ放った警部の手が再びバナナの房へ伸びて行く。


「先にブラック・ドゥーについてだが、そいつは口から出任せだ。君の考えた通り、君を巻き込みたい意図からの方便と見ていい。」

「しかし単純にそんな」

「暗礁密林発の恐怖の象徴ブラック・ドゥーが、他所の国の一介の姉妹に一体何の用があるって言うんだ?それもこそこそ隠れながら?充分過ぎる程話がおかしいだろ?それと、つけ狙われているって言うのは恐らく、本当の事だ。」

「それは?」

「つけ狙われているのが嘘だとして、自ら囮を申し出て捕まえろと言う理由があるか?」

「─ミーシャ・メリーベルは僕に対してその、少なからず…好意を抱いているようでして。」

「へーえ、モテる男はツラいね~。愛する男と少しでも一緒に居たいから狂言を思い付いた、ってか?そりゃあ無いな。」

「えっ?」

「知ってるぞー。君はそこん家の長女にゾッコンなんだってなあ。」

「★えぇええっ×、ご存知だったんですか?!やだなあ、もう#。」


 乙女のように頬を赤らめ狼狽するウィルを見て警部はくそつまらんと言う顔になる。あー、バナナバナナ。


「あのなー?つけ狙われているのは『姉妹』で、姉と妹どちらかっつっても護衛対象は二人になるだろう?妹は君と近くなるが状況は姉も同じ、それなら狙われているのは妹一人だけって事にするだろう?君を釣るエサとして恋敵の姉を盛り込んだなら、それは色恋沙汰ではないって事だ。」

「でも…それでも傍に居たい、妹として姉は応援しているけどそれでも!って事は考えられるじゃないですか。もしそうなら僕は、彼女のその気持ちを…無下には出来ない。いや、してはならないと思うんです!」


 警部はウィルの頭の上からゲンコツをくれてやった。ウィルの目から火花が散る。


「★×いっっっづ!?一体何を?!」

「やかましいこのアッパラパー!気持ち悪ぃ事ぬかしてんじゃないっ。仕事に私情を挟むなとイッッッチ番最初に言ったはずだぞー★?痛でででででっ×!」

「急に身体を起こすからですよ。大丈夫ですか腰?」

「やかましい!誰のせいでっ××いつつつつ…↓

─さあ、これでもう分かったろ?この事案は生活安全課に廻すのが適切なんだ。我々は我々にしか出来ない事をやらねばならん。一般犯罪は他の部署に任せればいい。」

「警部、しかし僕は」


 ノック音、ドアから話、腰を折る。ウィルが返事をすると訪問者は姿を現した。


「失礼します、【アンカーサシャ・アーチボルド】入りますっ。」

「やあ、アン。」

「ウィルも来てたの?奇遇ね、─警部、これお見舞いです。」


 葦で出来た手製と思しき籠を警部へ手渡した女性は、ウィルと同じ国家警察の研修生アンである。先のテーブルターニングで起きた事件において、許可を得ず発砲したウィルに助けられた人物だ。

 マリンブルーの髪の前を弓のような房に纏め、後ろは腰下まで届く三つ編み両お下げにし、身を包むクロークの内側へぶら下げている。優しいカーブの長い眉、マリーゴールドの大きな瞳、少し高めの鼻に魅惑的な唇と整った顔立ちである。しかし、クロークの下から露出させる衣装はあろう事か高等学部時代のジャージ、靴に至っては履き潰れを通り越したスニーカーである。男衆は彼女の私服のチョイスを見るといつも勝手に落胆していた。


「うちの裏庭で採れた野イチゴです。食べて下さい。」

「おぉ、すまんな。─あーそれより君、メリーベル姉妹の見張りはどうした?」

「これから交替しに行く所です。警部がまだダウジングロッドにいらっしゃると聞いたので、テーブルターニングへ戻られる前に少し報告してしまおうと。─それと警部、」

「ん?どうした、」

「#バナナ、貰ってもいいですか??」

「ん、…ぉお、構わんぞ。好きなだけ食え、」

「やた♪ありがとうございます!──────んふふ♪っえふぉえふね、」

「口ん中のモン飲み込んでから報告してくれ↓、」


 舶来品のバナナは珍重されており老若男女問わず人気が高い。そんなバナナに飛び付くのは特別変な事でもないのだが、アンは見掛けによらず食いしん坊で、見掛けによらず食べ方が汚い。出来れば目の前では遠慮願いたいのが男衆の本音であった。


