表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

【短編版】合鍵 —— 僕は年上彼女の下着を見てるんじゃない(初版)

作者: 糊月
掲載日:2026/03/28

2026.4.18 「第二版」として改稿しました

2026.4.23 エピソードを分割して、短編から連載へ変更しました

2026.4.24 短編版を「初版」に戻しました

彼女の部屋は、僕がいないときのほうが似合っている気がする。


六月の終わり、梅雨が長引いていて、夜になっても空気が湿っていた。大学の帰りにそのまま寄って、先にもらっていた合鍵で入った。冷蔵庫の水を飲んで、勝手にエアコンをつけて、テーブルの上にあった文庫本を開いたけれど、ほとんど読んでいなかった。閉じて、元の場所に戻した。


狭くはないけれど広すぎもしなくて、目に入るものの一つひとつに、そこに置かれる理由があるみたいに見えた。



七時すぎに鍵の音がした。


「いる?」


「いるよ」


ドアを開けた彼女は、白いシャツの袖を折ったまま、肩からバッグをずり落とした。玄関に揃えられたパンプスは黒いエナメルで、片方の踵に小さな傷がついていた。


「ごめん、ちょっと遅くなった」


「おつかれ」


「ほんとに疲れた」


そう言って笑って、髪をまとめていたゴムを外す。腕を上げた拍子に、シャツの裾が引っ張られて、腰骨のラインが少しだけ覗いた。黒いウエストバンドに白い文字が見えた。


Calvin Klein。


一瞬だった。


なのに、やけに目に残った。


「何」


彼女が僕を見る。


「いや」


「今、見たでしょ」


「ちょっと」


「ちょっとならいいけど」


笑いながらそう言って、彼女はキッチンに向かった。僕はそのあとを半歩遅れてついていって、彼女が冷蔵庫から缶ビールを出すのを見ていた。


「飲む?」


「飲む」


僕が「明日大丈夫なの」と聞くと、彼女は缶を二本持って振り返った。


「一緒に飲みたい」


その言い方が、少し好きだった。


ソファに座って、適当な動画を流しながらビールを飲んだ。彼女は会社のことを少し話して、僕はゼミのことを少し話した。お互い半分くらいしか聞いていない感じで、でもそのくらいがちょうどよかった。


一缶飲み終わったころ、彼女が立ち上がってシャツのボタンを外しはじめた。指先がひとつめを外すと、鎖骨の線が見えた。


「え」


「何その反応」


「いや、急に」


「部屋着になるだけ」


「びっくりするから一応言って」


「毎回来るたび言うの?」


彼女はこちらをちらっと見て笑い、寝室のほうへ歩いていった。裸足の足音が、フローリングの上で小さく鳴る。少しして、黒いTシャツとグレーのスウェットで戻ってきた。さっきよりずっと家の中の人になっていて、仕事帰りの顔の緊張も少し抜けていた。


「何、そんな見る」


「別に」


「見るならもっと堂々と見れば」


「それはそれで嫌でしょ」


「まあね」


彼女は僕の隣に座って、膝を抱えるようにして足を引き寄せた。僕の膝に少し触れる。その距離に慣れたつもりで、たまにまだ慣れない。


「さっき」と僕は言った。


「ん?」


「カルバン・クライン、履いてた」


彼女は一拍置いてから、ふっと笑った。


「報告ありがとう」


「いや、似合うなと思って」


「下着に似合うとかある?」


「あるでしょ」


「そう?」


彼女は缶の縁に口をつけたまま、少しだけ首を傾げた。


「楽だよ、あれ」


「楽なんだ」


「うん。馴染む」


「へえ」


「何。欲しいの」


「いらないよ」


そう言うと、彼女は声を出して笑った。


「でも気になったんでしょ」


「まあ」


「正直だね」


僕は何も言えなかった。


気になった、は確かだった。でもその先は、まだ言葉にしたくなかった。



彼女はシャワーを浴びると言って立ち上がり、僕はキッチンでレトルトのスープを温めた。冷凍してあったごはんを温めて茶碗によそっていると、浴室からドライヤーの音が聞こえた。


こういう時間が、僕はわりと好きだった。


彼女がいなくても、彼女の部屋の中では彼女の気配が続いている。洗剤の匂いとか、たたみかけの洗濯物とか、机の端に置かれた社員証とか。僕の知らない時間が、全部片づけられずにそのまま残っている感じがする。


シャワーを終えた彼女は、まだ毛先の湿った髪のままテーブルについた。


「ありがとう」


「雑でごめん」


「いいよ。こういうので」

「いただきます」


彼女はスープをひと口飲んで、「おいしいね」と微笑んだ。


確かに、おいしかった。


食べ終えて、彼女はマグカップを流しに置いたあと、明日着るらしいブラウスをクローゼットから出して、ハンガーにかけた。皺を手でのばして、椅子の背にかける。


「ちゃんとしてるね」と僕が言うと、彼女は背中を向けたまま笑った。


「ちゃんとしないと、明日の自分が困るから」


「俺、そういうのないかも」


「知ってる。前にそっち行ったとき、床にシャツ三枚落ちてたし」


「それは見なかったことにして」


「無理」


彼女は振り返って、「でも」と言った。


「そういうとこ、ちょっといいよね」


「適当ってこと?」


「適当とはちょっと違う」


彼女はそれ以上言わなかった。


僕もうまく返せなかった。彼女の部屋にいると、ときどき少しだけ気後れする。



彼女はベッドの端に座って、スマホのアラームをセットしていた。


うなじに、乾ききらない髪が何本か張りついている。その横顔を見ながら、僕はふと思った。この人の毎日の中に、たまたま僕がいる。そういう順番なのだということが、なぜか少しうれしかった。


「何」


また彼女が言う。


「いや」


「今日ずっとそれだね」


「見てただけ」


「見られてるのはわかる」


「嫌?」


彼女はスマホを置いて、少しだけ考えるみたいに僕を見た。


「嫌だったら合鍵渡してないよ」


その言い方は軽かったけれど、僕には少しだけ特別に聞こえた。


彼女が帰ってくる前の静かな時間も知っているし、仕事から戻って髪をほどくところも知っている。明日の服を用意して、眠る前に水を飲むところも知っている。そういうのを知っているのが、自分だけだとは思わない。けれど今は僕がここにいる。


そのことに、少し胸が鳴った。


彼女がふいに静かな声で言った。


「そんなに気になるなら、今度ちゃんと見せようか」


「え?」


「カルバン・クライン」


僕はしばらく黙った。


彼女はそれを見て、おかしそうに笑った。


「冗談」


「別に」と僕は言った。「見たいとかじゃないし」


「じゃあ何」


「なんか、似合ってたから」


「だから、下着に似合うって何」


彼女はそう言って笑ったあと、少しだけ声のトーンを落とした。


「好きなんだよね、これ」


そう言って、自分のTシャツの裾をつまんで少し持ち上げた。確かめるように、自分の腰のあたりを見る。黒いバンドが見えた。


「なんでだろうね」


彼女はそれだけ言って、裾を戻した。


彼女はもう僕のほうを見ていなかった。ベッドに入って、布団の中で肩まで潜り込む。


「電気、お願い」


「うん」


部屋を暗くすると、窓の外の街灯の明かりだけがカーテンに薄く映った。


僕も隣に入ると、彼女は少しだけこちらに背中を寄せてきた。眠いときだけ、そうする。


「おやすみ」


「おやすみ」


布団の中で、彼女の体温がかすかに伝わってくる。


暗い中で目が慣れるまで、僕はしばらく天井のほうを見ていた。


白い文字の並びが、まだ頭のどこかに残っている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