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第3話 愚痴ってみぃ!

夜中、眠れないとき。

なんとなく洗濯機を回して、時間をやり過ごすことがある。

そんな“意味のない時間”にこそ、心の奥に沈んだものが顔を出すのかもしれない。


これは、ひとりの女性と、関西弁で喋る猫神の小さな夜の物語。


呪文、もとい『ワイは神様』をひとしきり言い終え、猫神は床に突っ伏したまま微動だにせず一言も喋らなくなった。

後ろ足を大の字に、これでもかというほどに伸びている銅はその辺にいる野良猫となんら変わりない。

変わっているとすればやはり人の言葉を話し、なおかつそれが関西弁だということだろう。


時間も時間だったため、家に帰ろうかと思い衣類をまとめる。


「家でまた缶ビール片手に動画を見るんかいな」

不意に白猫の声を聞いて、その場だけ静まったように感じた。

いつの間にか、洗濯機の音すら遠くに感じるほど、空気が一変。

澪はなんて答えればいいのかもわからない。そもそも、誰かにそんなふうに聞かれること自体が久しぶりすぎて。


「……別にいいじゃない」

しばらくして、そう呟いた。

白猫はぐいっと背伸びをして、深々とあくびをした。


「ふうん」

そのひとことに責める色も、慰めもなかった。

ただ、見てる。聞いてる。それだけの存在。


「眠れなかったの。なんとなく」

澪は立ち上がったが、言葉を吐きながら、目はまだ白猫から離せなかった。


「眠れない夜はスマホ見るか、洗濯するくらいしかやることなくて」

白猫は、小さく喉を鳴らした。


「意味がないことしか、ほんまのことって、あらへんもんな」

「意味が……ない?」

この時、澪は猫神の言ったことがいまいちよくわからなかった。何かの比喩なのか、あるいはそのままの意味なのか。

後者だとしたら、少し寂しい気もするな。

ただ、澪は少し微笑み「確かに」とどこか納得したように呟いた。全ては理解できない。あくまでも感覚だけ。そう、感覚だけ。


「……そうかもね。ほんとそうかも」

指先が無意識に袖口に触れた。

糸が出ているわけでもないのに、ほつれを探すような仕草をしつつ澪は話し始めた。


「あたしね、風俗やってたの」

「ほうほう。なんや風船みたいなのくれるんか? ええなぁ! みんな喜ぶやろ!」

「え? ふうって、あぁまぁ、そりゃそうだよね。ははは。うん、あたしのとこに来る人はみんな喜んでるよ」

猫神は「うんうん」と数回頷く動作を見せた。そういうところはやっぱり人間と違うなと思う澪だったが、おかげで尚更言いやすくもなった。


「たとえ相手が猫でも言いたくないんだけどさ? 神様なんでしょ? だったらちょっと愚痴ってもいい?」

「なんやねん風船やろ? ふん、まあせやな! 神様として愚痴の一つや二つ聞いてやってもええで。言ってみぃ!」

澪は「生意気な神様」と微笑み返しながら、自分の靴のつま先を見つめ、話を再開した。


「働き始めた時は、まあまあ自信あったんだよ。これでも高校時代はモテたのよ? だから高校卒業したらすぐに仕事しようって。まぁ、あたしの家も昔色々あって貧乏でさ。だからその時は『やってやる』って思ってた。早めにお金をたくさん稼いで、起業して、強い女!って感じで」

「バリキャリやな! ほんで?」

「バリキャリって言葉は知ってるんだ。でもね? 甘かったんだ。あたしの方が先に参っちゃって。だんだん、お客さんの目とか、言葉とか、臭いとか……」

「あぁわかるで、ワイも頭撫でられたとき、このおっさん絶対風呂入ってないやん! って思うことあるもんなぁ」

「ふふ、あたしと同じね。臭いはそう、仕事をするたびに全部自分の中にこびりついていく感じがするのよ。洗っても洗っても落ちないの。ちゃんとお風呂入って、健康的な食生活、遊ばずにすぐ家でケアして……でも全然取れないんだよ」

洗濯機が「カタン」と一度鳴った。ボタンか何かが中で跳ねたのだろう。その音が、妙に室内に響いた。


「生乾きの臭いってさ、あるでしょ」

「鼻が曲がりそうになるやつな!」

「それと同じ。何度洗っても、漂白しても、ちゃんと乾かしても、取れない」

澪は口を閉じた。

わずかに震えた唇を、噛み締めるように。


「だからね、消毒するの。意味なんてないのに、もう無理だと思っててもまだしがみついて、なんとかなるんじゃないかって」

白猫は、そっと澪の方へ一歩近づいた。音もなくそっと。


「ええやん! 続けたらええやん! 何度だって洗えるんやで? 臭い取れへんくて嫌になったら別の洗剤買って洗えればいいしな!」

猫神の声は澪とは違い、活気に満ちていた。

澪はすぐには答えなかった。あんたはいいわね、そんな軽々しく思えて。

しかし、それでも澪は苛立ちを見せる素振りは見せなかった。見せるわけにはいかなかった。なぜか、少しだけ腑に落ちたように感じたからだ。頭の中に溜まった膿を出したかのような。愚痴るだけでこんなにも違うものかと思った。

猫神はそんな私の思いを察したのか、話し続けた。


「ワイは猫やからな、ちゅうても神様やで? 間違えんでな? まぁ人の悩みはよぉわからん。けどな――洗っても洗っても落ちんもんて、だいたい自分でこびりつけてまうもんやとワイは思うで!」

