それは正しいのか 3
「霧君は、誘いを断ったんだね」
「……まあ…な」
冷凍庫同然の屋上から退避し、霧矢たちは有島と合流して談話コーナーに再び座っていた。一同、お通夜のような空気を醸し出している。
「私は…霧矢も霜華ちゃんも正しかったと思う。先輩の気持ちもわからなくもないけど、それでもそんな方法で護君を助けても…彼は喜ばないと思う」
晴代にとって雨野の豹変は相当ショッキングなものだったようだ、普段はコーヒー味の砂糖水としか言えない甘ったるいものを飲んでいるのだが、今はひじの横で真っ黒な液体が湯気を上げていた。
「…私もそう言ったら、『あんたは護の何を知っているの』となじられました。確かに、このメンバーの中で、護君のことを一番よく知っているのは光里ちゃんなんです。むしろ光里ちゃん以外は全く知らないでしょうね」
死んだような目で、有島は机を見つめている。声にいつもの生気がない。
パタンという冊子を閉じる音を立てると、文香は立ち上がった。
「…もうそろそろ帰ってもよい時間だ。会長のことは残念だが、もはや嘆いていてもどうにもならん。それよりは、家に帰ってゆっくりとまた他の方法を考えた方がよいはずだ」
ゆっくりと読んでいた雑誌をラックに戻すと、帰り支度を始める。みんなも彼女にならって荷物を整理し始めた。
*
「なあ、もし、僕が昨日お前の言葉に『ありえねえ』なんて言葉を吐かなければ、こんなことにはならなかったのかもな」
帰りの電車の中で、霧矢は隣に座っている霜華に語りかけた。病院を出てからバスに乗り、駅で切符を買っている時もこのことが頭を離れなかった。
もし、自分が霜華を傷つけなければ、霜華は機嫌を損ねることなく、一緒に病院に行き、リリアンと出会うこともなかった。
「自分がもし過去に何かをしなかったらどうなっていたかなんて、今にならなきゃわからないことだし、そんな仮定は無意味。むしろそれを反省して教訓とすることで、未来に生かしていくのが本来あるべき姿じゃないの?」
気に留めることもなく、霜華は霧矢の言葉をたしなめた。
「それを言うんだったら、いつまでもこだわって素直になれなかった私にも責任があるよ。でも、あらゆるすべての行動はお互いに何らかの影響をもたらしているから、そんなことを言ってたら、人類が滅ばない限り問題は絶対に解決しない」
「それが人類の原罪なのかねえ…?」
霧矢はため息をついた。
「とりあえず、昨日言った台詞は取り消す。済まなかった」
「…わかってくれればそれでいいんだよ。でも、それを認められると、こっちとしても会長さんのことを責められないんだよね…」
意味深な台詞に霧矢は目を細めた。霜華は続けた。
霜華は、それが危険な行動であっても、本人にその危険を背負う覚悟があるのなら止めはしないと語った。しかし、それならば、霧矢たちは雨野の行動を止めることはできない。
雨野は護を助けるためなら、何でもする覚悟を持っているのは明らかだ。だが、良心のリミットだけは外れていないのは霧矢にもわかった。もし、外れていたのならば、有島や霜華を拷問してでも契約させていたはずだ。しかし、それをしなかったということは、あくまで善人には手を出さないという彼女なりのポリシーがあるということを示している。
「……会長さんは、人を殺した悪い人は死んで当然だと思ってるんだよね?」
「…みたいだな。僕もそこはわからないわけじゃない…」
腕を組み、流れていく薄暗い景色を眺めた。
霧矢がリリアンの提案をはねつけたのは、罪もない人を殺した奴は死んで当然ということに反発したからではない。むしろ、そこに関してほとんど異議はなかった。だが、それでも霧矢は彼女の申し出を断った。その理由を突き詰めて言うならば、無関係の人の復讐感情を満たすためだけに、この手を血に染めるのが嫌だったからだ。たとえそれが、護を助けるという報酬を伴っていたとしても、そもそも霧矢にとって護の価値はそれほど高くない。
結局は自分なりの正義や良心ではなく、自分のエゴではねつけたのだ。そして、自分が断ったことで護が目を覚ます可能性が失われたという罪悪感から逃れるために、紙片を受け取り、雨野にこの話をした。
すべては自分のエゴが招いてしまったと言ってもいい。
「何か、すごく嫌そうな顔してるよ。もしかして、不愉快なことでも思い出した?」
