03
聞きたくなかった。いつまでも、と願いながら、壊れる「いつか」が来ることは分かっていた。分かっていたけど、それでも「いつまでも」と願っていた。
幼い頃から一緒に居てくれたから。それこそ、当たり前のように一緒に居てくれたから。三人で居るのが″当たり前″で、これから先の未来もその″当たり前″が続けばいいと、思ってた。心から、望んでた。そう私が望むことで、誰かを傷付ける結果になっていたことに、私は馬鹿みたいに気付けなかった。
たまに考えることがある。
もしも、私が「男」だったら、って。変わらぬ関係で、変わらぬ友情を築いていけたのかなって。馬鹿みたいなことで笑って、二人に好きな人が出来たり、恋人が出来たりしたら、からかったり、祝福したりして。
そんな毎日を、過ごせたのかなって。
時はあまりに残酷で、人を変えていく。人の気持ちすら、変えていく。「変わらぬもの」だとありはしないのだと、現実を見せ付けるかのように。
おかしな雰囲気に包まれていた翔と優羽に詳しい話は聞けず、結局、あの寄り道はあのまま、家へと帰る事になった。その帰り道はいつもよりは口数は少なかった。それでも会話が途切れなかったのは、自分に何かを悟らせない為なのだろうか、と不意に考えた。
家へと帰り、夕飯も済ませた凛は自室へと戻り、クッションを抱き締めながらパソコンの前に座る。翔と優羽に内緒、という訳ではないがここ何ヶ月かの間、このネットの中で一人の人との出逢いを果たしていた。
名前は、「マスカ」。自分は「ちょこ」と名乗って、互いの身近な話をしながら、専ら相談をしている相手だ。二人の雰囲気が気になった事もあり、相談したいと思い、いつもより早い時間にいつも使っているチャットルームへと入る。
そこに入れるのは自分とマスカだけなので、後は入って来てくれるのを待つだけだ。その待つ時間を長く感じながら、凛はクッションに顔を埋める。
大学構内では、自分と翔、そして優羽は注目の的だ。その一つに二人が女子からの人気が高いことも含まれているのかも知れないが、不意に考える。
二人に、恋人が出来たら、この関係を続けることは出来ないのだろうか、と。――それは、嫌だ。幸せを願いたいけど、この関係がなくなるのは、嫌だった。そんな気持ちを分かってくれているのか、翔も優羽も今まで一度も好きな人の話などはした事はなかった。告白をされていた、という噂は聞くがその全てを断っていると人伝で聞いた事がある。
そう聞く度に何度も安堵の息を漏らした。
分かってる。これ以上、自分の我儘に付き合わせてはいけないということも。いい加減、二人を解放してあげなければいけないということも。
それでも、嫌なのだ。――幼き頃から変わらぬ関係で居られる、三人でいられる時間が自分にとっては何よりも至福の時間だから。
その幸せの時間を奪わないで欲しい、と思ってしまう。凛は自分が我儘過ぎると自嘲気味の笑みを零すとふとチャットルームに誰かが入って来た音が鳴る。はっとしたように顔を上げるとそこには「マスカが入室しました」の文字。
ネットの中で知り合った中では彼だけに唯一、携帯のアドレスと電話番号を教えていた。だから連絡を取ろうとすればいつでも取れるのだが、専ら話すのはこのチャットルームだった。
『こんばんは。ちょこ、今日は早いんだね』
『うん……。ちょっと、相談したいことがあって』
『そうだったんだ。どうしたの?』
いつものように挨拶をする文字と一緒に、時間帯を見て気付いたことを言ってくる。凛はキーボードを打って早く入った理由を告げると、マスカは納得したように言葉を返しながら、続きを促すように言う。
