蛍の記憶
今でも、時折夢に見る。
聞こえるのは、幼い少女のしゃくり上げる声。
『こんなんになっちゃってごめんね。でも絶対迎えに行くよ』
そう言ったのは、目の前で泣いていたのは、一体誰―――――?
白で統一された個室空間。そのベッドの上で青年は仰向けに寝たまま本のページをめくっていた。
時の流れが遅く感じるのは、やることが何もなく、そして出来ることが限られているからだ。
静かに緩やかに時間が過ぎていく空間に、突如、バタバタとした足音が響く。
その足音は間違いなく、青年の個室に向かっていた。
ガラッと勢いよく引き戸を開き、現れたのは――――。
「綾ちゃんっ!」
「綾ちゃんは止めてって言ってんじゃん、ケイ」
長い髪を揺らめかせ、泣きそうな顔で怒っているという奇妙な表情を浮かべた少女だった。
青年、宮下綾斗の生活空間は病院だ。
七歳の時に拡張型心筋症と診断されて以降、およそ十一年間この病院に入院していた。大きく変化したことと言えば十五の誕生日を境に小児病棟から一般病棟にベッドが移ったことくらいで、それ以外に特に変化はないまま時間だけを消化する毎日だった。
少女、ケイに出会ったのは、暇つぶしに中庭を彷徨いていた時である。
毎年見事に桜を咲かせる木の幹で、見たこともない少女が膝を抱えて泣いていた。
ひどく印象に残ったのは、目にも頬にも涙の跡はくっきりと残っているのにその表情は怒りに染まっていたこと。
顔を上げた少女と視線がぶつかった途端、綾斗は踵を返そうとした。
しかしそれより一瞬早く、少女が綾斗の入院着の裾を掴んでいた。
「ねえ! 暇ならちょっと付き合って!」
断りきれずに聞かされた話で、彼女が綾斗と同い年であること、この病院の近くに建設された桐崎高校に通っていること、そして桐崎高校は高校でありながら医学科があるという県内唯一の学校で、彼女も医学科の生徒であることを知ったのだった。
泣いていたのは先日実施された生理学のテストの点がかなり悪く、男子に散々馬鹿にされ、そして反論も出来ないほど悪い点をとってしまった自分が情けなかったから、という。
「医学科は一学年四十人しかいなくて、しかもその中で女子は二人だけだった。でももう一人の女の子は結局ついて行けなくて退学したから女はあたし一人だけ」
医学科の高校に通うということはすでに進路は医師に決まっていて、親の後を継ぐからといった、堅苦しくも具体的な理由がなければやっていけない程度には厳しかった。
「けどあたしにそんな大層な理由はないの。父さんは普通に工場勤務だし母さんはパートだし。親戚洗いざらい調べても医療関係の人なんていないし」
「はあ……」
どう相槌を打てばいいのか分からず、適当に返した。
「チラッて人のテスト覗き見てあからさまに鼻で笑いやがって感じ悪――――――ッ!!」
結局はイライラをぶつける相手が欲しかっただけらしい。
「あ、ねえ君名前は?」
つい数秒前の叫び声から一変、急に声音が可愛くなった。
その落差に思わず戸惑う。
「え? あ、宮下綾斗……だけど」
「ふうん。じゃあ綾ちゃんね」
「え゛っ!?」
喉が潰れたような、自分でも未だかつて聞いたことのない声が出た。
「あたしはねぇ……ケイ」
ほんの少しの、普通なら気付かないくらいの小さな間が妙に引っかかった。
「綾ちゃん何号室にいんの? 今度病室に行ってもいい?」
立て続けに質問攻めに遭い、自分の病室番号を言ってしまった。
その日からほぼ毎日、ケイは綾斗の病室を訪れることになった――――。
「ねー! もー聞いて!? 今回はけっこーいけたなって自信もあって実際点数は良かったの、五十八って! けど平均が六十九って! 十点も低いじゃないのよふざけんな――――――!」
わああっ! とケイが叫びながらシーツを掴んで顔を伏せた。いくら個室でも筒抜けだろうなぁ、この声。
