【短編版】合鍵 —— 僕は年上彼女の下着を見てるんじゃない(初版)
2026.4.18 「第二版」として改稿しました
2026.4.23 エピソードを分割して、短編から連載へ変更しました
2026.4.24 短編版を「初版」に戻しました
彼女の部屋は、僕がいないときのほうが似合っている気がする。
六月の終わり、梅雨が長引いていて、夜になっても空気が湿っていた。大学の帰りにそのまま寄って、先にもらっていた合鍵で入った。冷蔵庫の水を飲んで、勝手にエアコンをつけて、テーブルの上にあった文庫本を開いたけれど、ほとんど読んでいなかった。閉じて、元の場所に戻した。
狭くはないけれど広すぎもしなくて、目に入るものの一つひとつに、そこに置かれる理由があるみたいに見えた。
七時すぎに鍵の音がした。
「いる?」
「いるよ」
ドアを開けた彼女は、白いシャツの袖を折ったまま、肩からバッグをずり落とした。玄関に揃えられたパンプスは黒いエナメルで、片方の踵に小さな傷がついていた。
「ごめん、ちょっと遅くなった」
「おつかれ」
「ほんとに疲れた」
そう言って笑って、髪をまとめていたゴムを外す。腕を上げた拍子に、シャツの裾が引っ張られて、腰骨のラインが少しだけ覗いた。黒いウエストバンドに白い文字が見えた。
Calvin Klein。
一瞬だった。
なのに、やけに目に残った。
「何」
彼女が僕を見る。
「いや」
「今、見たでしょ」
「ちょっと」
「ちょっとならいいけど」
笑いながらそう言って、彼女はキッチンに向かった。僕はそのあとを半歩遅れてついていって、彼女が冷蔵庫から缶ビールを出すのを見ていた。
「飲む?」
「飲む」
僕が「明日大丈夫なの」と聞くと、彼女は缶を二本持って振り返った。
「一緒に飲みたい」
その言い方が、少し好きだった。
ソファに座って、適当な動画を流しながらビールを飲んだ。彼女は会社のことを少し話して、僕はゼミのことを少し話した。お互い半分くらいしか聞いていない感じで、でもそのくらいがちょうどよかった。
一缶飲み終わったころ、彼女が立ち上がってシャツのボタンを外しはじめた。指先がひとつめを外すと、鎖骨の線が見えた。
「え」
「何その反応」
「いや、急に」
「部屋着になるだけ」
「びっくりするから一応言って」
「毎回来るたび言うの?」
彼女はこちらをちらっと見て笑い、寝室のほうへ歩いていった。裸足の足音が、フローリングの上で小さく鳴る。少しして、黒いTシャツとグレーのスウェットで戻ってきた。さっきよりずっと家の中の人になっていて、仕事帰りの顔の緊張も少し抜けていた。
「何、そんな見る」
「別に」
「見るならもっと堂々と見れば」
「それはそれで嫌でしょ」
「まあね」
彼女は僕の隣に座って、膝を抱えるようにして足を引き寄せた。僕の膝に少し触れる。その距離に慣れたつもりで、たまにまだ慣れない。
「さっき」と僕は言った。
「ん?」
「カルバン・クライン、履いてた」
彼女は一拍置いてから、ふっと笑った。
「報告ありがとう」
「いや、似合うなと思って」
「下着に似合うとかある?」
「あるでしょ」
「そう?」
彼女は缶の縁に口をつけたまま、少しだけ首を傾げた。
「楽だよ、あれ」
「楽なんだ」
「うん。馴染む」
「へえ」
「何。欲しいの」
「いらないよ」
そう言うと、彼女は声を出して笑った。
「でも気になったんでしょ」
「まあ」
「正直だね」
僕は何も言えなかった。
気になった、は確かだった。でもその先は、まだ言葉にしたくなかった。
彼女はシャワーを浴びると言って立ち上がり、僕はキッチンでレトルトのスープを温めた。冷凍してあったごはんを温めて茶碗によそっていると、浴室からドライヤーの音が聞こえた。
こういう時間が、僕はわりと好きだった。
彼女がいなくても、彼女の部屋の中では彼女の気配が続いている。洗剤の匂いとか、たたみかけの洗濯物とか、机の端に置かれた社員証とか。僕の知らない時間が、全部片づけられずにそのまま残っている感じがする。
シャワーを終えた彼女は、まだ毛先の湿った髪のままテーブルについた。
「ありがとう」
「雑でごめん」
「いいよ。こういうので」
「いただきます」
彼女はスープをひと口飲んで、「おいしいね」と微笑んだ。
確かに、おいしかった。
食べ終えて、彼女はマグカップを流しに置いたあと、明日着るらしいブラウスをクローゼットから出して、ハンガーにかけた。皺を手でのばして、椅子の背にかける。
「ちゃんとしてるね」と僕が言うと、彼女は背中を向けたまま笑った。
「ちゃんとしないと、明日の自分が困るから」
「俺、そういうのないかも」
「知ってる。前にそっち行ったとき、床にシャツ三枚落ちてたし」
「それは見なかったことにして」
「無理」
彼女は振り返って、「でも」と言った。
「そういうとこ、ちょっといいよね」
「適当ってこと?」
「適当とはちょっと違う」
彼女はそれ以上言わなかった。
僕もうまく返せなかった。彼女の部屋にいると、ときどき少しだけ気後れする。
彼女はベッドの端に座って、スマホのアラームをセットしていた。
うなじに、乾ききらない髪が何本か張りついている。その横顔を見ながら、僕はふと思った。この人の毎日の中に、たまたま僕がいる。そういう順番なのだということが、なぜか少しうれしかった。
「何」
また彼女が言う。
「いや」
「今日ずっとそれだね」
「見てただけ」
「見られてるのはわかる」
「嫌?」
彼女はスマホを置いて、少しだけ考えるみたいに僕を見た。
「嫌だったら合鍵渡してないよ」
その言い方は軽かったけれど、僕には少しだけ特別に聞こえた。
彼女が帰ってくる前の静かな時間も知っているし、仕事から戻って髪をほどくところも知っている。明日の服を用意して、眠る前に水を飲むところも知っている。そういうのを知っているのが、自分だけだとは思わない。けれど今は僕がここにいる。
そのことに、少し胸が鳴った。
彼女がふいに静かな声で言った。
「そんなに気になるなら、今度ちゃんと見せようか」
「え?」
「カルバン・クライン」
僕はしばらく黙った。
彼女はそれを見て、おかしそうに笑った。
「冗談」
「別に」と僕は言った。「見たいとかじゃないし」
「じゃあ何」
「なんか、似合ってたから」
「だから、下着に似合うって何」
彼女はそう言って笑ったあと、少しだけ声のトーンを落とした。
「好きなんだよね、これ」
そう言って、自分のTシャツの裾をつまんで少し持ち上げた。確かめるように、自分の腰のあたりを見る。黒いバンドが見えた。
「なんでだろうね」
彼女はそれだけ言って、裾を戻した。
彼女はもう僕のほうを見ていなかった。ベッドに入って、布団の中で肩まで潜り込む。
「電気、お願い」
「うん」
部屋を暗くすると、窓の外の街灯の明かりだけがカーテンに薄く映った。
僕も隣に入ると、彼女は少しだけこちらに背中を寄せてきた。眠いときだけ、そうする。
「おやすみ」
「おやすみ」
布団の中で、彼女の体温がかすかに伝わってくる。
暗い中で目が慣れるまで、僕はしばらく天井のほうを見ていた。
白い文字の並びが、まだ頭のどこかに残っている。




