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霧戦争二次創作シリーズ

霧日記

作者: SB2S

MIST OF WAR ENo.0460の日記のログです

◆◇◆


 電磁波が薄い日は、決まって調子が悪かった。

 電源スイッチが壊れ、つけっぱなしになったラジオからは歌が流れている。歌は嫌いだ──音は遅い。言葉で意味を伝えることに適していない。遅いものは嫌いだ。遅いものを好くのも、遅いものに好かれるのも。

 それでも電源を抜かずに放って置いたのは、悪あがきでしかなかった。電磁波の影響で時折音声に混じる強烈なノイズ。あの心地よく耳障りな砂嵐が、メンテナンスの効率を上げる。意味の無い音は速い。速いものは、遅いものに速さを伝播させる。時計が人心を急かすのは、秒針の音が鼓動よりも速いからだ。

 愛する機体は四本の腕をアセンブルしたゲテモノだ。二つの腕を無理やり束ね、それを左右に一つずつ組み込んである。望みを掴み取るためには腕が要る。それも丈夫な腕が、だ。当然ながら、敵を殴れば殴るだけ腕に負担がかかる。こまめな点検は欠かせない。作業の相棒として、雑音も。こんな世界の遅い日でも、ノイズが完全に途切れるわけではない。そのわずかな瞬間を求め、ラジオは生存を許されている。

 金はあった。十分すぎる。

 仲介人に連絡を入れる。マーケットの買い付けは、全て仲介人に任せていた。同じ目的を持つ者だ。連盟に恨みを持つ者は少なくない。憎み、罵りながらも、連盟の庇護下で生計を立てざるを得ない状況にある者も。仲介人はそういった立場の人間だった。

 ドッヂウォールカンパニーは巨大なコングロマリットだ。だから嫌いだった。

 ドッヂウォールカンパニー代表取締役には、一人娘が居た。


◆◇◆


 ドッヂウォールカンパニーがどのような企業なのか、すぐに(すぐは速い)具体的かつ簡潔な説明が出来るものはそう居ない──かの社の広報部長ですら。

 巨大なコングロマリットは、多角的な経営によって成り立つ。それは広報部長の職務怠慢というわけではない。人間はあまりにも巨大な存在を上手に認識できないように出来ている。最も的確なのは顧問弁護士だろう。答えはこうだ。ドッヂウォールカンパニーは適法かつ健全な経営を行う優良企業です。

 その答えは概ね正しいものの、いくつかの点で正しくないという、極めて普遍的な評価を下すことが出来る。正しい点。適法かつ健全な経営を行っている。正しくない点。事業の全てがそうではない。

 企業連盟の全てが倫理的、人道的な罪を犯していると主張する市民グループは後を絶たない。奇妙なことに、企業連盟は自身に対する不利益な言論を排除しない──分かっているからだ。場末の酒場で自己の権利を主張する小さな蟻が群れたところで、巨大な象は傷つかない。

 裏を返せば、酒場へ行けば反連盟思想を持った人間などすぐに(すぐは速い)見つかる。仲介人と知り合ったのも、そんな上品ではない酒場の一つでのことだった。

 連盟が歯牙にもかけないからといって、蟻が無益かといえば、そんなことはない。仲介人のリキティは素性の知れない男だったが、信頼できる仕事をしてくれた。酒場で権利を主張する市民グループの中では、格段にまともな人間性を持っている。暗がりに紛れて商売をする上で、平凡という要素は重要だ。左半身がほぼ義肢であることを除けば、特に目立つところは無い男だった。

 リキティが深い闇を抱えていることはすぐに(すぐは速い)分かった。それがドッヂウォールとの間に生じたものであることも。発言も会計も明瞭ではあったが、時折混じる皮肉には遺恨を隠さなかった。義肢となった原因も、恐らくはドッヂウォールによるものだろう。彼が皮肉屋であることを象徴するかのように、義肢の製造元はドッヂウォールである。

 リキティと連絡を取るのは週に一度あるかないか。いいパーツがマーケットに出れば、彼に連絡を入れる。電磁波の薄い日は通信で済ませることもあるが、品物を確かめるため、直接出向くことが多い。

「最近はどうだ……」

 贔屓にしている工房の新作を注文し終えたところで、踵を返そうとしたところを呼び止められる。普段は最小限度のやりとりしかしないリキティだが、何度かに一度、こうやって近況を聞いてくる。顧客対応の一環と言うが、あまり気乗りはしない。

「どうと言われてもな」

「だから最近は、だ。調子を聞いてるんだよ。ハイドラライダー。最近は戦場外でもそれなりに儲けてるみたいじゃないか……」

 『副業』についても知っているのか。戦場に出るのは自分だけではない。同じ戦場に居たハイドラ乗りから、パーツの仲介や作製で小遣いを稼ぐことも増えてきた。ハイドラ乗りのネットワークは複雑で浅い。どこかから漏れたのをリキティが買ったのだろう。