最初の頃は「病院内は静かに!」と注意していた看護師も、今じゃ「あらケイちゃんまたテスト悪かったの?」と尋ねるくらいだ。
ケイが綾斗の病室を訪れるようになってすでに二ヶ月が経過している。出来ることが限られている病院内では時間の経過がとにかく遅く感じる。綾斗にとってもケイはいい話相手だった。
すでに自分が拡張型心筋症であることを打ち明けてしまっている程度にはケイとの会話は雑談以上のものになっていた。
「レジピエンドリストは? 登録してんの?」
「とっくの昔に。もう十年くらい待ってる」
ドナーが現れる可能性は限りなく低い。それを承知で登録した。
「腎臓とかならドナーの確率多少上がるらしいんだけど。それでも十五年くらい待ってようやく移植手術したって話もざらに聞くし」
「腎臓なら生体移植も出来るしねえ」
仮にも医学科。理由も知っているらしい。
「ま、気長に待つよ」
最悪の未来を想像してビクビク怯えて過ごすより、今の現状を受け止めた方がずっと楽に生きられる。
それが十年以上の入院生活で身につけた綾斗の持論だった。
「ねー? 何で綾ちゃんって呼ばれるのそんなに嫌がるわけ?」
ある日唐突にケイに尋ねられた。
「……母さんに呼ばれてるみたいだから」
昔から綾ちゃん綾ちゃんと呼んでくる母親のせいで、小児病棟では自分よりずっと年下の子供からもそう呼ばれるようになった。
「あと……」
入院する前。ごく普通の住宅街に住んでいた頃。
母親がそう呼ぶのを真似て、近所に住む仲の良かった女の子にも綾ちゃん呼ばわりされていた。
だけどその女の子の姿は綾斗の中ではひどく朧気で、姿形はおろか名前すら覚えていなかった。
その後すぐに病が見つかり引っ越したため、あの女の子とはそれきりだ。
「うん?」
綾斗の話の続きを待っていたケイが首を傾げた。
「……何でもない」
どんなに思い出そうとしても思い出せない。きっとあの子も自分のことなんか覚えてないだろう。
「ふうん?」
ケイが微妙に腑に落ちないような顔で相槌を打った。
「お前何で医者になろうとか思ったの?」
数学の課題を前にしながら一向に手の動かないケイに何気なく聞いてみた。
「あれ? 言ったことなかったっけ?」
「ねえよ」
ケイが視線を教科書に固定させたまま口を開いた。
「すごい大事な子が、かなり重い病気になっちゃったんだよね。それがきっかけ」
「へえ」
こいつらしい理由だな。それが最初の感想だった。
親の後を継ぐため、なんて堅苦しい理由は自由奔放なケイにはあまりにも似合わなかった。
季節は、夏真っ盛り。
いつもとなんら変わりはない筈の一日だった。
しかし――――。
「ドナーが、見つかった?」
いきなり医師に呼び出され、何かと思って診察室を訪れると単刀直入にそう切り出された。
そしてその後告げられたのは、優しさや甘さの一切ない厳しい現実だった。
十一年入院して、待ち焦がれたドナーの存在。だけどそれは同時に、誰かの命が奪われたことなのだと否が応でも自覚させられた。
「改めて聞かせていただきます。移植手術を受けられますか?」
担当医の平淡にも聞こえる問いに。
綾斗に与えられた言葉なんて、決まりきったものだった。
「へえ! ドナー見つかったんだ! 良かったじゃん!」
その日もいつものようにケイは綾斗の病室を訪れた。話の話題は必然的にドナーのことになる。
良かったじゃん、と言いながら、ケイの表情に一片の曇りがあるのは、医学科ゆえに厳しい現実を知っているからだろう。
「……何で俺が選ばれたんだろーな……」
「え?」
ぽつりと呟いた言葉を、ケイはちゃんと聞き取っていたらしい。
十年近くを過ごした小児病棟で顔見知りになった子供はみんな『患者』で、いつ死ぬか分からないような子も当然いて。だけどみんな、死にたくないと強く願って治療を受けている。
「生きたいって必死で願う奴に、ドナーが行けば一番幸せだったんじゃねえかなって」