聞いてくれる、ということにほっと安堵の息を漏らしながら相談内容を打ち込もうとした時だったろうか。下から母の呼ぶ声が聞こえる。
「凛ー! お客様よ、翔くん!」
「……え?」
打ち込んでいた文字を止めて、母から告げられた言葉に驚いたように時計を見てしまう。こんな時間帯に翔が来るのは珍しい。稀にお酒が飲める年になったから、飲みに行く事もあるが、翔一人だけというのは珍しかったのだ。
凛はどうしよう、と悩みはするも「今行く」と母に聞こえるような声で返しながら打ち込んでいた文字を消して慌てて言葉を打ち込む。
『マスカ、ごめん。ちょっと出掛けなきゃいけなくなって……、後で電話かメール、してもいい?』
『いいよ。夜も遅いし、気を付けてね』
特に深い理由も聞かずに居てくれた事に感謝しつつ、返事を見てからチャットルームから出てパソコンの電源を落とす。携帯は持っていくべきだろうか、と思いはするも長引かないだろうという事を思えば階段を下りていく。
玄関にいたのは翔一人で、そういう姿を見るのも、珍しい気がした。凛は階段を下りて翔の目の前まで行くと僅かに首を傾げる。
「どうしたの?」
「いや、ちょっと話がしたくてさ……。外、出れるか?」
「うん……。お母さん、ちょっと出掛けてくるね」
「翔くんが居るから大丈夫だと思うけど、気を付けて行ってくるのよ」
「はーい」
先に外へと出た翔を見ながら、母に一言かけると靴を履いて外に出る。外に出ると、ほんの僅かに肌寒い気がして凛は自分を抱き締める。それに気付いた翔は自分が着ていた上着のジャケットを凛にかけてやる。
「あ……、いいの?」
「ああ。オレが急に来たんだし、別段寒い訳でもねぇから」
「ありがとう」
掛けられると少し驚いた表情をした凛であったが、翔を見ながら首を傾げて問い掛けるといつも通りに笑顔を浮かべながら頷くと凛は嬉しそうに微笑む。それを見た翔は照れ臭かったのか僅かに顔を赤く染めて顔を逸らすとゆっくりと歩き出す。
少しだけ躊躇いはするも、こんな時間に話があるというのだから大事な話なんだろう、と思うと凛も掛けて貰った上着で身を包みながら翔の後を着いていくように歩く。
歩いている間は特に会話もなく、歩いていたのだが家から少し離れた場所だったろうか。不意に翔が足を止めたので凛もそれに釣られるように足を止める。
「なぁ、凛」
「うん?」
「………。お前がさ、今の三人の関係を望んでるのは知ってる」
「………うん」
振り向くことはせずに翔が声を掛けると、次に発した声は真剣味を帯びているのに気付いた凛は顔を俯かせながら一言だけ返事をする。
付き合いが長い二人だから言わずに分かってくれる。それは自分自身の我儘だという事は知っているけれど、それでも望まずにはいられなかったのだ。幼き頃から当たり前のようにある日常を、当たり前のようにこれからも過ごしていたかった。
どう言えばいいのか分からなかった凛はぎゅっと手を握り締めていたのだが、次の瞬間。ふわり、と何か暖かなものに身体全体が包まれたのが分かり、分かった瞬間に自分が今、翔に抱き締められている事を理解して、身体を硬直させる。
「好きだ」
「……え……」
「好きなんだよ、凛が。ずっと、ずっと前から……お前だけを見てきた。お前以外は要らない」
「かけ、る……?」
「……困らせるのも分かってるし、お前の望みを壊すことになるのも分かってる。でも、オレはもう限界なんだよ! オレだけを見て欲しい。――オレだけの、モノになって欲しい」
身体を硬直させた凛に気付いた翔であったものの、溢れ続ける想いを堪えられなくなったかのように躊躇う凛の声を遮り、自分の気持ちを口に出す。
――凛の幸せを願うのであれば、この言葉を口に出すべきじゃなかった事は分かる。