中途半端なエゴイストは、自分のエゴで動くとともに、それに対する自己嫌悪と後悔が常に付きまとっている。目の前の困難から逃れることはできても、後から困難は精神的なプレッシャーに姿を変えて降りかかってくるのだ。完全なエゴイストとはそこが異なる。
「…中途半端は中途半端でいろいろときついってな。そう思ったんだ」
霜華は突っ込もうと口を開きかけたが、口をつぐんだ。今の霧矢の表情はいつもの不機嫌な時に見せるものとは違う、別の不愉快な表情をしていたからだ。
*
駅で文香と別れ、霧矢、霜華、晴代は商店街を無言で歩き続けた。あたりはもう暗くなっていたが、昨日までとは違い、スキー場のナイターの照明が商店街を明るく照らしていた。
薬局の手前まで来ると、晴代は立ち止まった。
「霧矢。例の件、霜華ちゃんに話しておいたんだ。お正月に泊まりに来ないって」
「…何を言い出すのかと思えば、別に構わん。まあ、僕もお前のところに顔は出すし、霜華の気分次第で好きにしてもらっていい。薬局も年末年始は休みだしな」
「じゃあ、決まり。まあ、明日のスキーはお預けだね」
「こんな気分で滑ったら、人にぶつかるわ。会長の件か片付くまでそんな気分にはなれん」
「……じゃあ、また月曜日」
霧矢の「会長」という言葉に、表情を曇らせたが、晴代はいつもの明るい声で、さよならを言った。霧矢と霜華も手を振って、家に入った。
「まあ、霧君や有島さんはいろいろと心配するだろうけど、多分時間切れになるよ。会長さんが、魔族を見つけ出すなんて、ほとんど不可能だろうし」
「…どうしてそう思う?」
「だって、人間は魔力を見ることができないから、魔族と人間を区別できないよ。いちいち『あなたは魔族ですか』なんて尋ねるほど、会長さんは痛いまねはしないと思うけど」
「…そう言えばそうだな。確かに、人間には魔力が見えないし、有島先輩も契約相手探しになんて協力しないだろうから…大丈夫か」
そこに気が付くまで随分と時間のかかったものだ。自分の間抜けさに少し呆れた。安心して一気に力が抜け、霧矢は居間のこたつに潜り込んだ。
「よっし。一緒に対戦ゲームでもするか!」
「おお! 初めて霧君が私にまともに付き合ってくれそうだよう」
霜華は今から飛び出すと、二階に上がっていく。霧矢がコートをハンガーに掛けようとして、ポケットの中のものを取り出すと、未使用のマジックカードが出てきた。
(…そうそう。こいつを返し忘れたのがそもそもの始まりだったな)
霧矢はコートを居間のハンガーに掛けると、階段を上がっていく。
「おーい。霜華。こいつを返しとくぞ」
自分の部屋の戸を開け、霧矢はカードを霜華の前にひょいと投げた。
カードが光ったかと思うと、霜華の足元で小規模の爆発が起こった。
「え………?」
煙がもうもうと立ち込めているのを、霧矢は唖然と眺めていた。数秒後にやっと霜華のシルエットが見えてきた。
「だ…大丈夫か……?」
無表情でその場に立ち尽くしている。それほどケガはしていないようだが、長い黒髪の先端が焼け焦げてチリチリになっている。
しかし、霧矢にそんなことを気にしている余裕はなかった。霜華の服がボロボロになっており、健全な思春期男子には目に毒な光景が広がっていたからだ。
(…サイズ的には五段階評価の二かな。一応僕的にはぎりぎりだけど許容範囲だな…)
確実に口に出したらセクハラになる感想を心の中でつぶやくと、百八十度回転して、霧矢は自分の部屋を出ようとする。が、後ろから肩をつかまれた。
「そのサイズのことは、私も地味にそれは少し気にしてたんだけど………ねえ、霧君。一撃で楽になるのと、二回の半殺し、どっちがいい?」
「何ィ!? 心を読んだだと!」
「……どっちがいいのかな? 霧君」
「…どっちも遠慮する!」
手を振り払って逃げようとするが、足と床がいつの間にか氷で接着され動くことができない。
ご近所迷惑この上ない悲鳴が夜の商店街に響き渡った。自業自得である。
「な…何が起こったの?」
理津子が階段を駆け上がってくる。目に入って来たものは、殴られて顔を真っ赤に腫れ上がらせて廊下にうつぶせに倒れている息子の姿と、怒りの表情を浮かべながら、あられもない姿で立ち尽くしている女の子だった。
「あらあら……」
部屋の中をきょろきょろと見まわした理津子は一言。
「知らない間に、霧矢も随分とまあ、男の子らしくなったのねえ」
どこまでも非常識な母親だった。