 答えに困る問いかけは嫌いだ──反応が遅れる。遅れるということは、遅いということだからだ。遅いものには速さで相殺してやらねばならない。即座に、かつ端的に答える。

「エンジンを積んだ」

「それだけか」

「それだけだ。ハイドラってのはエンジンを積むと、積まないよりもちゃんと動くと分かった」

 リキティの嘆息が聞こえた。伝わる速度は言葉より速い──呆れている。それも、かなり。

「積んでなかったのか……」

「積んでなかったこともあった」

「積んでおけ。悪いことは言わない」

「今は積んでる」

「二度と下ろすなと言ってるんだよ。大体、何で下ろせるんだ……」

「積んでなかったわけじゃない。出力が不足していた」

「似たようなもんだろう。出力不足のハイドラがどうなるか、知ってるだろ……」

 ハイドラは単純だ。エンジンを積めば動く。出力が足りていれば、なお動く。

 だが、世界は単純には出来ていない。一つの側面が、別の側面を隠していることもある。一の目を出した者には、六の目が決して見えないように。


◆◇◆


 サクラ・ブレイクバーストスピードは本名ではない。

 これは正しい。考えればすぐに(すぐには速い)分かる。ブレイクバーストスピードは自称で、サクラに至っては己を指す語でもない。

 サクラ・ブレイクバーストスピードは幼少の頃からハイドラ乗りだった。

 これは部分的に正しい。現役のライダーになる前、サクラはハイドラに乗っていたことがある。

 サクラ・ブレイクバーストスピードは、ドッヂウォールの一人娘と面識がある。

 これはごく僅かな部分を除けば正しい。面識があるのはサクラの側だけ──名前すら知らないのだから、顔を知っている以上の関係は無い。ゴシップ紙を愛読している市民グループよりも知識は少ないかもしれないが、意図して触れることを避けてきたのだ。当然といえば当然だろう。

 無意味な寄り道をすることは遅い。下手な情報は邪魔になる。不要な感情は衝動を鈍らせる。サクラにとって価値があるのは、あの一瞬の記憶だけだ。サクラはそう信じている。


 脳裏に焼きついた光景だけが魂を突き動かす。


◆◇◆


 カウンター越しに出されたコーヒーをすすり、一息。リキティがいれるコーヒーは常に過剰な甘さで、いつも文句を返すのが決まりだったが、その日のコーヒーは美味かった。苦味が残っている。

「エンジンを積まないハイドラなぞ、棺桶だろう……」

 と、リキティが言う。

「上物に変えたのか……」

「豆は前の通りだ。”腕”が上がっただけだ」

「もう一杯もらえるか……」

 苦笑しながら、それでもどこか嬉しそうなリキティが、

「珍しいな。お前さんがお代わりだなんて」

「飲めるうちに飲んでおきたい。棺桶で暮らしてるんでな」

「違いない」

 空になったカップを差し出し、話を蒸し返す。結論は出ていた。尋ねられるよりもはるかな昔に。

「質問の答えだが」

「何だ……」

「動くさ。棺桶は動かないが、ハイドラは動く」

「動いたところで棺桶は棺桶だ。閉じ込められ、死んでいく」

「閉じ込められたくて閉じ込められてるのさ。死体と違って、ハイドラ乗りは」

 カチャ、とカップが硬質な音を立てる。作業の手を止め、リキティは振り返ると、

「時折羨ましくなるよ、ライダー。お前たちはあのハイドラコントロールシステムなんて得体の知れないものを恐れない。いや、恐れているのかもしれないが」

 二杯目のコーヒーも甘さは控えられていたが、一杯目とは別物のように感じた。飲み慣れないものを二回も飲んだせいで、舌が麻痺しているのか。

「エンジンを積まなくてもハイドラは動く。ならハイドラは、何を使って動いている……」

「さあ。考えたことも無い」

「馬鹿げた話かもしれないがな、ライダー。俺は思うことがある。ハイドラってのは、人間の”恐れ”を食って動いてるんじゃないかと」

「だから俺たちは恐れないってことかい……」

 エンジンなぞ無くともハイドラは動き、敵を捻り潰そうと圧を放つ。霊障が良い例だ。火器の無い状況にあっても、ハイドラは敵を攻撃することを止めない。たとえその身にどれだけの負荷がかかろうとも。棺の中の──あるいは揺り篭の中のライダーを慈しむかのように。

「否定する材料は無いな。今のところは」

「神でも信じてるなら話は別だがな」

「狂った聖ヨケルギウス信奉者のドッヂウォールとは違う。少なくとも俺は」


◆◇◆


 脚本の話がある。

 幼い頃、少年はアニメが好きだった。子供向け番組ながら登場人物の織り成すドラマが重厚であったため、そのシリーズは高い人気を博し、ついには続編が作られることとなった。

 少年は喜んだ。あのヒーローが、あのヒロインが、あの敵役が暴れ回る世界を再び垣間見ることが出来るのだと。

 少年は裏切られた。あのヒーローは、あのヒロインは、あの敵役は──何もかもが、以前のそれと全く別物になってしまっていたことに。脚本家の変更は、世界観をまるで変えてしまった。正しいと信じていた設定はひっくり返り、性格は捻じ曲げられ、ストーリーは販売目標達成を重視した陳腐な活劇になっていた。


 教訓。脚本家間の話し合いはもっと丁寧に行われた方がよい。

 教訓。今正しいことが、未来永劫正しいとは限らない。

◆◇◆


 下に居る。

 それが彼の、それまでの人生の全てだった。

 端的なことの美点は、短いことだ。短さは速い。少なくとも、端的な説明の後ならば、長ったるい説明を三時間聞き続けた後の脳よりは幾ばくかまともな判断が下せる。まともなことは悪くない。少なくとも、まともでないよりは──こうして人はいつしか最大公約数を考えるようになる。人間はあまりにも巨大な存在を上手に認識することが出来ない。最大となった公約数がどれほどのものなのか、それを夢想する者はこの街にはいない。考えなければ、それなりの人生訓で己を納得させられるのだから。