「こびりつけたくてつけたわけじゃない」

澪の声が、少し揺れた。やっぱり多少は苛立ちを覚えるようだ。


「せやかて始めはそうでも、今は自分しか付けてまうもんおれへんのやろ? じゃあ自分やん。それに誰かが落としてくれるもんでもないやん?」

「……誰にも」

「結構しんどいやろ?」

「しんどいよ」

澪はぽつりと呟いたあと、ようやく顔を上げた。


「言えたやん」

猫神がじっと澪を見つめていた。


『しんどい』

そうか、あたしやっぱりしんどかったんだ。辛かったんだ。


「ふっ。あんた人間より人間のこと知ってるのね。風船なんて子供っぽいこと言うけど。なんで?」

「なんでやろなあ……ん? 風船やろ?」

白猫はちょっと首を傾げ、変わらぬ三白眼で澪を見た。

「まぁでも、誰かの『声にならん声』がたまに聞こえることがあるだけや」

ちょっと誇らしげな表情が見えた。

「声にならない声……?」

「そう。たとえば『助けて』って言えんまま、心ん中で誰かを呼び続けてるやつとか。ほんまは泣きたいのに、よう泣かれへんやつとか」

「神様って実は猫なの?」

思わず口を開いた自分の言葉に「せやからワイ神様やって、なんべん言わすねん。澪はほんまにーー」と白猫がこちゃこちゃ言い始める。それを微笑ましいと思いつつ、澪は続けた。


「……誰かに責めてほしかったのかもね」

「あぁん? まだ足りんのかいな。自分で自分のこと、めっちゃ責めとるやん。充分やて」

「……」

「ほんまは、誰かに『責めないで』って言ってほしいんとちゃうか? んん?」

猫神の言葉は「わかってるでぇ?」と猫なでごえのような、猫だけに。けど不思議とあたたかかった。

澪は、乾燥機のガラス越しに回る服を見つめながら、小さく笑った。


「そんな都合よく言ってはくれないんだよ。みんな自分のことで精一杯だし」

「それもそうやな。ワイも今日のお腹を満たすためにこれから狩りに動かなきゃならん。生きていくためにな。澪はこれからどうしたいんや?」

猫神がポンと澪の膝の上に飛び乗ってきた。近くで見ると意外にも、白猫の毛は綺麗だった。光にきらめいて見えた。


「ワイな? 澪がそのまま沈んでまうんは、なんか、ちゃう気ぃするんや」

澪は目を閉じた。

否定も肯定もせず、ただ黙った。

けれど、その静けさの中で、かすかに唇が動いた。


「……確かにね。誰かに言って欲しかったよ。」

何がとは言わない。猫神が言ったように『責めないで』と言って欲しかったのかも知れない。でもどこか腑に落ちない。自分でもよくわかんないんだ。

つまり、ただ慰めが欲しかっただけの、まだまだ子供の範疇を得ない青二歳だったんだ。

猫神は澪が自身の背に顔を埋めるのも嫌がらず、むしろ、ふわりと尾を彼女の頭に絡ませた。そして快活な勢いで声を発した。


「またできたやん! ちゃんと声になったやんか!」

「私、弱音っていうか愚痴しか言ってないよ? 何もできてないよ」

「アホやなぁ、まずはそれに気づくことが大事なんやろ。なんでもまずは気持ちからやで」


洗濯機が『ピッ』と鳴った。

乾燥まで終わった合図。

澪は目を開けて、立ち上がった。

少しだけ、背筋が伸びていた。


「……唐揚げ、好きなの?」

「あと煮干しな」

煮干しはなかったので、ここにくる前に立ち寄ったコンビニの鶏唐揚げを取り出し猫神の前に出すと「おぉ」と歓喜に満ちた声を発した。


一度澪の顔をみて「ええんか?」と子供が親を見るような視線を送る。


「うーん、ジューシー!」

もはや人間が乗り移ってるんじゃないのと思わせる素振りに改めて澪はこの短時間の出来事を反芻した。

世の中、不思議なこともあるもんだ。


「ほんと今日はすごい日だね。喋る猫、初めて見た」

「ワイも澪みたいな人間初めてや」

それどいう意味? と微笑みで返す。

ふたりの間に、ほんの少し、呼吸の余裕が生まれていた。

澪は乾燥機から服を取り出した。

まだほんのり温かい布の手触り。なぜかほっとした。

白猫は入口の方へ歩いて行き、振り返らず言った。


「唐揚げ、今度は二本やで」

「気が早いよ」

「そんときは、ちゃんと洗濯してから来ぃや。におい取れんまま来たら、また説教や」

猫神はビシッと肉球を見せた。


「わかった。気をつける」

澪が返すと、白猫は尾をふわりと一度だけ振って、ガラスの向こうへ音もなく姿を消した。

澪は出口の前で、ふと立ち止まる。

思い出したように、ポツリと呟く。


「……あんたに似た猫、昔……いた気がする」

言いながら、自分でも驚いた。

思い出すことすら忘れていた、ずっと前のこと。

雨の日。

ダンボールに入った、白い子猫を、たしか三人で拾った。

名前……たしか。

「フク……」

澪はコインランドリーの外へ出た。

空はまだ夜のままだったが、遠く、ビルの隙間に薄い光が滲んでいた。

息を吸う。冷たいけれど、湿ってはいなかった。


「よし、帰ろう」

誰にも届かない、けれど確かに自分自身に向けた言葉。

その足取りは、来たときよりも少しだけ軽かった。

最後まで読んでくださり、ありがとうございます。

澪と猫神の会話は、誰かの心の奥にある“しんどさ”を洗い流すように描きました。


どんなに洗っても落ちないものがある。

でも、ほんの少しでも「声にできた」なら、それはきっと前に進む一歩なんだと思います。


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