「警部がイノシシに撥ねられた日から少し経って、動きに変化がありました。」

「ほう、」

「使用人の男の子が姉妹の間を行ったり来たりします。」

「行ったり来たり、ふん。」

「酒蔵では以前からそうですが、学園でも姉が呼ぶとその子が飛んで行くんです。」

「あのヴィリジアンは次女の付き人だったな。付き従う範囲が広がったと。」

「そうなんですが、本当に飛んで行くんです。」

「───何?」

「だから何て言うか……教室で姉がその子を呼ぶとするじゃないですか、」

「おう、」

「その途端、2階の教室の窓から出て姉の居る4階の教室の窓までドダダダダ!っと。」

「窓からドダダ?校舎の外壁を伝ってか?」


 あれからジェズはプラプラでもリュアラにちょくちょく呼び出されている。それも有事と言う訳ではなく、荷物持ちだったり話の聞き手だったり調理実習の味見だったり節操が無い。飛んで行くと宣言した手前、ジェズは馬鹿正直に最短ルートを(ましら)の如く往来していた。人の域を逸脱した筋力である。


「流石は密林育ちと言ったところでしょうか。」

「いくら密林育ちだからって×、にわかに信じ難いんだが………で?君は何で手元のバナナの匂いをずーっとくんかくんか嗅ぎ回しとるんだ?」

「#食べ始めると止まらないので。これは自分を焦らし中です☆。」

「まあいい↓、そんな所か。」

「それでここからなんですが、」

「ん?」

「あの子───『狩り』をするんです。」

「~何?」


 警部とウィルの目付きが変わった。そうらキナ臭くなって来た。


「狩りの時刻は22時を回った辺り。メリーベルや近隣住民に気付かれぬよう、こっそり外へ出て行きます。凶器は草木の伐採に使う小さい鉈、銛のような物の時もありました。」

「ふん。もしかすると、例の暗器使いの正体はそいつか?…」


 ワドー警部の言う暗器使いは繰り鉤の事である。ギギシは繰り鉤として活動する際にローブを纏い頭も覆ってしまうため、人相は傍目によく見えないのだ。


「狩場は果樹園に近い池、畑周辺の時もあります。」

「───ん?」

「獲物は中型から大型の魚で、ナマズみたいな黒いのや大きな蛙、蛇なんかも仕留めていました。」

「~いやいやちょっと待て、それはつまり…」

「狩りですね。」


 警部とウィルの目付きが変わった。何だか胡散臭くなって来た。


「↓暗礁密林に居た頃のクセか何かか?×いや待て、──殺しのトレーニングと言う事も…」

「食べるためみたいです。」

「ぁあ??」

「だから、食べてました。器用にさばいて焚いた火で焼いて、塩を振って豪快にこうガブーッと。怖かったけど──美味しそうだったなあ#。」

「何だそりゃああぁぁ×。しかし夜目が利くな、火を焚く前じゃ夜の山林に灯りの一つもあるまい。大自然の中で生きてきただけの事はあると言った所か。──君もよく尾行出来たな?」

「月夜でしたから、あの子も真っ暗な森の中には行かなかったので。」

「ふうん、君が見張れるくらいだから、そうか。………それと、君は何でバナナを皮の上からずーっとペロペロ舐め回しとるんだ?」

「焦らし中です。」

「×××↓

───あー何だあ?あそこん家は自分とこの使用人に充分な食事も与えとらんのか?」

「育ち盛りなんですよ、きっと。あの子よく動くし、もっと精の付くものを身体が欲しがってるんだと思います。あの子一心不乱にむしゃぶり付いてたんですよ、」


 だから言い回し、ペロペロねちょねちょ焦らし中、そもそも焦らすとか一体どう言う事だ。行儀が悪いだの残念だのを通り越してこれは如何なものなのか。警部とウィルは彼女に矯正の必要性を常々痛感する。