 幼い頃、彼は父親の庇護下に置かれた。暴力と抑制の下から抜け出した彼は、ドッヂウォールの支配下に置かれ、今はこうして都市のアンダーグラウンドに居る。何かの下に居る感覚が抜けなかった。

 下に居る自覚を持つ者は、憧れを抱いて上を見上げる。あるいは、下を向いて暮らす。太陽から目を背けたところで、誰も核融合からは逃れられない。それでも自分だけは無関係だと思いたいのだ。彼は下を向いていたが、彼の父は上を向いて生きていた。向上心ではなく、野心と呼ぶには矮小な高望みを隠そうともせずに。

 これに勝てばもっと美味いものが食える。良い目が出さえすれば。時には神にすら縋って。聖ヨケルギウスなど信じていないだろうに、聖印(Yの字)を切ることだってあった。浅ましい父が破滅するのは時間の問題だった。

 父の顔は覚えていない。記憶を留めるにはあまりにも幼かったのだ。ただ、黒い真珠のような感情だけははっきりと胸に残っている。それが大切な宝物ではなく、ただの怒りだと気づいたのは、随分経ってからのことだった。


 物心ついた頃、サクラの人生は終わりを迎えた。


◆◇◆


 部屋は時計だった。大人の背丈よりも高い位置にある小さな窓から差し込む光は、秒針であり短針で、来る日も来る日も正確な時を刻み続ける。幼い彼に時を読み取る術はなかった。何も無い部屋だった。石造りの床、壁、天井、そして鉄格子。自分以外に動くもののない停滞した牢獄にあって、彼にとっての唯一の楽しみは光源の変化だけだった。

 この部屋のルールはすぐに(すぐには早い)理解できた。日が三度沈むとどこかへ連れ出され、たまに帰ってこないものも居ること。それは部屋の並び順に訪れること。隣人が居なくなったこと。次は自分の番であること。

 迫り来る死について何の感情も持てなかったのは、その向こう側に、ある種の自由を信じていたからだ。死が自意識の消失と同義であることを理解していなかった。彼に死を教えてくれるものは居なかった。唯一の肉親であった父は彼に何も教えぬまま、避けきれずに死んだ。ヨケルギウス聖句を呪いながら。

 主は避ける者を選んだ。避けぬものを選ばなかった。主は人に回避の自由を与えた──父の良く唱えていた聖句は、彼に一つの答えを掴ませた。自由こそが救いで、人は生まれながらにして自由だと。死の直前までは誰だって自由に違いない。死に方が選べるとは限らないが。

 隣の隣の部屋が静かになると、隣の部屋は途端ににぎやかになった。日が二度沈んだ後、部屋は途端に静かになった。漂う悪臭が血の匂いだと知ったのは、部屋から連れ出される際、視界の端で真っ赤に染まった床を捉えた時だった。死の間際、隣人が掴んだのは自由だった。死に方を選べたのだから、それは自由というものだ。


◆◇◆


 リキティのショップでの会話から、二週間ほど前に遡る。

 彼はショットバーに居た。とある工房に備え付けられたそこには、常連客しか集わない。誰もが同じ志を持つ者ばかりで、当然と言えば当然だが、居心地は悪くない。ひどく硬質な場は、彼のお気に入りでもあった。リキティのショップ以外の外出先は、ここくらいのものだ。それと、塩が美味い。

 人目を避けるため、盛りには早い時間帯(早いことは大事だ)を選んだ。店内には彼と、隣に居る男、それにマスターの三人だけ。マスターは少し離れたところに座り、器用に片手でグラスを磨きながら、ラジオに聞き耳を立てているようだ。こちらの事情に立ち入らないというアピールでもあるだろう。

「さて──前提として、まあ、ご存知かとは思いますが、ドッヂウォールの令嬢はひどく奇矯な方でね。自ら仕立てた自慢のドレスで、残像領域を飛びまわる趣味がある。ドッヂウォールの社是、『速度に勝るものは無し』を地で行くようなお方だ。異名も多い。ミス・ヴェロシティだとか、ナイトロ・クイーンだとかね」

 言葉の主は探偵だ。謎を解き、あるいは人を探し、報酬を得ることを生業としたエキスパートたち。彼が依頼したのは、その中でもとりわけ身辺調査を得意とする者だった。奇妙な内容に初めは首を傾げていたが、《捜索》の名を冠した探偵だけあって仕事の中身はスマートでスピーディ(当然早い)だった。

「刺激を求めているんですよ、要は。当然、そんなことをしていればすぐに慣れてしまう。次に彼女が選んだのは、単なるハイドラ・ドライブではなく、もっとスリルのある──自身のハイドラを攻撃させ、それを回避することだった。勿論、自ら名乗りを上げる人間は居ませんよ。でも、ドッヂウォールから金を借りている人間は大勢居る。金を返せなくなった人間もね。ドッヂウォールはそんな連中を集めて、適当なハイドラに乗せてご自慢のダンスホールに並べ、令嬢のハイドラを攻撃させた。令嬢は気持ちよくそれを回避する。最後は護衛が棺桶の中の連中を始末して舞踏会はおしまい。運が悪い債務者は次の日も使いまわされる。運が良ければ、まあ、それっきりという話になる」

 無言でソルティダガーに手を伸ばす。小指がぶつかり、グラスごと床に叩きつけてしまった。別に酔ったつもりはなかった。ただ、視界が定まらない。いつものことで慣れきってはいるにせよ、余所でやってしまうと流石にばつが悪かった。

