海がただの水になった日〜世界から塩が消失していく静かな終末〜
井戸の水が甘くなった。
朝、顔を洗ったときに気づいた。唇に触れた水に、いつもの硬さがない。手桶の底に白い粉が溜まっているはずだった。何もない。底の木目がそのまま見えている。
隣の家の岸野が、同じ井戸から水を汲んでいた。桶を覗き込み、一度だけ首を傾げる。それから何も言わず、桶を担いで戻っていった。
台所で塩壺の蓋を開けた。昨日まで半分あった塩が、壺の底にうっすらと残るだけになっている。湿気たわけではない。固まってもいない。量が減っている。それ以外は何も変わらない。妻の幸枝が棚から壺を下ろし、手のひらに残りを出した。指先で擦り、舌に乗せた。
「薄い」
それだけ言って、壺を棚に戻した。
昼に干物を焼いた。鯵の開き。三日前に塩をして干したものだ。箸で身をほぐして口に入れると、焼けた身の甘さがあるだけだった。塩の気配がどこにもない。干したときには確かに振った。幸枝が両面にまんべんなく押し込むのを、自分で見ていた。
幸枝は干物を一切れ食べ、もう一切れ食べた。何も言わなかった。
午後、魚屋の片桐が店を早じまいした。いつもは夕方まで開けている。氷の上に鰤が三本、鯖が束になって残っている。片桐はそれらに目もくれず、板戸を引いた。
通りに出ると、豆腐屋の桶から水が溢れていた。いつもより多く水を使っている。店主の安田が、豆腐を水にさらしながら、何度も味を見ていた。小さな匙で掬い、口に運び、首を振る。掬い、口に運び、首を振る。匙を持つ手が、少しずつ遅くなっていく。
角を曲がると、味噌屋の前に人が三人立っていた。誰も話していない。味噌屋の戸は閉まっていた。のれんも出ていない。三人はしばらく立っていて、やがて一人が去り、もう一人が去った。最後の一人は、閉まった戸の前でしゃがみ込み、地面に指で線を引いていた。まっすぐな線が三本、土の上に並んでいる。
夕方になって、漁師の根本が浜から上がってきた。網を担いでいない。手ぶら。長靴が通った地面に、濡れた跡がない。根本は誰とも目を合わせずに通りを歩き、自分の家の前を通り過ぎ、そのまま山の方へ歩いていった。
夜、幸枝が夕飯の支度をした。大根の煮物、焼いた厚揚げ、白米。食卓に並んだものを見て、足りないものが分かった。醤油の色が薄い。幸枝はいつも通りの量を入れたはずだった。鍋の中の煮汁が透き通っている。
黙って食べた。大根は甘かった。厚揚げは大豆の味がした。それ以上の味がしない。米は米の味がした。箸が止まる。もう一口、大根を運ぶ。噛む。飲み込む。茶碗を置いた。
食後、幸枝が漬物樽の蓋を開けた。白菜を漬けて四日になる。蓋を取った瞬間、二人とも動かなかった。樽の中で白菜がそのまま残っている。漬かっていない。塩を振って重石を乗せた白菜が、生のまま水に浸かっている。発酵の匂いがしない。白菜の青い匂いがそのまま残っている。
幸枝は蓋を戻した。重石を乗せ直した。
翌朝、隣の岸野が醤油の一升瓶を持って来た。
「味、見てくれんか」
岸野の妻が朝から三度煮直した味噌汁を、岸野は飲まずに出てきたらしい。一升瓶の蓋を開けて傾けると、薄い茶色の液体が出てきた。醤油の匂いはする。舌に乗せると、酸味と旨味の奥にあるはずの、あの芯がない。
岸野は瓶を受け取り、しばらく地面を見ていた。
「海、見たか」
見ていない、と答えた。
「行かんほうがいい」
岸野はそれだけ言って帰った。
行かんほうがいい、と言われれば行く。浜への道を下りながら、すれ違う人が誰もいないことに気づいた。いつもなら網の手入れをする男たちが防波堤に座っている。今日は防波堤だけがある。
波打ち際に立った。波が足元に来て、引いた。長靴の先が濡れる。しゃがんで指を浸し、舐めた。
水だった。
ただの水だった。生温く、少し砂の混じった水。二度舐めた。三度舐めた。指を深く浸して、掌で掬って口に含んだ。
水。
振り返ると、浜の上に根本が座っていた。昨日山へ向かったはずの根本が、いつの間にか戻っている。膝を抱えて海を見ていた。顔は見えない。
根本のそばに腰を下ろした。二人とも何も言わなかった。波の音だけが続いている。寄せて、返す。寄せて、返す。音は変わらない。
しばらくして、根本が口を開いた。
「沖はまだ辛い」
どこまで行った、と聞いた。
「舟で二時間。そこからは、まだ海だった」
根本はそれだけ言って、また黙った。
二時間の境目。聞きたいことはあった。聞かなかった。根本も言わなかった。
浜から戻ると、通りに子供たちがいた。三人の子供が地面にしゃがんで何かしている。近づくと、一人が掌を開いて見せた。小さな白い粒が五つ、六つ。
「裏山の岩んとこにあった」
塩だった。岩の隙間に吹き出た結晶。子供たちはそれを見せ合っていた。一粒を指先でつまみ、舌に乗せた子供が目を丸くする。口を開けたまま、隣の子供の顔を見た。
家に戻ると、幸枝が庭に出ていた。梅干しの甕の前にしゃがんでいる。
「浮いてきた」
幸枝の声は平らだった。覗き込むと、梅干しが膨らんでいた。赤い色は残っている。紫蘇の色だけが残っている。だが皺が消え、実が丸みを取り戻している。
三年漬けた梅だった。
幸枝は甕の蓋を静かに閉じた。立ち上がり、エプロンで手を拭く。台所に入り、棚から砂糖の袋を出した。砂糖はまだ甘い。指先につけて確かめた。甘かった。
夜、布団に入ってから天井を見ていた。隣で幸枝の呼吸が続いている。
台所の奥で、漬物樽の重石がずれる音。小さな音だった。
明日の朝、井戸の水を汲む。桶に口をつける。舌が何を感じるか。
幸枝が寝返りを打った。髪から味噌汁の匂いがした。今日の夕飯の匂い。薄い匂いだった。
目を閉じた。
波の音が遠くから届いている。寄せて、返す。寄せて、返す。海ではなくなった水が、同じ音で、砂浜を洗っている。