「それとですね、」

「★まだ何かあるのか?」

「今回の見張りで私、大学の講義に全然出られてないんですよ…」

「ああ何だ↓。受講日数なら気にするな、手は廻している。」

「私、…単位が危ないんですよー×!」

「そんな事は知らん×、自分で何とかするんだっ。」

「★ええ?今回見張りがバレないようにウィルを目立たせるから、その分の人員を私がって事だったじゃないですか!本当なら私借り出されなくても良かったんですよ?私を見張り役に抜擢したのは警部じゃないですかあっ×。昼も夜も外で隠れたっきりご飯もちゃんと食べられないんですよ!」

「×分ーかった!分かった!そこは善処しようじゃあないかっ。あーほら、そこのバナナ全部持ってっていいから!」

「っふおんなほほふっはっへ!ばまはえまへんふお!!」

「食ってから言えええええ!★?あだだだだーっ××!」


「警部!」

「××何だあウィル!?」

「ミーシャ・メリーベルの真意はともかく、彼女はフー・セクションと繋がりのある僕に話を持ち掛けて来たんです。学園都市開発計画疑惑への影響も懸念される内容である以上、この事案はフー・セクションの管轄と考えますっ。──僕に彼女らの護衛役をやらせて下さい!」


 ドタバタのドサクサに便乗する形で、ウィルはメリーベル姉妹護衛の許可を取り付ける事が出来た。ミーシャの願いを叶えたいと言う気持ちは純粋にあったが、リュアラのプライベートへ近付ける機会を得た事に、彼は内心ガッツポーズを取っていた。


 ウィルの行動は早かった。ワドー警部を介して大学側へ受講日程の調整をすると、その日の夕方にはメリーベル家へ訪れ、現当主マシューらに挨拶まで一通り済ませてしまった。突然の成り行きで酒蔵側が困惑するのは当然だが、一番困惑しているのは当事者のリュアラである。知らぬ間に自分がストーカー犯罪の被害者となっているのはさておき、期間限定とは言え身辺警護にウィルが付くなどとは寝耳に水どころか寝耳にカタツムリレベルの衝撃だったのだ。


「ちょっとミーシャ×、」

「警戒するに越した事はないじゃない。」

「─ジェズ、本当なの?」


「何かお困りの事があったら大声で僕をお呼び下さい。」

「──────分かりました。分かったのだけれど…」


「ご自宅の外は僕に任せてくれ。何、これも研修の一環、君のためなら野宿も何て事はない、どうかお気になさらず。通学など外出の際は僕が傍について警護するから。」

「はい──よろしく、お願いします…」


 明らかに気が落ち込んでいる姉をミーシャは皆が居た部屋から廊下へ連れ出した。そのまま対面の部屋へ連れ込みドアを閉める。日も落ち月明かりだけの暗い部屋に姉妹二人きり。ミーシャは両手を腰に当て姉へ詰め寄った。


「何よお姉様、不満なの?」

「…不満と言う訳ではないの。」

「そう見えないんだけど?ちゃんと言って。」

「──うちにまでウィル先輩が傍に居ると言うのは、落ち着かないと言うか…いきなりの事で心構えが出来ていないと言うか、」

「……恥ずかしかったんだ、」

「×そうじゃないの。そうではないんだけど…」

「~はっきりしないなあ。──丁度いいや。

ちょっと訊きたいんだけどお姉様、ウィル先輩の事、どう思ってるの?」

「★×っ?」


 目を見開き胸に片手を当てて半歩後ずさる。揺れ乱れるレモン色の髪に動揺が見て取れる。何と分かり易い事か、ミーシャはジト目になった。的を外した回答をしてくるのは分かりきっているので予め釘を刺してやる。


「質問の意味解ってるよね?ウィル先輩がお姉様と恋人同士になりたいと思ってる事はお姉様がよく知ってるはず。それを、お姉様がどう思ってるのかって事だから。」

「──私は……ウィル先輩の好意はとても嬉しいと感じている。でもウィル先輩との恋愛は、───私の想い描くものと違っている───そうだわ、多分そう言う事なんだと思う。」