 探偵は話を止め、グラスの中の半透明な液体をあおる。マスターがグラスを片付け、新しいソルティダガーを出してくれるまで、探偵は口をつぐみ続けた。守秘義務という奴だろう。沈黙は遅い。しかし、仕事の丁寧さには好感が持てる──その変なひげにはいつまで経っても慣れなかったが。

 マスターが遠ざかるのを確認した後、探偵は口を開いた。

「ドッヂウォール試験場で非合法かつ非人道的な舞踏会が行われているのは、近隣の誰もが知っていた。公然の秘密ってやつです。的として運び込まれる債務者は皆その町を通っていく。喚くものも少なくない。でも、何も言わなかった。城下町の人間は、お上に逆らうような真似はしない。レールから外れることなく生きる。利口なもんです」

 無言であることの美徳は、話が円滑に進むという点だ。彼は黙ってソルティダガーを眺め、時にグラスを傾ける。相槌は不要だった。探偵の出番を邪魔する必要はなかった。言葉を遮るのは、探偵自身のグラスと煙草だけだ。

「さて──債務者の中にはあなたのお父上も居た。あそこに回される債務者は、決まって莫大な、それこそ人ひとり買えるような額の借金を背負っている。お父上は二人分の額を背負っていた。あなたも債権として回収され、試験場に投げ込まれた。お父上は……運が良かった、ということにしておきましょうか」

 運が良かった。そうなのだろう。一生働いても返しきれない額の債務を、ただの半日で帳消しにしてしまったのだから。しがらみを捨て、父は自由を手にした──死後は誰もが等しく自由だ。

「しかし……ある日、特殊なことが起こった。ドッヂウォール試験場から音が消えたのです。令嬢が滞在する期間、町は毎日騒音に悩まされていた。極めて異例なことです。試験場が……封鎖されるということはね。だから証言も多く集まりましたよ。封鎖されたのは、その一度きりのことでした。その上、連盟お抱えの医療班までやって来るとは……通常あの医療班の処置が受けられるのは、企業連盟のトップだけ、ドッヂウォールでも重役以上だけだ。そして重役達が自ら試験場に足を運ぶことは決して無い。なら、誰が処置を受けたのか……決まっています。ドッヂウォール令嬢しかありえない。つまり事故が起きた。令嬢の身に何らかの事故が」

 ノイズまみれの心地よい雑音が突如テーブルに響き渡った。コロッセオの中継が始まったのだろう。興奮する観客、あるいは立ち込める霧と電磁波の生み出す不和は、ラジオをスクラップと変化させた。音源を見やる。睨みつけるよりも早く、マスターが小さく顔をしかめながらボリュームを絞っていた。

「近所の住民は鮮明に記憶していましたよ。例えどんな轟音が響いても、誰が死んでも封鎖されないあの試験場が静かになった日のことを。そしてこうも言っていました。その翌日、誰も戻ってきたことのない試験場から、一人の人間が町にやってきたと。複数人の証言があったので、それらを元に人相書きを作ってきました。ご覧ください」

 読み上げられる言葉は遅かった(探偵特有の持ってまわったまわりくどさは紛れもなく遅い)が、捉えた事実の鋭さは極めて硬質だった。人相書きには見覚えのある顔があった──見紛うはずもない。それは彼自身の顔だった。

「恐らくはあの令嬢のことです。自分を撃墜した者へ特赦でも与えたのでしょう──時を同じくして、新人ライダーが戦場に現れるようになった。ドッヂウォール試験場から出てきた男、時期を同じくしてハイドラ乗りになった男、回避にこだわる男、ドッヂウォール令嬢の名を追いかける男、そして今は反ドッヂウォールを名乗る仲介屋と懇意にしていることとくれば……誰でも答えを推理できる。愚かな閃きを持った警官だとしてもね」

 煙草を取りだし、火をつける。たっぷり一服してから、探偵は人相書きを指した。

「生還者はあなただ。サクラ・ブレイクバーストスピード。ドッヂウォール試験場唯一の生還者にして、この私の依頼主である。初めて受けた依頼ですよ。まさか自身の過去を調べろとはね」

「流石だ。感服したよ、探偵さん。その通りだ」

 自分から口を開いたのは、今日はこれが初めてかもしれない。賞賛を込めて手を叩く。

「七探偵、《捜索》のオルノー・ドッコーニ。父オルネンから受け継いだ《捜索》の座が伊達ではないということが分かっていただけましたかな」

 探偵は満面の笑みだった。世界に解けない謎はないと思い込んでいる。現に無いのだろう。それが七探偵だと、初めて顔を合わせた際に断言されたのを記憶している。

「無論、私だけが推理出来るのではない。ドッヂウォールの調査班には探偵協会からの出向者も居る。顧客の安全のため忠告しておきますが、彼らはあなたの正体を掴むことが出来る。あるいは既に──」

「掴まれている」

 可能性を考えなかったことはない。ドッヂウォールは巨大な組織だ。利益を生むことよりも、人間を支配することをより重視する彼らにとって、仇なす者のマークは基本業務の一つだろう。それでも、害をなすまでは泳がせる。敵対者とはいえ、生きるためには多かれ少なかれドッヂウォールの製品を買わずにはいられない。顧客をむやみに減らすことはない。

