結婚したい男
『貴方のお話、拝聴させていただきたく思います。社会への不満、人生の悩み、幸せの自慢等ございましたら、以下のアドレスにメールをお送りください。“拝聴屋”』
酒の席での冗談で、とあるネット上の掲示板にこのような書き込みをしたのは、今から三日ほど前の話である。
『書き込みを読ませていただきました。早速ですが、僕の話を聞いてもらいたくてメールを差し上げました。お時間があるようでしたら、返信の方、よろしくお願いいたします』
そして、購入したばかりの私のパソコンにメールが届いたのは、今日の話である。
『そのお話、拝聴させていただきたいと思います』
仕事から帰ってきた私は、正体不明の差出人に返信をした後、息子と一緒に寝てしまった妻が用意してくれた夕食を食べるために、しばらく自室を離れていた。
正直な話、実際にメールをよこすような人間が居るとは予想外だった。完全に無視されるか、からかいの返事が返ってくるだけだと思っていたからだ。
相手が真剣かどうかも分からなかったし、またメールが来るとも断定できなかったので、私は冷めたナポリタンをいつもよりゆっくりと口に運んでいた。
ついでにシャワーも浴びて自室に戻った私は、電源を入れっぱなしにしていたパソコンの画面が、新着メールを知らせていることに気づいた。結構驚いた。
『お返事ありがとうございます。実は、僕には、是非結婚をしたいと考えるほどに愛している女性が居るのです』
恋愛相談か、と溜め息をついた。恋愛下手で、見合いで妻と知り合った私に恋愛相談などしても意味が無いだろう。そう思ったが、相手は私のことなど何一つとして知らないのだから仕方がない。
インスタントのコーヒーを啜りながら、私はメールを読み進める。
『彼女はとても素敵な女性で、彼女と知り合ってしまった僕は、もう他の女性など眼中になくなってしまいました。彼女の体は小鳥の様に小さく、体重は羽の様に軽く、生まれたての赤ん坊のように愛らしいのです!ふわふわした茶色の髪!輝く大きな瞳は、この世のどんな宝石よりも美しい!その瞳を真珠のような涙で濡らしながら見つめられた日には、僕の心はまるで天国まで行ったかのように幸せな気分になるのです!ああ、なんと麗しい!なんと美しい!僕の心がこんなに乱されるなんて、まるで罪なき天使が天空から舞い降りて降らせた雨のよう!』
最後の方は何が何だか分からない。そして、ブラックのはずの苦いコーヒーが気持ち悪くなるほどに甘く感じるのは、きっと私がこのメールに拒否反応を示しているからだと思う。
飲む気が失せたコーヒーが入ったカップを机の上に置き、私はゆっくりと深呼吸をする。もう一度画面に向き合うまでに、五回ほどそれを繰り返した。
『しかし、臆病な僕は、彼女に気持ちを伝えることすら出来ないのです。彼女のいる店に行っても、僕は彼女を見つめるだけ…。彼女のような素敵な女性に、僕は釣り合わないという考えが頭を離れないのです』
メールはここで終わっていた。どうやら、行き付けの店で働いているか、同じく常連である女性に惚れていて、告白して、あわよくば付き合いたい。もっと言えば結婚したい。そんな話なのだろう。
私は台所に行ってコーヒーを淹れなおしてから、返信メールの作成を始めた。
『お話ありがとうございます。よく分かりました。僭越ながら申し上げますと、やはり貴方のお気持ちを伝えるしかないのでは?それだけ素敵な女性なのです。心まで清らかなはず。だとしたら、貴方のお気持ちを無下にするような振る舞いはしないでしょう』
本やテレビで見たことのあるようなアドバイスを添えて、私は送信ボタンをクリックした。小さな待機画面が現れて、すぐに完了の文字が表示される。
外見と心が、共に清く美しい女性など居ないに等しいとは思う。これで相手の悩みが少しでも消えるなら…というのは建前で、早くこのやりとりを終わらせて寝てしまいたい。
そんな私の心情などはお構い無しに、数分後、新着メール受信を告げる機械的な音がした。
『貴方はなんて優しいのでしょう!見ず知らずの他人である僕の、この望みの薄い恋を応援してくださるのですね!』
ちょっとだけ良心が痛んだ気がしたが、気にせずに先を読む。
『折角貴方が分けてくれた勇気、僕は無駄には致しません。明日、僕はあの店で彼女に、この堪えきれない思いを告げたいと思います。緊張して、きっと今夜は眠れないでしょう。でも僕は、変わらなくてはいけないのです!本当にありがとうございました!』
『目の下に隈など作らぬよう、お気をつけください。では、おやすみなさい』
何度も欠伸をしながら返事を返し、パソコンの電源を切る。そのまま、倒れるようにベッドに横たわった私は、数分と経たないうちに寝てしまった。
きっと明日起きた時には、このメールのことなど忘れているだろう。
翌日、編集者としての仕事が終わって帰ってきた私は、パソコンの電源を入れて重い溜め息を漏らした。
必然であるかのように、新着メールの表示が出てきたからだ。
「パパ、晩ご飯の用意しておいたからね」
扉越しに、部屋の外から妻の声がした。珍しく私の帰りを待っていてくれたのかと思ったら、もう寝てしまうらしい。
「分かった、ありがとう。おやすみ」
「おやすみなさい」
久しぶりの就寝の挨拶もそこそこに、私はネクタイを外しながらメールを開いた。
『昨日、アドバイスを頂いた者です。今日のご報告を、と思いまして』
そんな余計な気を回さないでくれ。ほどけたネクタイを床の上に投げ捨てる。メールの送り主が目の前に居たら、投げつけてやるところだ。