「恋愛像のすれ違い…って事?だからウィル先輩とはお付き合い出来ません、と?」

「遠回しには度々お伝えしているの。」

「なあんだ。それならバッサリ断っちゃえばいいのに、お互いのためにさ、」

「恋に障害は付き物、根気と努力次第…と、こちらのお構い無しみたい。私もウィル先輩が嫌いと言う訳ではないし…」


 頬に手を当て伏し目がちな視線を壁際の床の辺りにうろつかせる。麗人の愁い顔に男共は弱いのだとか。読んだ小説の一節にそんな事が書いてあったのを思い出し、目の前のこれがそれなのかなとミーシャは何だかイラつく。


(さっきの気のある素振りは何だったのか。そんなだからウィル先輩も気を持っちゃうんじゃないの?それとも本当はお姉様、ああは言いつつも結局ウィル先輩の事が好きなんじゃないのかな?ホントはっきりしない~~~グズなのか?あたしの姉は恋愛にグズいのか??)

「キラいじゃないならいーんじゃないのー?」

「上手く言えないんだけど、違うの。駄目なの。」

「~あのさ、それじゃお姉様の恋愛像って、どんなの?」

「私の?恋愛像───そうね───………そうよ、私はもっと『浪漫』が欲しいのっ。」

「?──ロマン??」

「そう、浪漫☆。小説の冒険活劇とか凄く憧れる!ファンタジーとか未来の国のお話だとか、そう言った非日常的な世界にとても憧れる!私はそんな世界の中で恋愛をしたいの☆!」


 輝いている。ときめいている。こんな素敵な笑顔の姉は今の今まで見た事が無い。予想だにしない姉の回答、赤く染まった頬を両手で押さえ身悶えする姉の姿が、ミーシャの瞳にはさながら蜃気楼のように映っていた。何じゃこりゃ。


(~こっどっもっか!夢見がちなお姫様かっ、あたしの姉わー×!)


「#えぇえ?ねえねえ、それじゃミーシャは?ミーシャはどうなの☆?」

「…は?★あたし?───あたしは…別に、普通で…いいよ。」

「何?普通って、」

「普通は普通でしょ。近くにいい人が居れば、あたしはそれで…」


(→お子様ね~。恋愛に夢も憧れも無いとか、私の妹は本当に…)

「……」

「……」

「「恋愛像は人それぞれっ、」」

「って事で。お姉様、ガマンして。それじゃよろしく。」

「ちょっとミーシャ×、」


 姉妹で微妙になった所でうやむやのままウィルの護衛が押し通る。当初の目的はジェズの言う危険人物を捕まえる事だったが、その時のミーシャはそれが何処かに隠れてしまっていた。


 その隙があったせいか定かでないが、それから四日が経っても魔法警察は危険人物の発見に至っていない。恋愛対象の存在感にあてられたミーシャが積極的に働き掛けをしなかったのは事実である。警察を巻き込んだのはジェズの言葉を信じた彼女のアイディアであり、ブラック・ドゥーの名を盛り込んだのも彼女。ジェズの言う人物が影も形も見せない事に焦りが滲む。


「ジェズ、どう?居る?」

「今は居ません。ウィル先輩のお陰です。」

(こう見張られてはヤドリが使えない。視線が混ざって全然分からないし、~困ったな。)


「捕まえてもらえないとわざわざ呼んだ意味ないんだけどね、困ったなあ~」

「無事にはいられてますから。あはは…」


 お嬢様達に害が及ばぬのであればそれでいいが、ジェズ自身は全く安心出来ないでいる。

 そして、安心出来ない点はメリーベル姉妹も同様だった。


 朝起きて窓を開ければ真下に爽やかな笑顔のウィルが居る。行って来ますとドアを開ければ向こうに清々しい笑顔のウィルが居る。通学の汽車の中ではリュアラの隣に凛々しいウィルが居る。帰って風呂に浸かりふと気になって窓の外を窺えばはにかんだウィルが居る。ウィルがウィルがウィルがと言った有り様に、緊張が続いてリュアラもミーシャも疲れを感じ始めた。


 おかしな事になって来た。護衛に付いてもらっているはずのウィル先輩にストーカー行為を受けているような気分になっている。姉妹の願いは一刻も早く危険人物が見付かる事だった。