そう言った瞬間。
「……っ!?」
いきなりケイに胸倉を掴まれた。そして。
唇同士が重なった。
綾斗には長すぎたその時間は、実際は五秒となかっただろう。呆然としている間に少しだけケイの顔がブレた。
「つ……っ!」
突然、鋭い痛みが脳を駆け抜けた。同時にケイが綾斗から顔を離す。しかし胸倉は掴まれたままで、今で見たことないような顔をしたケイと向き合うことになった。
今まで見たことないケイの顔――――、本気で怒った顔だった。
「もし死んだら……」
低く呟かれた声音が耳に滑り込んでくる。
「七代先まで呪ってやる」
脅しのような捨て台詞を残して、ケイが踵を返して病室を後にした。
残されたのは状況が理解出来ず固まった綾斗一人。
「呪ってやるって……」
いや、そこも気になるけど、何で、アイツ……。
無意識のうちに手が口元に伸びた。何かさっきから痛いな、と口に当てた手には血が付いていて、今更ながらケイに噛み切られたのだと気が付いた。
その日からケイは病室を訪れなくなった。
気にはなったもののあんな別れ方をしておいてどう声をかけたらいいか分からず、結局手術日になるまで連絡一つ出来なかった。
リスクの高い手術であることはとっくに理解している。もしかしたら死ぬ可能性があることも。しかし不思議と怖くはなかった。
およそ十年にわたる入院費とばか高い手術費を払ってやっと受けられるのだ。
ここで死ぬつもりは欠片もない。
ちくっ、とした痛みが手の甲に走り、綾斗の意識は飲み込まれた。
ひどく長い夢を見ていた気がする。
その夢の内容は、今まで散々見てきた、だけど未だに意味不明な会話と光景。
『こんなんなっちゃってごめんね。でも絶対迎えに行くよ』
そう言った幼い頃の自分の前で、少女がしゃくり上げていた。
『絶対だよ、約束だからね?』
嗚咽混じりに言いながら顔を上げた少女の顔は泣いていたのに目は吊り上がって、まるで怒っているように見えた。
あ、この泣き方知ってる。
ほぼ毎日、騒々しいほどの足音を響かせて病室に転がり込んでくる女とそっくりだった――――。
「――――……」
手術が終わって最初に目に飛び込んできたのは見覚えのない天井だった。
それが集中治療室の天井だと気付いたのは、綾斗の横たわったベッドの周囲に心電図やら点滴やら、その他見たことない器具が乱雑に置かれていたからだ。
手術は成功し経過も良好だというのをやけに眠気を感じる頭で聞いていた。まだ麻酔が残っているのかも知れない。
今一番気になるのは、手術直前まで悩まされたケイの存在だ。
どんな言葉をかけたらいいか分からない。それは今も変わらない。
「……来てくれ……、来て下さい、頼むから……」
もし二度と来てくれなくなっても、それならせめて、今まで来てくれてありがとうと礼を述べたかった。
近年まれに見るほど願いに願って、ようやくケイが顔を覗かせたのは、綾斗が一般病棟に戻されて数日経った頃だった。
「……久しぶり」
最初に声を発したのはケイだった。
「……もう二度と来てくんないかと思った」
上半身を起こしながらへらっとした力のない笑みがこぼれた。我ながら締まりがない。
「手術、成功したんだってね。オメデト」
病室に来る度に見舞い客としては有り得ないほど喚き散らしていた、あの時の面影はまるでない。
いつもあの声に辟易していた筈なのに、今はその声が聞けないことがひどく寂しかった。
「……寝てる間にさ、夢見てたんだけど」
「うん」
何であの夢の内容をケイに話そうと思ったのか。
――――ああ、そっか。
泣きながら怒る顔。その顔が、夢の中の女の子とケイに似ているからだ。
曖昧で、それ以外の光景も会話も思い出せない夢の話を、ケイは口も挟まずに聞いてくれた。
「……やっぱ、思い出してもらえない、か」
綾斗が話し終わって開口一番にケイが言った言葉に眉根を寄せた。
思い出す? 何を? 誰を?