それでも、時は残酷にも人を変え、抑えようとする想いの枷を簡単にも解き放ってしまう。凛はどんどんと女性らしい身体になって行く。それを、周りの男達が気付かないはずが、ないのだ。
気持ちを伝えなければ今のままの関係を維持できる。だけれど、それが指すのはいつか、凛が他の男の隣で笑い、その男に触れられるという事だ。自分以外の男のモノになるという事。
それだけは、我慢できなかった。それを考えると想いを抑え続ける事など出来るはずもなかった。――限界だった。幼き頃の関係を続けるのには、もう、限界だったのだ。
ほんの少しだけ掠めたのは、もう一人の幼馴染の姿。彼がこの事を知れば、今まで通りの関係を続ける事は難しくなるだろうか。そうなると思うと胸が痛むのを感じるけれど、もう口に出してしまった想いを翻すつもりは全くなかった。
伝えた手前、もう我慢するつもりはなかった。必ず、自分のモノにして見せると心に誓うと翔は凛を抱きしめる力を強める。
強められた事が分かると、凛は冗談で翔が想いを伝えてきたのではないのだという事を知る。でも、それは、今までの関係が崩れ去るという事を意味している。
「か、ける……」
名前を呼び、何かを言おうとするが、その言おうとする言葉が思い付かなくて結局凛は口を閉じてしまう。翔が我慢し続けてきてくれたのは、自分の望みの為だった。
自分が望んでいたから、どれだけ苦しくても耐えてくれたのだ。それをなかった事になど、出来るはずはないのだ。だからと言ってここで断れば、翔は今まで通りに自分の傍に居てくれるだろうか。――それはない。
だからと言って承諾をしたとして、優羽はどうなるだろう。一緒にいてくれるのだろうか。
どちらを選んだとしても今までの関係が、元通りになる事は、もうないのだ。それは分かる。でも自分の中の気持ちはどこに向かっているのかさえも分からない。断ることも、受け入れることも出来ない。
どうしたらいいのか分からなくなった凛はぎゅっと目を閉じて、泣きそうになるのを耐える。だけれど、震える身体を抑える事は出来なかったために、抱き締めていた翔は凛が泣きそうになるぐらい、困っている事が分かるとそっと離す。
「急だもんな……、返事はいつでもいいから。――でも、オレが伝えた言葉は全部本当だから、それだけは覚えててくれ」
送るよ、と真剣な眼差しで告げてきた翔は最後にそう付け加えると、歩いてきた道を戻るように歩き出す。凛は俯いたまま頷く事しか出来ずに、前を歩く翔に着いて行く事しか出来なかった。
帰り道の沈黙は、来る時の沈黙とはどこか違って気まずい。話し掛けようとする雰囲気もあるけど、それが声になって出てくる事はなかった。
結局、家に着くまで無言のまま、翔は何か言おうとするが凛はそれを遮るように借りていた上着を翔に押し付けるように返すと、逃げるように家の中へと入って行く。その姿を見て翔は僅かに傷付いた表情を浮かべるが、返された上着をぎゅっと抱え込む。
(……もう、後には引けない)
――それは凛にも分かっているはずだ。もう、今までの関係を続けるのは不可能なのだ、という事が。
それでも何も知らない優羽は明日も同じように過ごすはずだから、出来る限りは同じように過ごさなければいけない。考えるように上を見上げていた翔であったが、いつまでも外に居る訳にはいかなかったので自分の家へと翔は帰って行く。
逃げるように家に入った凛は、母の呼び掛ける声には応えず、そのまま、部屋へと駆けこんでベッドに飛び込む。
(分かってる。……本当は、分かってた。大人になっていく中で、幼い頃の関係のままではいられないって本当は気付いてた。でも……、それでも……っ!)
