07
最近は、君と話すたび、君は泣いている気がした。今までずっと目を背け続けてきたのだから仕方ない、と君は言うかも知れないけど、本当にそうなのかな?
世の中には抑えきれない感情なんていうものは、星の数ほど存在するんだろう。抑え続けてきた感情が爆発するなんて、どこでも起こっていることなのかも知れない。でも、人を『好き』になる感情は、人を傷付けるものでしかないのかな?……最近の君と話していると、疑問に思うよ。
――この時の僕は、まだ君の近くに居なかったから。どれだけ傷付いていたのか、どんなに苦しんでいたのか、悩むたびに心締めつけられていたということさえ、僕は、知らなかった。
ただね、君の近くにいて、君を愛してしまった幼馴染くん達が悪いわけでもないし、その想いから目を背けてきた君が悪いわけでも、ないと思うんだ。
『好き』って気持ちを、言葉で表現するのは難しくて、僕も、多分君も、この頃は、きっと理解出来ていなかったんだ。理解出来ていないから、心はもちろん、頭さえも付いていけずに、ただ、流されていく。
流されてはいけないと思っても、あまりに強い感情だから、それに逆らうことすら出来なかった。
思うんだ。――僕が、もっと君の力になれていたのなら、君……凛は、涙を流さずに済んだのかな、って。
告白を受け、翔にキスをされてから数日の間。まともに翔や優羽と顔を合わせることすら出来なかった。そんな凛の姿を翔はどこか満足げに、優羽は問い掛けることもしなかったことに、疑問に思うことすら気付かないほど、離れているということに気付いてはいなかったのだ。
避ける日々が続いたのだが、凛の携帯には一通のメールが来ていた。明日の休日、一緒に出掛けよう、という翔からの誘いだ。この事を優羽に告げるべきかどうか一瞬迷ったものの、結局は告げることが出来ずに朝が来てしまう。
最近は、良く眠れない日が続くので凛は起き上がると軽くメイクをしてから、極々普通の服に着替えてから階段を下りていく。
「あら、凛。出掛けるの?」
「うん……。ちょっと、翔と、出掛けてくるよ」
「優羽くんは一緒じゃないの?」
「……うん」
「そう……。楽しんできてね」
下に降りてきたことに気付いたのだろう、母はそう問い掛けてくると凛は誤魔化すのもおかしいだろうと思い、答えると母は極々普通に疑問に思ったのか僅かに首を傾げて聞いてくる。
名前が出て来て言葉を詰まらせるものの、凛は少しだけ間を空けて頷くと母はそれ以上は何も聞かずに微笑みながら気付かうように声を掛けた。
何も聞いてこない母に心の中で感謝しながらも、こくりと頷いて靴を履き、外へと出る。外へと出た時に見えたのは、いつもと変わらぬ格好をして、いつもより、どこか嬉しそうな笑顔を浮かべている翔の姿。当たり前かのように、そこに優羽の姿はなかった。
あったら、あったでどう接していいか分からないから、複雑な、言葉では表すことが出来ない想いが凛の心の中を渦巻く。
「凛!」
「……翔」
「今日はさ、とりあえず楽しもうぜ? というか楽しくさせてやるから!」
凛の姿を視界にいれた翔は、嬉しそうに微笑みながら手を振りつつ、名前を呼ぶ。それには応えてくれた凛ではあったが、やはりどこか、気まずそうな、どこかよそよそしい態度になっているのだが、翔はそれに気付くことすらなく、明るく笑いながら凛の手を取って引っ張っていく。
引っ張られた凛は、ただ、引っ張られるままに歩きながらほんの少しだけ、通り過ぎる優羽の家へと目を向ける。優羽の部屋がある二階までは、目を向けることは、出来なかったが。
――今日、彼は、何をしているんだろう?
ほんの少し前ならば、休日はいつも三人で過ごしていたのに。時には出掛けたり、時にはそれぞれの家で他愛のない話で笑い合ったり。三人で過ごすから、楽しかった。三人で笑い合えたから、幸せだった。それは、自分だけの思いでしかなかったのだろうか。
凛は僅かに俯きながら、少し前で手を強く握って歩いている翔に視線を向ける。今は何を考えているのかすらも分からない幼馴染は、知らない男の人にも見えて、ほんの少し怖かった。
そんな事を口に出来るはずもなく、翔に声を掛けられると凛は慌てて返事をする。
(……凛)
悩んでいるのは見て取れた。笑顔を浮かべることすら、出来なくなっている。それは自分達の所為だということに、果たして、彼女と今一緒にいる彼は気付いているのだろうか。
(翔……。……もう、お前の中に、俺は居ないのか……?)