「ジェズ!」


「リュアラお嬢様!」

「ごめんなさい、私は大丈夫。その───少し、お話しない?」

「──はい、構いません。」


 リュアラの感覚はあながち外れてもいなかった。


「やあ、アン。」

「×何しに来たのウィルっ、私と接触しちゃ駄目でしょう。」

「大丈夫さ、君は危険人物を見付けられたかい?」

「いいえ、そんなの今まで見た事ないわ。」

「だろう?僕だって視てるがさっぱりだ。これだけ監視の目がありながら誰一人としてそんな人物は見てないんだよ。あのヴィリジアンは護衛のお陰なんて言ってるけどね、違うのさ。」

「何が?」

「メリーベル姉妹を狙うストーカーなんか、最初から存在しないのさ。」

「予断は禁物。」

「予断は禁物だとも。でもこれは予断じゃない、僕は最初から分かっていた。」


 学園の校庭の一角、ウィルは背にした植木越しに監視中のアンへ語り掛ける。視野は100m走の順番待ちのミーシャを中心に校庭全域を捉えたまま。草叢に潜むアンはそんなウィルの後頭部へ話し掛ける。


「ならどうして護衛なんかついたの?」

「あのヴィリジアンの尻尾を掴みたいんだ、絶対何か隠している。」

「そうかな?さっきも窓から窓へジャンプしたり、夜中に狩りしたり変わった所はあるけど、あの子全然怪しくないけれど?」

「窓から窓とか狩りとか、既に充分怪しいじゃないか。」

「何て言えばいいかな……気配とか、滲み出る心の姿勢とか、そう言う感じの事よ。」

「まあいいさ。さておき僕はね、ブラック・ドゥーの名前を出して来た時点で、今回の件は彼からの『僕に対する挑戦状』だと考えてるんだよ。」

「─ウィルがどうしてそう思うのか、私には分からないな。」

「そうかい?そうだな、これは──男の本能…ってやつさ。」


 普通にしていれば恰好いいのに、時々好んで気持ちの悪い台詞を口にする。残念だとアンは常々思う。傍から見ればお互い様なのだが。

 彼女は手元の参考書に視線を戻した。そして先程まで見ていた後頭部の裏側に不敵な笑みが浮かんでいる事を知らない。リュアラの感覚はあながち外れてもいなかったのだ。


(どうして護衛になんかだって?決まってる、彼女のすぐ傍にずうっと居られるじゃないか。ミーシャ君の面倒を見なきゃならないがそれもいいだろう、いずれ僕の妹になるんだからね。この機会に彼女との距離を一気に、徹底的に縮める!今はまだ屋敷の外だけど、近い内に彼女の部屋の中へだって#───


今回の件は蛮緑(ばんろく)様様だな。ブラック・ドゥーを引っ張り出してどういうつもりか知らないが、それも最早どうでもいい事。化けの皮は追々剥いでやる─────────)




☆☆☆


 春の日差し優しい土曜の午後の昼下がり、薄暗い展示販売ホールの中でリュアラは溜め息をついた。まるで肺病でも患ったかのような感触に胸をさする。不意に足がよろめいて来客用のソファーへ手を付いた。注意力が散漫になっている。珍しく賑やかだった勉強会の時の様子を思い出した。あれから既に半月近くが経つ。


「──────静かなものね。」


 彼女は一人静かに陳列された品物の状態をチェックしていた。売り子にでもやらせておけばいい仕事だが、半年前に当酒蔵の次期後継者として社交界デビューを果たした事もあり、ここで酒蔵の顔を努めていると言う次第である。経営者の父は叔父と共に今週末も外出中で、今の彼女はメリーベル本舗の総責任者。しかし、冬から春に掛けての来客は稀であり、酒蔵の顔は暇を持て余していた。


(ああ、時間の経つのがこんなに長く感じられるだなんて。)


 暇だからと言うだけではない。


「リュアラさんっ、」

「はい、何でしょう?」

「君は休日の間ずっとここに居るのかい?」

「いつもと言う訳ではありません。」


 従業員専用の出入口からウィルが出て来る。彼は屋内へ自由に出入り出来る許可を経営者に取り付けていた。一方でリュアラは実家だと言うのに肩身が狭くなる思いをしている。護衛の期限まで後一週間、両者の時間の感覚には大きな乖離があった。