『貴方のアドバイス通り、今日、彼女に思いを伝えました。“貴女は、僕をこの暗く冷たい社会から救い出してくれる女神だ!ああ、貴女の全てに僕は心を奪われてしまった!どうか僕と、同じ時間を生きてはくれないだろうか…。貴女の全てを僕に!僕の全てを貴女に!”と。その時の、周りの人間の冷酷と嘲りに満ちた視線といったら!きっと、僕なんかが彼女に相手にされるわけないだろうと思っていたのでしょう』
私もそう思っている。上手くいくはずはないだろう、と。
パソコン前の私は、込み上げてくる何ともいえない感情に目を伏せる。こういう時は深呼吸だ。今回は、復活するのに八回もかかった。
こんな事を言われて、振り向いてくれる女性など…。
『すると彼女は、可愛らしい瞳を私に向けて、ゆっくりと頷いたのです!』
私が女性に抱いているイメージは間違っていたのだろうか。一昔も二昔も前に使われていたような、見事なまでに歯の浮く甘美な台詞。今時、こんな言葉にときめくような女性が存在していたとは。
世の中、分からないものである。
『ご成功おめでとうございます。ささやかながらお役に立てたようで良かったです』
そう打ち込んで送信しようとした私だったが、ちょっと考えてからこんな言葉を付け足した。
『末永くお幸せに』
それからしばらくの間、彼からメールは送られてこなかった。数日間は、二人の恋が上手く続いているのかどうか気にはなっていたが、一週間がたった頃には忘れかけていた。
久しぶりの報告がされたのは、最後のメールから二週間近くがたったある休日のことだった。その日は見事なまでの快晴で、空の太陽は目が眩むほどの眩しさを放っていた。そのため、遊び盛りの息子を連れて、あちこちに出かける羽目になってしまった。
野球とサッカーを、計六時間近くやらされた私が疲れきって帰ってくると、家で一人の休日を楽しんでいた妻が毛布に包まりながら言った。
「さっきパパのパソコン使ってたんだけど、メール届いてたわよ」
知人とのメールはほとんど携帯で済ませている私は、その言葉を聞いて、二週間前の出来事を思い出した。驚いたことが伝わったのか、妻は眠そうな声で小さく呟いた。
「届いたメールを勝手に読むほど、あたしはパパを疑っちゃいませんよう」
「誰もそんなこと心配してないよ」
浮気が出来るほどの甲斐性など、生憎私は持ち合わせていない。
遊び足りない息子を妻に押し付けて、私は自室に戻る。立ち上がりが遅いので、部屋の電気をつける前にパソコンの電源を入れた。
唸るような機械音と共に、明るくなる画面。しばらく待つと、お知らせの表示が出た。
受信メール表示、の項目をクリックすると、登録はされていないが見たことのあるメールアドレスが表示される。間違いない、二週間前の彼からだ。
しばらく間が空いたからか、前はどうでも良いと思っていたメールに、今回は何故か軽い興奮を覚える。
深呼吸を一度して、クリックをした。
『お久しぶりです、拝聴屋さん。以前は大変お世話になりました。貴方のおかげで、僕は一世一代の賭けに挑戦し、勝つことが出来ました。いくら感謝しても足りないくらいです』
とりあえず、あれから二人の仲がこじれたりはしていないようだ。一息ついたとき、私はメールの添付ファイルの存在に気がついた。どうやらかなり容量が大きいらしく、表示されるまでには時間がかかりそうだ。
別に待っている必要もないので、私はメールを読み進めていく。
『実は、昨日、僕と彼女はついに同棲することになりました!もちろん結婚を前提にです。明日にでも結婚してしまいたいくらいです。素晴らしい日々の幕開けです!毎日、彼女の愛らしい笑顔や泣き顔、そして寝顔まで見ることが出来るのですから。僕は幸せ者です!ああ、世界中の人々にこの幸せを分けてあげたい!』
しばらく、彼女自慢が延々と続いた。相変わらずの壊れように、私は頭を抑える。軽い頭痛がする。おめでたい事はおめでたいのだが、どうも素直に祝福できない。
返信メールの内容をどうするか、それ以前にこのメールに返信をするかどうか悩んでいる私は、気になる一文に辿り着いた。
『お世話になった貴方に、彼女の写真を見せたいと思います。惚れないでくださいね』
浮気する甲斐性など無いと言っているのに!
呆れつつも、彼がそこまで絶賛する美女に、まったく興味が無いわけではない。男というのは、何歳になっても美しい女性が好きである。そういうものだ。
『少々お金がかかってしまいましたが、彼女のためです。僕は満足しています』
彼女のために指輪でも買ってあげたのか、文面からでも彼の喜びが伝わってくる。
誰が見ているわけでもないのに、期待の表情を堪えようとしてしまう。少し経ってから、大量の画像がパソコンの画面にこれでもかというほど映し出された。
そこに映っていたのは、小鳥のように小さな体と羽のように軽い体重、真珠のような涙で宝石よりも美しい瞳を濡らした、愛らしい愛らしい…
一匹のチワワだった。
『どうです?可愛らしいでしょう?貯めていた貯金を下ろして、彼女を僕の家へ招いたのです。彼女はもう、あんな狭い店の狭い檻に閉じ込められる必要はありません。これから、僕と彼女の愛の生活が始まります。どれもこれも貴方のおかげ。本当に、ありがとうございました』
たっぷり一分間近く絶句した後、我に返った私は、パソコンの画面に向けて祈るように手を合わせた。
どうか、末永くお幸せに。
彼からメールが届くことは、二度と無かった。
同棲生活が上手くいっているのか、私は知らない。