「忠告は受け取るよ。それで、腕を見込んでもう一人調べてもらいたい。礼金は今回の倍出す。聞いてもらえないか……」


◆◇◆


 サクラ・ブレイクバーストスピードは本名ではない。

 これは正しい。考えればすぐに(すぐには速い)分かる。ブレイクバーストスピードは自称で、サクラに至っては己を指す語でもない。例え長ったるいと謗られようと、ブレイクバーストスピードを譲る気はなかった。聖ヨケルギウス信者が旧避聖書を信条とするように、サクラにとってこの名は聖句だった。


 サクラ・ブレイクバーストスピードは幼少の頃からハイドラ乗りだった。

 これは部分的に正しい。現役のライダーになる前、サクラはハイドラに乗っていたことがある。ドッヂウォールは借金のかたに死を前提とした奉仕を叩きつけた。彼に与えられたハイドラはエンジンも積まず、いたずらに腕を四本アセンブルされただけの、動かない棺だった。多くの前任者と同じように、彼はその場で死ぬ運命を与えられた。迫り来る轟音、耳をつんざく噴霧の声、ドッヂウォール令嬢付きの護衛たちの攻撃。与えられた四本の腕で丸めた身を覆い、彼は必死に自らの揺り篭を守ろうとした。


 サクラ・ブレイクバーストスピードは、ドッヂウォールの一人娘と面識がある。

 これはごく僅かな部分を除けば正しい。面識があるのはサクラの側だけ──名前すら知らないのだから、顔を知っている以上の関係は無い。ゴシップ紙を愛読している市民グループよりも知識は少ないかもしれないが、意図して触れることを避けてきたのだ。当然といえば当然だろう。

 令嬢の慈悲か、底抜けの悪意かにより、彼は死の運命を回避した。染み付いた恐怖は中々抜けなかった。すれ違いざまに瞳に映った、仮設操縦棺内のドッヂウォール令嬢が脳裏に焼きついている。的に向けられた、飽きた十歳児のような眼。サクラの攻撃に被弾する直前に見せた、驚喜に歪んだ屈託の無い笑顔。

 

 サクラ・ブレイクバーストスピードは本名ではない。

 名前には魔術的な力がある、とされる。人は名を与えることで地図の暗闇を、不可思議や未知への恐怖を克服した。物は名を持つことで存在を得る。同時にそれは、全てを失う可能性を約束されることでもある。名を悪用され破滅する話は枚挙に暇が無い。悪魔との契約であるとか。

 名を持つ者は、喪失という新たな恐怖から逃れようと、その術を編み出した。即ち、名を偽ること。至極単純な話だが、署名するのが偽りの名であれば、全てを失うことはない。偽りの契約で失うのは限られたものだけだ──信頼であるとか。

 偽りの名で、彼は可能性を担保した。折れた枝から桜の花が散る速度。サクラ・ブレイクバーストスピード。


 散りゆく桜を掴み取ることは難しい。

 脳裏に焼きついた光景だけが魂を突き動かす。


◆◇◆


 窓から覗く空は、例によって不快な灰色だった。何より不快なのはその色で、霧の中にいながら、わざわざ霧と同じ色をした空を見上げるのは、時間の無駄でしかない。無駄は遅い。空は不合理で無意味だった。

 リキティのショップは閑散としている。このあたりにはほとんど人通りは無い。自分以外の客の姿も数度しか目にしたことが無く、彼はショップの経営状況を不思議に思っていた。

 二杯目のコーヒーを残したまま、彼は続けた。

「ドッヂウォール。あんたも知ってるだろ、リキティ。ドッヂウォールが何をしてきたのか。奴らが何なのか……」

「そりゃあ、知っているさ。急にどうした……」

「エンジンが無くてもハイドラは動く。なら、エンジンを積んだハイドラはどうなる……」

 リキティは呆れたように肩をすくめ、

「少なくとも、動く機会には恵まれるだろうな。エネルギーってのは、あるかなしかで言えばあったほうが良い」

「否定する材料は無いな。今のところは」

「なら従っておけ。常識ってのは、大損しないためにある命綱みたいなもんだ」

 リキティの義肢はドッヂウォールのものだ。軍用の払い下げで、型は古い。詳しくは語りたがらないが、ドッヂウォールが原因となり、左半身のほとんどを機械化している。常に大きめのサングラスを着けているのも、顔に残った傷跡を隠すためだろう。彼にそこまでの心得があるかは議論の余地があるが、外見に気を使うのは客商売の基本だ。基本さえできていれば、そう困ったことにはならない。命綱という表現は的を射ているだろう。

 義肢にはハイドラ技術が応用されている。それはつまり、ハイドラと同じ仕組みが用いられているということだった。人間と違い、ハイドラはエンジンが無ければ動かない。リキティのエンジン信奉はそこから来ているに違いない。もしくは、彼が病的に死を恐れているだけか。

「命綱があったのかい……」

 問いかける。真面目に尋ねた気だったが、リキティには伝わらなかったようだ。質の低い(軟質だ)なジョークを聞いた客のように苦笑いしている。

「いつも唐突だが、今日は飛びぬけてるな。何の話だ」

「左半身を失う事故だ。命綱があったから、それだけで済んだのかい……」

 リキティは察したように、口ごもり、左腕をさすると、

「昔の話だ。ドッヂウォールとのいざこざがあって、それでちょっとな。一番血気盛んだった頃さ。自分じゃ命知らずと思ってたが、そうでもなかったってのが分かったよ」

 リキティは左手を触ったまま、拳を握り締め、開く。それを何度か繰り返した。中古とは思えない円滑な動き。メンテナンスが良いのか、義肢そのものの性能が高いのか。見た目には判断がつかなかった。