「仕事をする時は普段着?」

「余所行きの物です。私服ではありますが、フォーマルにも使えますわ。」

「そうなんだ。さざ波のような細かいフリルの白いレースブラウスに紺のプリーツスカート、引き締まっていながらシルエットは柔らかだね。」

「あまり意識した事はないです。」

「首元のカメオは小さめだけど真珠貝?←」

「→種類までは分かりませんが、貝殻のようです。」

「ふうん、化粧は…しないのかい?←」

「→私など、まだそのような…」

「リップグロスなら濃いめの色でも似合うんじゃないかな?←」


 ドアベルの軽やかな音色に続いて古びた蝶番の軋む重々しい音がホールに響く。


 取込み中に空気を読まない、ウィルは少し憮然として折角詰めたリュアラとの間合いを離した。後ずさる場所に窮していたリュアラは胸を撫で下ろし、心の中で季節外れの来客に謝意を表した。

 姿を見せたのは黒いスーツにサングラスと全身が黒尽くめの大柄な男性だった。黒尽くめがドア側へ身を寄せると、その陰の向こうから更に影が入り込んで来る。


「メリーベルはこちらか?」


 喪服の女性だった。


「───★はい!酒蔵メリーベルはこちらです、いらっしゃいませ。…っご贈答でしょうか?内使いでいらっしゃいますか?どうぞお手に取ってご覧ください。」

「結構。ワインではなく、──そう、『果樹園の様子を見たい』のです。よろしいか?」

「園内をご見物…ですか。すぐ準備いたします、こちらへお掛けになってお待ちください。」


 季節外れの場所外れ。喪服の女性の顔は帽子のベールに遮られて判らない、リュアラは客の場違い感にすっかりあてられてしまった。客にソファーを勧めると、見物客来訪を果樹園の各営業所へ連絡するため従業員専用の出入口へ駆け込む。事務室ではミーシャが祖父から何かを教わっている最中だった。


「電話の使い方はいい?大丈夫?」

「出来るよ。でも伝えるのは3つ隣まででいいんじゃない?何処まで行くのか知らないけど、歩きじゃ二日三日掛けたって廻りきれる広さじゃないのに。」

「皆が電気機械に慣れる事も大切、心掛けが肝心よ。ご案内は私が行ってくるから。後はお願いね、」


 電話は電力の供給が進められる都市のごく一部でしか使用されていない最新機器で、新し物好きである彼女の父が大枚をはたいて導入した物だ。水車による自家発電で通話は数km先にある隣家までがやっと、更に隣へは現地の電源で人間がリレーする事となる。連絡先に家人が居なければ情報は先へ伝わらない、酒蔵メリーベルの敷地内限定の連絡網である。


 そんな大層な物を使ってまで来客を周知させたいのには訳がある。異国からの就労者を多く抱える当酒蔵は、彼らの印象向上を常に心掛けていた。「人は見た目ではない」とは言うものの、所詮は見た目で印象が決まってしまう。従業員の格好や態度で客に粗相などもっての他なのだ。


「もしもし、タローさん?──あ、マイアさん?お疲れ様。旦那さんは?──あそう。忙しいところ悪いけど伝言と連絡廻してほしいんだ、いいかな?──ええと、『急なお客様が果樹園を見物に来られました。身だしなみに気を付けて。』──大丈夫?お願いね、」

「おおぉ、見事な使いっぷりだのう。これなら都会でも生活出来そうだ。」

「イヤよ。あたしはここが性に似合ってるんだから。─さて、今度はロウバルさんの所に連絡しなきゃ。」


 しかし、最新の通信機器も片田舎では古典的な問題を抱えていた。


「もしもしマイアです、モリッツさん?お世話になってます~☆。──えぇ、はい。ミーシャお嬢様から伝言がありまして。ぇえと確か『稀有なお客様が果樹園を完膚しに来られました。みだりな身に気を付けて。』だそうです。─え?あははは☆。それじゃ私、主人と子供達にも言って来ますので☆。」