優羽は二階の自分の部屋の窓から、歩き去っていく二人の姿を見つめながらぎゅっと手を握り締め、どこか苦しげな表情を浮かべていた。
初めてとも言える翔とのデートは、一応は楽しい、と言えるものだった、と凛は思った。翔は翔なりに一生懸命考えてくれたのだろうし、楽しませようとしてくれている気持ちは嫌というほど伝わってきたからだ。
――それでも。
それでも、やはり、「二人」というのに違和感を感じずにはいられなかった。デートの帰り、凛は僅かに俯きながら手を引っ張ってくれている翔の事を考える。
好きと告げてくれた。昔からずっと好きだった、と。抱き締められ、口付けられ、そうした中でどんどんと自分の中での翔という存在が、知らない誰かに変わっていっているようだった。そんなことはないと分かっているのに。
翔は、自分達の中でも人一倍明るくて、一直線で、自分に素直で。感情表現も豊かだから、何を考えているのかすぐに分かってしまう。思った事を口にしてしまうから敵も作り易いけど、人に好かれやすい。そんな翔を好きだと思うし、優羽も憧れるし、好きだと言っていた。
誰よりも知っているつもりで、誰よりも知らなかったのだろうか。翔のことも、優羽のことでさえも。自分に都合の悪いことから目を背けて、気付こうとすれば気付けただろう気持ちから逃げて。変わらぬ関係だけを、望み続けた。
そんなこと出来るはずもないということを、本当は知っていたのに。
「凛?」
「あ……、何?」
手を繋いだまま、少し前を歩いていた翔は凛の歩みが遅くなったことに気付いて声を掛ける。声を掛けられた凛は、はっとした表情で慌てて顔を上げて僅かに首を傾げる。
そんな凛の顔をじっと見ながら、翔は自分の胸がざわめいている事に気付いた。最近はずっと、どこか困ったような、悩んでいるような、沈んだ表情ばかりの凛。
今日、一日一緒で、自分は楽しかったし、幸せだった。凛も楽しいとは思ってくれていたのだろうと思うけれど、その表情に笑顔は、あっただろうか。ほんの少し前まで浮かべていた、自分や彼に、見せていた笑顔を。
悩ませていることを知っている。傷付けたのだろうことも分かっている。それでも、伝えてしまった想いを隠すことなんて出来ないし、抑えることなんて出来るはずもなかった。
だから、翔はほぼ衝動的に繋いでいた手を強く引っ張って、凛を自分の方へと引き寄せ、強く抱き締める。
「きゃっ……!?」
「凛っ……! オレじゃ、ダメなのか!? 他に好きな奴がいるとか、オレの事が嫌いになったとか、そうなのか……!?」
「か、ける……」
「なぁ、オレを、選んでくれよ。今すぐ、ここで」
「!?」
いきなり、引っ張られて抱き寄せられた凛は驚いた声を上げつつ、そんな凛を気にする余裕もないかのように翔は抱きしめる腕を強めながら訴えるように言葉を紡ぐ。
嫌いじゃないのなら。他に好きな男がいないというのなら。――今すぐにでも自分を選んで欲しい。自分だけのモノになって欲しい。
ほんの少しでも好きだと思ってくれているのなら、自分を。好きな男がいると凛の口から言われた日には、自分でも何をするか、分からないけれど。
言われたくないから、今、ここで選んで欲しかった。自分だけのモノにしてしまいたかった。誰の目にも触れずに、誰の手にも触れさせずに、自分だけのモノにしたい。そうすれば、もう、不安になることも胸が痛むことも、なくなる。
――凛さえ傍に居てくれたら、それで良い。
そう、彼女さえ傍に居てくれるのならば、他に何も、いらない。翔はそう思った時、胸に僅かな痛みが感じ、ほぼ無意識の内に抱きしめていた腕の力を弱めてしまった。それを見逃さなかった凛は、反射的に翔の腕から逃れて、顔を見せないようにすぐに背を向けて走り出す。
「凛!」
走り出した凛を、呼びとめるように翔は名前を呼んだが、その声に止まることはなく、凛の姿は途端に見えなくなってしまう。
逃げられたのだということが分かると、大きな溜息を一つだけ吐き、壁に寄り掛かるようにするとくしゃっと髪を掻きあげる。
先程感じた胸の痛みは、何だっただろう。大切な何かを、見落としてしまっているような、そんな気がした。凛以上に大切なものなど、自分にはないはずだと、いうのに。
それでも、心は何かを訴えかけるかのように、僅かに感じただけの胸の痛みはどんどんと激しさを増していた。痛む胸を翔は手で押さえながら、ゆっくりと空を見上げた。
――いつもと変わらず、どこか寂しげな夕空が、そこにあった。
「はぁ……っ、はぁ……」
全速力で逃げるように走った凛は、肩で息をしながらも家へと着き、不思議そうな母の言葉に応えることも出来ずにそのまま、二階へと駆けのぼり、自分の部屋に入るとベッドに飛び込んだ。
翔が、知らない男の人だと、思った。何を考えているのか、何をしたいのか、何を望んでいるのか、分かっていたことでさえも分からなくなってしまっていた。それが分かると、目頭が熱くなる。
気持ちが、定まらなかった。もう後戻りは出来ないことは嫌というほど思い知っているし、選ばなくてはいけないのだ。あの二人のどちらかを、選ばないといけない時が、近付いているのだ。