「ドッヂウォールの義肢を使うしかなかった。保険てのは入っておくもんだ。保険金ギリギリ、予算ギリギリ。だがそう悪くない買い物だった」

「それは本当に仕方のない買い物だったのかい……」

「やけに絡むな、ハイドラ乗り。そんなにお前さんが凝りアーティストだとは知らなかったよ」

 と、リキティは益々苦笑する。彼は左腕を下ろし、客に向き直ると、わざとらしい音を立てて手元にあったコーヒーをすすった。

 カウンターの向こう、古びた金属ドアの奥。店に入れば一番に目に入ってくるドアの先には倉庫があり、リキティはそこに物品をしまっておくと言う。買い付けの仲介を頼んだことしかないサクラにとっては、あまり関係の無い場所だ。珍しく、今日はそのドアが開いていた。そんなことが気になった。サクラは落ち着いていた。

「回りくどいのは遅い。そうだ。俺が聞きたいのは、リキティ。その腕の出所じゃない。何故コントロールシステムが最新の物にアップデートされている……」

 変化は見逃さない。リキティの表情の変化。腕か肘が当たったのだろう。サクラの飲みかけの、変化しないままのコーヒーカップが、静かに床に叩きつけられる。じわじわと広がるコーヒーは、湯気を立てなかった。

「リキティ。いや、ドッヂウォールの”四本腕オーガアーム”」


◆◇◆


 リキティの表情は変わらない。纏う空気すら変わらなかったのは、彼がプロだからか。もしくは、既に纏えるほどの気迫を持たないか。探偵の調べによれば、一線を退いてからしばらく経つ。そういうこともあるだろう。

「遅いのは嫌いだったな、凝りアーティスト。いつからだ……」

「コーヒーの味で確信したよ。砂糖を失敗しなかったのは、初めてのことだったな」

「ああ、なるほど。そうか、そこまで見られていたか」

 リキティの理解は早かった。言い逃れるつもりも無いのだろう。それを度胸と呼ぶのは間違いだが、単なる蛮勇でもなさそうだ。

 先ほどの推察は間違っていた。認めること、暴かれることの先にある勝機を確信した目は、全てが霧に霞む残像領域にあってなお硬質な像を結んでいる。彼の取る行動は予想がつくが、今はまだそれをしない。ただそれだけのことだった。

「決定的な証拠を掴もうと、常に俺を疑っていた。俺はそれに気づけなかった。戦場を退くと勘が鈍っていかん」

「鈍いのは遅い」

「その通りだ。そして、俺は半身を失った。遅かったよ」

 言葉の奥に後悔が見えた気がした。失って初めて気づくというのは常套句だが、誰もが共感するからこそ常套句足りうる。失った左腕を撫でながら、リキティは静かに笑っていた。

「その左腕は軍用の払い下げ。その説明に嘘はない。だが、そいつは重大なバグを抱えていた──バグを直すには、ドッヂウォールの公式サポートセンターを経由する必要がある。ドッヂウォール嫌いのお前が、奴らに頭を下げてまでして直すべきバグとは思えなかった」

 軍用であったからこそ発見の遅れたバグだった。払い下げが行われ、初めて報告されたバグは、ある特定の動作の際に手首の稼動域が一時的にロックされ、動作が一瞬停止すると言うもので、発見者は一介の主婦だった。義肢を換装後、彼女は家に戻り、主人のためにコーヒーをいれ、バグが発覚した。さじですくった砂糖をカップに入れるような、あるいは塩を料理に少々するような、およそ軍事的ではない手首の動作が引き金となる。リキティのコーヒーがいつも甘すぎるのは、バグのせいで砂糖の加減が利かないからだった。彼は左利きで、義肢になった後も左手で砂糖を入れる。しかし、今日のコーヒーは美味かった。甘すぎなかったのだ。

「担当が変わっちまったんだよ。前の担当は長くてな、何も言わずともそのバグには触れなかった。だが新しい担当者は、気を利かせてくれたみたいでね。黙って直されちまった」

「ドッヂウォールに伝えておけ。担当者間の引継ぎはもっと丁寧に行われた方が良い」

「伝えておくよ。お客様の声としてな」

 リキティの言葉に偽りがないと感じたのは、第六感(常套句だ)の仕業にも思えたし、この期に及んで嘘をつく必要など無いという論理的思考判断にも思えた。不確かな自己分析とは対照的に、確かなことが一つある。リキティもドッヂウォールも、この会話が終わればサクラを殺すつもりで居るはずだ──もしくは、殺した時が会話の終わりと思っている。

「一人で調べたわけじゃないな。お前に妙な動きがあれば、それは全て報告される」

「全てプロフェッショナル探偵が調べたことだ。俺はその裏を取ったに過ぎない」

 ため息混じりに尋ねたリキティに、サクラは即答する。手の内を明かすことに意味は無い──隠すことにも。ドッヂウォールは巨大な企業だ。どうせ全てを知っている。

「口座の金の流れは全て監視下にあった。弊社にはそれが出来る。金は動いていなかった。金はどこから……」

「戦場で稼いだ小銭マージン。クレジットで直接動かせば、企業連だろうと分からない」

「なるほどな。考えたもんだ。金の流れが他に移った。おかげでうちの売り上げはさっぱりだ」

「悪いな。だが、パーツは全部お前に頼んでいたよ」

「俺を疑いながらかい……」

「人を全て信じるのは愚かだ。全て疑うことも。だから部分的に信用した。ドッヂウォールは顧客を逃さない。金を払ってくれる間は客として扱う。たとえ象の命を狙う蟻だとしても」