「★えっ?ちょっと奥さん?!───切られちゃったよ×。

ぇえ?何だこれ、謎掛けかお嬢様?まあいいや、

───あーもしもし?俺々。ミーシャお嬢様から暗号だってよ、ぇえと何だっけ…『毛の多いお客様が果樹園をコンプしてキレられた。淫らな身に火を付けて。』だってさ。え?──そうそう、暗号暗号──うん、じゃ頼むよ。」


 悲劇の化学反応が連鎖する中、リュアラは黒尽くめのお客3名様を案内していた。


「今の時期唯一咲いておりますのは林檎の樹になります。当園では香り付けの原料として少数を植えるのみで、鑑賞には充分でありません。今後リキュールそのものの商品展開を視野に、樹を増やしていく予定でございます。」

「初めて見る。力強さは無いが美しい。」


 感嘆する喪服の女性の表情は相変わらず分からぬが、案内に応じる声からは機嫌の良さが窺えた。喪服の女性には男性が二人付いており、双方共に大柄でサングラス。一言も発する事無く女性の後ろに追随する様はさながらガードマンである。リュアラは女性に高貴なイメージを抱きつつあった。

 暫く離れで随行していたウィルが歩み寄って来る。内緒話にしても距離を詰め過ぎだ。


「林檎の樹をご存じないって事は、ご婦人は都市部か近隣国の富裕層の御仁かも知れない。喪服姿は身分を隠すためのものじゃないかな。」

「─ウィル先輩。お仕事中です、お喋りはご遠慮願います。それと…少し離れてください。」

「つれないな、僕は護衛役なのに←。」

「→ウィル先輩っ、」


「支配人、あそこに居る子は何をしているのか?」

「はい?─────────★ジェっ×?」


 喪服の女性が指差す向こうに人影がある。2m程の長さの丸太の積み重なる傍らにジェズがガニ股でしゃがみ込んでいた。土と木屑まみれのボロシャツの腰へ破れた汚れだらけの作業着を巻き付け、手元のくしゃくしゃな紙片と睨めっこをしている。お客様を迎えるに相応しい清潔感と対局の状態にある彼の姿が目に飛び込んだリュアラは、総毛を逆立て彼の許へ駈け出した。あまりの俊足にウィルは呆気に取られる。


「××ジェズ!あなた何て恰好をしているの!お客様がいらっしゃっているのよ!」

「え、そうだったんですか?気が付かなくてすみませんっ。」

「連絡が廻っているはずです、」

「ぇえ?これの事ですか?ジュゼッペさんからメモ紙を貰ったんですけど、リュアラお嬢様のなぞなぞが届いたって。」

「なぞなぞ?」

「『毛の無いお客様は絶対領域ヒゲぼうぼう。エッチなプリンはかゆいですか?』って。」

「↑#私はそんな事伝えてませんっっ!」


「支配人、」

「★っ~~はい!?」


 いつの間にか客人が後方に迫っていた。醜態にリュアラは取り乱す。


「申し訳ありません!彼は新設するバンガローの木材を運んでいる最中でして!そのっ」

「ほう、一人でこの量……難儀な事を。」

「ここから車で運ぶため、すぐそこの資材置き場から取り出させただけですっ。当園は決して無理な作業などさせておりません。」

「ふん、まあいい。─それより支配人、頼みがあるのです。」

「何でしょう?」

「案内を彼に頼みたい。」

「★いえっ、それは…彼は酒蔵へ来てからまだ日が浅く」

「何と言う僥倖、そんな彼の視点は興味深い。それに、どうせなら男の子の方がいい。」

「しかしお客様」

「支配人、」


 ジェズへ歩み寄る喪服の女性がリュアラへ見返る。

 ベールの隙間から初めて覗く女性の瞳は薔薇のような真紅で艶を帯びていた。


「解るだろう、───私も女だ。」

「★!?」


 自らの過失ではないが、失態の穴埋めをしたいジェズは、機会を与えてくれたお客の案内を買って出る。リュアラは喪服の女性の見せた瞳に胸騒ぎを覚えた。遠ざかる彼らの後ろ姿を暫し見詰めていたが、50mほど先にある大木の曲がり角へ差し掛かると酷い不安に襲われた。一歩進み二歩三歩、遠ざかる背中を少しずつ足早に追い掛け始めるが、男性客の一人がそれに気付き足を止めて振り向いた。