それでも、望んだ。翔がいて、優羽がいて、自分がいる。そんな当たり前の日常が続くことを、心から望んでいた。叶わぬ望みと知りながらも、望んだ。そうすれば、続けられるとどこかで信じていたからだ。
翔と優羽がその所為で様々なことを犠牲にしたかも知れない。それでも自分の望みを叶えてくれていたから、本当に嬉しかった。いつも感謝していた。
『好きだ』
翔が真剣な声で、告げた言葉を思い出す。自分を包み込むように抱き締めた温もりを、思い出す。それは幼き頃から変わらないと思っていたけれど、変わっていたのだ。
自分は『女』で、翔は『男』。幼き頃は意識しなかった性別さえ、今では意識せざるを得なかった。同性の幼馴染だったら良かったのに。そうすればこんな事にはならなかったかも知れないのに。
凛は自分自身を責めるように心で文句を呟けば、頬を伝って涙が零れ落ちる。
――泣く資格なんて、ないのに。現実から目を背け続けてきた自分への罰なのに。
翔の気持ちは嬉しいと思う。思うけれど、彼が自分に言う「好き」と自分が彼に持つ「好き」では意味が違う。自分の中の「好き」は翔に対しても、優羽に対しても持っている。幼馴染への「好き」。恋愛というよりは家族愛に近い感じだ。
だけど、翔が自分に対して告げてきた「好き」は、明らかに異性としての自分に向けてきた恋愛の「好き」。あえて今まで目を向けてこなかった、感情だった。
溢れ続ける涙を抑えようとはせずに、凛は枕に顔を埋めたが、不意に携帯が鳴る。びくり、と身体が震えたがこの着信の音楽は、優羽ではなく、ましてや翔でもない。縋るように携帯を手に取ると、通話ボタンを押す。
『……もしもし? 君からするって言ってたけど、ちょっと気になってこっちからかけてみたんだけど。……ちょこ?』
「マス、カ……」
『泣いてるの……? 何か、あった?』
電話の向こうから聞こえてきた声は、チャットで良く話すマスカの声で。それはいつも話す声と変わらなかった事に安心して、溢れていた涙を更に増やしながら掠れた声で名前を呼べば、マスカはすぐに気付いたように聞くと、躊躇いがちに促すように言う。
凛は自分一人では解決できそうにはなかったので、マスカの言葉に促されるままに先程のことを包み隠さずに話す。掠れた声で時々止まってしまったが、それでも最後まで聞いていたマスカは考えるように少しの間、口を閉じる。
良く話は聞いていたのだ。いつも一緒にいる幼馴染の話を。幼き頃から変わらぬ関係のままで居る事も聞いていた。それを聞きながら、あまりにも脆い関係だということを、マスカは気付いていた。
幼馴染であろうが、結局は男女であるのだから恋愛感情を抱かない方がおかしい。特に幼馴染の二人は彼女を大切に思っているのが聞いているだけで分かったのだから、それが『幼馴染』だからという理由だけでは収まらないような気がしていたのだ。
世の中には近くに居過ぎてそういう関係には見れないという人もいるかも知れないが、逆に近くに居て何もかもを知っているからこそ、好きになってしまう事だってある。いつかは崩れてしまう関係だという事は気付いていたが、あえてそれを言う事はしなかった。
話を聞いているだけの自分が何か言うべき事ではないと思っていたからだ。だけれど、どちらにしろ、彼女は現実を目の当たりにして、涙を流している。
そんな彼女に自分が何が出来るというのだろうか。少しだけ考えはするも、ゆっくりと口を開く。
『ちょこ。……返事はいつでも良いって、彼は言ってたんでしょう?』
「……うん」
『だったら、ゆっくりと整理するといいよ。「好き」の気持ちをきちんと受け止めた上で、返事をしないと彼にも失礼だから』
「うん……」
『……僕はいつでも君の味方だから。一人でどうしようもなくなった時とか、誰かに話を聞いて欲しい時とか、いつでも電話とかメールしてきていいから。――いつでも、頼ってね』
「ありがとう……、マスカ」
大分落ち着いてきたのか、マスカからの言葉を嬉しく思った凛はお礼の言葉を言うと、一言二言言って通話を切る。
様々なことでぐちゃぐちゃになっていた頭の中も先程よりは大分良くなったが、それでも涙が止まる事はなかった。自分の気持ち、翔の気持ち、様々な気持ちが交差する。
――でも、優羽はこの事は知らないのだから、いつも通りに接しなければいけない。今までの関係のままではいられないのは分かるけど、それでもまだ、続けたいと思う気持ちはあるのだ。
そんな自分に、「馬鹿…」と自嘲気味の呟きを、凛はぽつりと漏らした。