 ドッヂウォール創業家には商売の才能がある。わずか数代であの規模の企業までのし上がったことを考えれば、それは誰もが認めざるをえない事実だ。商売とは、本質的に売り手が買い手を見くびることが大前提となる。商品を買った人間が、やがて自分を脅かすに足る相手ではないと思わなければ、リスクとリターンの釣り合いが取れない。死の商人が決して損をしないのは、売る相手と時期と商品を間違えないからだ。

 ドッヂウォールは巨大な企業である。巨大なコングロマリットを成り立たせる多角的な経営は、いわば思惑の絡みあいだ。一枚ではない数多の岩は、その中で一つの妥協点を見つけ出す。利益を追求せよと。


◆◇◆


「今度は俺が尋ねる番だ」

 手番が回ってきたというよりは、強引に手繰り寄せた。リキティの無言は、諦観とも肯定とも取れる。少し老けたようにも見えるが、サクラはどうとも取らなかった。ただ、続ける。刑の執行を告げる刑務官は、相手の感情を気に留めない。

「名前だ。四本腕オーガアーム、リキティ、ドッヂウォールの犬。どう呼べば良い……」

「そんなものは重要じゃないだろう。俺の名前よりも、だ。今大事なのは、お前の身に危険が迫っていることだ」

 想定の範囲内ではある。むしろ遅かった(無論遅い)。リキティが机の下、カウンターの裏側に伸ばした左腕が再び机の上に現れた時、その手には銃が握られていた。ハンドガンとはいえ、軍用義肢でなければ反動に耐えられないだろう大口径がこちらに向いている。物々しい銃と機械化された左腕は一体化した怪物を思わせた。裂けたような口を開き、今にも飛び掛らんとする、鉛の毒牙を持った巨大な蛇。

「質問は選べよ、ライダー。ドッヂウォールはこの様子を全て監視している。様子見の終わりを指示されれば、俺は引き金を引く」

「なら答えてくれ、リキティ。そんなもので俺に勝てると思っているのかい……」

 時間を稼ぐつもりはなかった。銃に対する恐怖は無い。戦場で避ける電子や粒子の致死攻撃は、知覚を超えた速度で死をもたらす。だからライダーは残像になって戦場を彷徨い続けるのだろう──速すぎる死に気づかない。サクラは自分が冷静だと改めて理解していた。無意味なことを考える余裕がある。

「コップも倒す。ドアにもぶつかる。店に来るたびそれをやる。大方遠近の感覚がめちゃくちゃなんだろう。棺桶一つであんな化け物にしがみついてるんだ。脳がイカれちまってるんだよ」

「飼い犬に負けるつもりは無い」

「飼い犬だと……」

「鎖で繋がれてるのは飼い犬さ。黄金だろうと、鉄だろうと」

 食いかかるリキティに、一言で断じる。と、彼の表情と共に空気が変わった。ドッヂウォールから指示が下りたのだろうか。それとも、腹に据えかねたか。大きなため息をつくと、リキティは銃を握りなおす。あまりにも自然に、そしてシームレスに殺意が迸る。それはリキティが四本腕オーガアームだった頃、そうすることが日常の一部だったことを伺わせた。死地に身を置く者の、決断的な、不退転の、死に至る力の行使の確定。

「……お前みたいになりたかったよ、ハイドラ乗り」

 苦々しい無表情で、それでも小さく笑ったように見えたのは、ハイドラの機動力に焼かれた脳が見せる幻覚だろうか。

 ハイドラはライダーの恐怖を食って動くと言ったのはリキティだ。人間は恐怖を克服するため、暗闇を克服し、地図の空白を塗り潰してきた。恐怖は人間の原動力だ。ならば、恐怖を食い尽くされた人間はどうなるのか。

「飼い犬は狼に戻れない」

「分かっている。だから……俺は狼を殺す猟師を目指した。それを、アイツが邪魔した。今度はしくじらない」

「俺はアイツとやらじゃない」

「お前がアイツじゃないのなら、俺が勝つさ」

 手練の暗殺者が、呼吸でもするかのような自然さで狙いを定め、使い慣れた銃の引き金を絞り、撃鉄が弾丸を刺激するまでの一瞬を隙と呼べるのなら、リキティは隙だらけだった。毒牙が食らいつくよりも速く、弾丸よりも速く、銃声よりも速く、引き金が音を立てるよりも速く──無論そんなわけは無いが──サクラは行動を終えていた。回避し、投擲する。上体を後ろにそらし、反動を利用して突き出した右手から、鋭く硬い、鉄の刃を。

「馬鹿をやった。分かるだろう……俺の”反応”速度は」

 リキティの手から、バーカウンターを経由し、床に。鈍く硬質な音を立てて、銃が落ちた。

 リキティが必要とした動作は三つ。狙い、引き、撃つ。対するサクラはワンアクションだけ少なかった。回避と投擲は一つの動作で済む。狙い、避けながら投げる。

 ただの精神論だ。実際に銃撃を避けながら攻撃を済ませ、勝利出来る人間などいない──だが、サクラはそれをやった。

「ああ、””速い(当然速いことを意味する)””……ちゃんと見えているのか……」

「脳がやられてるってのは間違いじゃないかもな。ただ、遠近感が狂ってるわけじゃない。動いてないものが認識し辛いだけで」

 胸に突きたてられた硬質ダガーは、リキティの敗北を意味する。数日前、ダガー工房のマスターに依頼したハイドラ用ダガーのサンプル。見本品だけあって人間サイズまでスケールダウンしてはいるものの、その出来栄えは──とりわけ硬質さは本物に劣らない。