 彼はリュアラの前に立ち塞がる。異様な雰囲気だった。


 一方でミーシャが全力疾走でジェズの姿を探していた。電話連絡は販売ホールの事務室から東の拠点と西の拠点の二方向にしており、連絡を一周させる事で情報が正しく伝わった事を確認する手筈になっている。事務室へ帰って来たのは意味不明な怪文章、予定上見物客と鉢合わせする可能性のあるジェズに直接伝えようと飛び出した次第だ。スカートだと走りにくい。因みに、ミーシャを監視していたアンはウィル任せで参考書に没頭したままである。


 丘の上から木々の陰にジェズの姿を見付けた。草原を滑り降り林の中を走り抜ける。息を弾ませ間近にまで迫ったが、木々の幹の間に客人の姿を見付け、手遅れかと落胆した。しかし、対峙するジェズの様子がおかしい事に気付いたミーシャは、密かに彼らの近くへ忍び寄り身を潜めた。汗だくの身体に衣服が纏わりついて気持ち悪いがここは我慢、息を殺す。

 客人の妙な質問に狼狽するジェズはミーシャの接近に気付いていない。


「酒蔵で働いているのは強制されたからではありませんっ、あくまで僕の意志です。」

「本当にそうかな?」

「どうして、そのような事をお訊きになるのですか?」

「分からないか。寂しいねえ…この声をお忘れかい?なら───これならどうかな?」


 女性がベールを脱ぐ。白い肌、黒い髪、おもむろに見開く猫目は真紅、優しい微笑み。

 ジェズは女性の姿と記憶の整合に躊躇する。


「………面影がある………でも、そんなはずない。だってあの人は」

「Hiirka airmi aayr aeb. Uitaskuus oh yikyuorn oodkaott aokwiar, suh si awnoo mwo it etse...」

呪言(じゅごん)の唱!?」

「Yiak mair yuokr iiri odye itmeay, yoak mi imwoonm iamt as yuur...」


(僕の知らない呪言!この人はシルキッシュなのにヤドリを使うのか?!)


「Si or haan wear ra ew naah rois.」


 奇妙な発音で呪文のような言葉を唱える傍から女性の肌は見る見る内に褐色掛かって行く。唱が終わるとそこにはジェズの慣れ親しんだ姿が現れていた。


「☆あっ、【姐御様】!?」

「憶えておいでかい?」

「忘れる訳がないでしょう!僕が生きていられるのはあなたの教えがあったからです!」

「元気そうだね。…少しだけ、安心したよ。」


 喪服の女性の正体は、ジェズが姐御様と慕う彼の旧知の人物だった。彼のあんな笑顔は見た事がない、ミーシャは密かに衝撃を受ける。何か釈然としない気分に機嫌が傾き始めた。


「でも───どうしたんですか?姐御様も奴隷商人に連れて来られたんですか?」

「連れられた訳じゃない。奴らの船に潜り込んで来たのさ。」

「そんな事をしてまでわざわざこの国に?一体どうして?───」

「分からないか。まぁ、それは仕方ないね。」

「僕に…逢いに来てくれた、──って訳じゃないですよね、↓」

「ジェズに逢いに来たんだよ、」

「ぇ…」


 ~何あれ、姐御様の言葉に心を揺れ動かされるジェズの姿を見てミーシャは動悸を覚える。それと同時に、姐御様の素性に強い疑問と警戒心を抱く。木々の陰で確信した。


(これは「女の勘」!この直感は間違いない!~ジェズっ!!)


「私は逢いに来たんだ。でも、───ジェズが呼んでくれる姐御様としてではないのさ。」

「それは………!さっきまでの肌の色?それに…そうだ、──その紋様は??」


 ジェズの知らない意匠を身に纏う姐御様は、彼の知る姐御様とは違うのだ。

 褐色の肌を複雑怪奇な黒い紋様が彩っていたのだ。肌の色まで変えたのだ。

 気付くと姐御様の微笑みは、姐御様ではない不吉な哂いへと変貌していた。

 目の当たりにしたジェズは絶望にも似た面持ちで戦慄する。信じられない。


 あの姐御様が、  哂  っ  た  。







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