そんなことを頭の中で巡らせていた時、ケイがベッドに片膝を乗せて詰め寄った。
「……約束したじゃん……」
文字通り目の前でケイが泣き始めた。怒りながら泣くというケイ独特の泣き方。
ぎょっとした綾斗が慌てて言葉を探し始めた。
しかしそれより一歩早く。
「迎えに行くよって言ったじゃん! なのに全然来てくれなかったじゃん! そう言ってくれたの信じて待ってたのに、『死んでもいいよ』みたいなこと言わないでよ!」
頭を殴られたような衝撃が来た。
ケイから視線を外すことも出来ず、脳内ではめまぐるしく記憶を辿っていく。
ケイが肩に掛けていた学生鞄に手を突っ込み、取り出したモノを綾斗の鼻先に突きつけた。近すぎて思わず仰け反ってしまうほど間近に。
「あたしは! 桐崎高校医学科三年、時森蛍です!」
――――その名前を聞いて、全て思い出した。
「蛍……?」
それは、今の今まで忘れていた、綾斗の幼馴染みの女の子の名前。
「綾ちゃんが拡張型心筋症って診断下されたのがきっかけで、医者になろうって思ったの」
ケイが――――、否、蛍が以前言っていた。
大事な子がかなり重い病気になった。医者になろうと思ったのはそれがきっかけだ、と。
その大事な子がまさか――――、自分だなんて誰が想像出来るものか。
「引っ越す前に、約束してくれたよね? 絶対迎えにいくからって。ってことはあたし迎えが来るまで待ってても良かったんだよね?」
幾度となく繰り返したあの夢の意味をようやく思い出す。
元気になったら蛍に会いに行くよと、迎えに行くよと、いつ果たせるかも分からない約束をした。
元気になるのっていつ!? 何日後!? と目の前で泣いてくれた女の子は蛍だ。
綾斗が不用意にしてしまったあの約束は、蛍を十一年間縛り続けた。
そして同時に、忘れていたって仕方のないようなささやかな約束を信じ続けてくれた。
幼馴染みの病をきっかけに医学科にまで進学した蛍の通う高校の近くに建てられた病院で生活していた綾斗は、かつての幼馴染みの顔どころか名前まで忘れ、当然その時した約束なんて覚えてもいなかった。『蛍』という漢字を音読みになおしただけの『ケイ』という名前を疑いもせずに信じて、『医学科に通うケイという少女』として関わった。
「しがみつくのがやっとの状態で頑張って、なのに医者になるきっかけくれた人が『生きたいって願う奴がドナー貰えば一番幸せだったんじゃないか』なんて、自分は生きたくない死んでもいいみたいな言い方されたら、怒って呪いたくもなるでしょ……」
ポタポタ落ちる涙を拭いもせず蛍が弱々しく笑った。
「それが、自分の好きな人だったら、余計……」
我知らずのうちにこぼれ落ちたのか、どさくさに紛れて言ったのか。
あまりにもさらりと言われたそれを、綾斗は思わず流しそうになった。
「……え、」
「好きでもない人に無理矢理キスするほどあたしも飢えてないよ」
自分から言っておいて恥ずかしくなったのか、蛍が綾斗の胸倉を掴んで引き寄せた。
「五秒で結論出して! あたしのこと嫌いなら突き飛ばす! 嫌いじゃないなら――――」
「嫌いだったらとっくの昔に来んなって言ってたよ」
明確に「好きだ」と言わないのは逃げに含まれるだろうか?
でもごめん、今は勘弁。
綾斗が片手を伸ばして蛍の目を覆った。
「……あんな約束、ずっと覚えててくれてありがとな」
「結局迎えに来てくれなかったからこっちから赴くハメになったんだけどね」
「ゴメンって……」
困り果てたような綾斗の声に、これ以上責めるのはさすがに可哀想になってきた。
「……ハーゲンダッツ奢って。それでチャラ。どう?」
それで十一年忘れていたことを蛍が許してくれるなら、泣き止んでくれるなら安いものだ。
目を覆われた蛍には見えないと分かっていながら、綾斗が笑った。
「オッケー。約束な?」
「次破ったらホント呪うからね」
自分の想像で書きたいように書き進めた話です。
なので妙なところがあってもさらっと読み流していただけると嬉しいです。