「負けは生涯で二度目だ。最初は”””硬質”””な男に、最後はお前に……」

「十分だろう。死に場所が選べたなら」

「結構気に入ってたよ……この店……」

 悔恨だろう。閉じゆく命の薄れゆく声量からは、ありありと未練が伝わってきた。犬は情が深い。一度戦場を離れた飼い犬は、棲家に愛着を抱いていたのだろう。そして、生への未練も。

「ああクソ、俺は、リキティ・ザ・ドッヂウォールドッグでも、””””四本腕オーガアーム””””でもない……こんな名前を持ったから、失うんだ。全て……」

 名前の持つ魔術的な力は悪魔の契約の代償として、リキティから全てを奪っていくだろう。残るものは何も無い。誰からも、何も思い出されない。存在の喪失。

「俺の、名前は」


 瞳を閉じ、動かなくなった(遅い)リキティの顔を、サクラの脳は既に認識しなかった。

 サクラにとって、死んだ人間は常に遅い。そして、速すぎる。


◆◇◆


 電磁波が薄い日は、決まって調子が悪かった。

 電源スイッチが壊れ、つけっぱなしになったラジオからは歌が流れている。歌は嫌いだ──音は遅い。言葉で意味を伝えることに適していない。遅いものは嫌いだ。遅いものを好くのも、遅いものに好かれるのも──遅いものを見るのも。人の死を目の当たりにするのも。

 愛する機体は四本の腕をアセンブルしたゲテモノだ。二つの腕を無理やり束ね、それを左右に一つずつ組み込んであったが、今は新たなチューンを行った。腕は己を守るために折り畳んで使うものではない。掴み取るためのものだ。何かを掴み取るためには、手を伸ばさなければならない。

 金は無かった。

 懇意にしていた仲介人リキティは死んだ。彼のショップを出て以降、連絡は断っている。企業連盟の庇護下で生かされてきたサクラにとって、ドッヂウォールの犬殺しは明確なペナルティ対象行動だった。すぐにドッヂウォール私兵のハウンド部隊が送り込まれてくるかと思っていたが、彼らはもっと楽に痛打を与えてきた。口座の凍結と言う形で。

 ドッヂウォールカンパニー代表取締役には、一人娘が居る。

 脳裏に焼きついた光景だけが魂を突き動かす。


◆◇◆


 ドッヂウォールオフィスの高層。試験場に入り浸ってばかりの彼女にとってそこは、滅多に帰らない家であり、執務室であり、カンパニーの中枢でもある。

「そう……分かりましたわ。下がって頂戴」

 フリルの利いた、濃いマゼンタのドレス。私服にも等しいそれは、彼女のトレードマークの一つだ。動けば揺れる。避ければ動く。回避至上主義者の彼女のお気に入りだが、試験場での”舞踏会”の予定は潰れてしまった。仄かに緑がかった金髪を撫で付け、秘書にいれさせた紅茶をすすって苛立ちを抑えつける。

 報告者が持ってきた話は、内容としてはつまらないものだった。即ち、失敗の話だ。硬質な音を立ててティーカップを執務机に置くと、改めて書類に目を通す。

 報告書は三行だった。監視は失敗、担当者は死亡、制裁措置として口座を凍結。短い書類は効率が良い。無駄な時間は嫌いだ。

「リキティ。愚かな、遅い男ですわ。二度目の失敗の代償が命とは……」

 彼女を悩ませる問題は増えていた。ヨケニウム純結晶の探索は難航、例の””ハード・ダガー””は今だ足取りが掴めず、さらに言えば企業連盟会長バルーナスの持ち出した『影の禁忌』とやらも見逃せない。ハイドラ大隊殲滅のために投入されたシャドウシリーズは、いわば回避壁を殺す力──アンチ・ヨケルギウス・システムだ。信仰厚い彼女は、聖ヨケルギウスへの冒涜を許せるほど大人ではなかった。

 ふと、報告書の備考欄に目をやった。監視対象の略歴、試験場からの生還者。身に覚えがある。不要な人間を記憶に留めることはしない彼女にとって、それはほとんど奇跡に近かった。

 ふう、とため息を一つつくと、再び紅茶をすする。最上級のドッヂリンティーは香りも良いが名前も良い。平穏な心を取り戻すには、これが一番速い。

 執務室の壁に飾られた、古の勇者、聖ヨケルギウスの絵画を眺め、彼女は決断した。ヨケルギウスの加護か、あるいは単なる偶然か。上手く行けば、手駒が手早く揃う。

 計画を早める(つまり速い)必要がある。

「聖ヨケルギウスと彼に委託された全ての回避壁に無限の最大回避とクイックドライブがあらんことを」

「レディ?」

 秘書の発した訝しげな声が、驚喜に歪んだ屈託の無い笑顔に向けられたものだと、彼女は気づかなかった。

「その男の監視を続けて頂戴。殺してはいけませんわ。いずれ……時が来るまでは」

 回避の果て、その先にあるもの。古の魔術書ヨケティアに記された七十二の避魔の顕現を待つ程の時間は無い。例えヨケタロト公爵が阻もうと、最早誰も止められない──黒い真珠のような感情で着飾った、ヨケルヒルト・ヨケルギオーネ・ドッヂウォールを止めることは、決して。


◆◇◆

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