ずっと、一緒だった。ずっと、傍に居てくれた。当たり前のように隣にいてくれて、当たり前のように笑顔を向けてくれた。楽しさも、嬉しさも、幸せも。時には寂しさも、悲しさも、辛さも、苦しさも。三人で分け合ってきたあの頃は、もう、戻ってこないのだ。
自分だけが、小さな少女のままだった。幼い少女の心のまま、時が止まっていた。それはほぼ無意識の内――否、本当は意識して成長させなかったのかも知れない。
変わる外見に、ついていかない心。それを、分かってくれているのだと、甘えていた。大人になるということを、拒否をしたのだ。幼い子供のままでいることを、選んだ自分を、あの二人は、それこそ、自然に受け止めてくれていた。
我儘な自分に付き合ってくれていたのだ。それを思い知らされて、凛は既に目に溜まっていた涙を零した時だったろうか、不意に携帯が視界に入って無意識の内にそれを取る。
誰かに頼ることも、甘えなのかもしれないけれど一人ではどうにかなってしまいそうで。凛は携帯を開くと、たった一人、相談出来る相手の番号を表示すると、通話ボタンを押す。一回、二回、着信音がやけに長く感じたが、丁度、二回目の着信音が鳴り終わった時に繋がる音がした。
『はい、もしもし?』
「恭一……?」
『凛? 丁度良かった。そっちに行く日が大体決まってきたからそれを教えようと……凛?』
聞こえて来る声は、聞き慣れた人の声。逢った事はないけれど、相談に乗ってくれる人。もう頼れる人が恭一しかいなかった事に痛みを感じながら、ぽろぽろと止め処ない涙を流す。
最近はずっと、恭一と話す時は泣いてる気がする。彼が悪い訳でもない。ましてや、あの二人が悪い訳でもない。悪いのは全部自分だということは分かっているけれど、分かっていても涙が溢れてくる。それ以外に、渦巻く感情をどうにも出来なくて。
悲しいのか、苦しいのか、寂しいのか。今の自分に当てはまるのがどれなのかさえも分からなかった。分からなくても涙は溢れてくるのだ。頭が理解できていなくても、心が理解してしまっているから。
『凛……。僕がそっちに行って何が出来るかは分からないけれど、近い内に必ず逢いに行くから。……それまで、一人で頑張れる……?』
「……大丈夫……。こうして、話してくれるだけでも、少し楽に、なるから」
『話を聞くぐらいなら、いつだって構わないよ。僕で良ければいつだって話し相手になるし……。力になれる事があったらいつでも言ってね』
涙を流したまま、受け答えをする凛の声を聞きながら恭一はゆっくりと言葉を紡ぐ。自分と話すことで楽になれるというのであればいつだって話してあげたいと思う。ずっと傷付け続けている彼女の為に遠く離れた場所にいる自分が力になれる事など、ほんの少ししかないのだろうけれど。
――ほんの少しの事でもいいから、力になりたい。
自分と彼女の関係は、ほんの僅かなことで切れてしまうような細い関係なのかも知れないけれど。それでも出逢えたのだから、こうして話を出来るのだから何か出来ることをしてあげたい。
そう思うからこそ、恭一はただ、泣いている凛に優しく声を掛け続けた。
『それでさー……』
優羽は今、翔から電話があったので話している所だった。話している内容は今日のデートの報告であったのだが、話している翔の声は楽しそうに弾んでいる。好きな子と二人で出掛けられたのだから、嬉しかったのだろういうことは分かるが優羽は沈んでいく気持ちを抑えられずにいた。
そんな自分に、今の彼は、気付くことすらしないのだろうと思う。今であれば、自分という存在が傍に居なくなったとしても気に留めないのではないのだろうかとさえ、思ってしまう。
長い付き合いだから、翔がどういう性格なのかは本人よりも知っているつもりだ。つもりなだけで、本当は何も知らなかったのかと、思い知らされてしまう。例え、自分の中で彼と言う存在が大きくあったとしても、彼の中で自分という存在が大きいとは、限らないのだ。
『おい、優羽? 聞いてるのかー?』
「ああ……」
『まぁ、いいけど! これからどうすればいいかなーって思ってさ。凛を手に入れるために何をすれば良いんだろうな』
「……」
凛。この名前が出た時、自分の表情はどのようになっているのだろうか。翔の話では、逃げたらしいが彼女は今も尚、追い詰められているのだろうか。翔と、そして自分の所為で。
それでももう、後には戻れない所まで来てしまったのだ。翔の中には自分という存在はどんどんと薄れつつあり、自分の中でももう、どちらを選ぶかは決まっている。
ほとんど翔の話を聞き流していた優羽は、一言二言告げて電話を切るとそのままの状態で、携帯を操作してある番号へと電話を掛ける。
(凛……)
――すまないと謝りたい。好きだと伝えたい。幸せになってくれと、言いたい。
いつまでも傍に居たいと思うし、出来るのであれば翔とも元のような関係で居たい。でも、それはただの我儘なのだという事は誰よりも分かっている。分かっているからこそ、選ばなくてはいけないのだ。
それが、結果的に、凛を傷付けるとしても。