9 セシリア
扉が開いたとたん、姿を見せたのはリチャードだった。
「大変だ! クロビス様が急に倒れた!」
すぐにカタリナが声を上げる。
「まぁ、なんてこと! 早く医者を呼ばなきゃ!」
「ご主人様!」
執事の叫びと同時に、私も部屋へ駆け込んだ。
床には転がったカップ。絨毯には黒いしみ。
テーブルにうつぶせになっているのは、クロビス様――。
「心臓が……止まっています!」
「嘘……!」
私は息をのんで駆け寄り、その体を抱きしめた。まだ温かい。
「クロビス様!」
私と執事は、必死に蘇生を試みる。
「わ、私たちは帰るわ。お邪魔でしょ」
「ああ、帰ろう」
私たちを横目に、二人は逃げるようにこの場を去って行く。
クロビス様の胸を押す執事。私は震えながら息を吹き込んでいた。
「お願い……戻って!」
そのとき、肩をつかまれた。
「……セ、セシリア夫人」
「生き返ったのね! ……よかった!」
けれどクロビス様は気まずそうに視線をそらす。
「……すみません。死んだふりをしただけです」
「……え?」
「コーヒーに毒が仕込まれていました。だから……そうするしかなくて」
「ふり……? 本当に心臓が止まったかと思ったのに!」
安堵と怒りがいっぺんに押し寄せ、涙が止まらなかった。
「セシリア……泣かないで。二人が去るまでは動けなかったんです」
クロビス様はそっと手を伸ばし、私の涙をぬぐう。
「とにかく、貴女が無事でよかった」
その一言に胸がいっぱいになった。
本当は私のほうこそ、そう伝えたかったのに。
「……クロビス様こそ。ご無事で、本当に……よかった」
心の奥からこみ上げるリチャードへの怒り。
──あの人は、なんて卑劣なのだろう。
やがて「二人を捕らえました」との報告が入る。
「そうか……。セシリア、貴女の望みを叶えます。どうしたいですか?」
「……あの二人に、ふさわしい罰を」
リチャードの手からは婚約破棄と離縁の書類。
カタリナの持ち物からは毒薬瓶が見つかった。
だがクロビス様は小さく打ち明ける。
「実は……毒ではなく、ただのシロップをカタリナの恋人に渡させていたのです。貴女に危険が及ばぬように」
そうしてカタリナの恋人は、処刑から鉱山送りに罰が軽減されたそうだ。
「そこまで……考えてくださっていたのね」
見つめ合ったまま、私たちは言葉を失った。
けれどその沈黙の中で、ただ一つ確かなことがあった。
――クロビス様は、ずっと私を守ってくれていた。
そしてその気持ちは、ようやく私にも届いたのだった。
*
鉄格子の向こうには、膝を抱えて座り込むリチャードと、その腕にすがりつくカタリナがいた。
「お兄さま! なんとかしてよ! 全部セシリアのせいなんだから!」
カタリナは顔を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにし、私を睨みつける。
「伯爵さまに毒を仕込んだのは、あなたたちでしょう?」
「だ、だって……婚約を破棄されたから!」
言い訳はあまりに幼稚で、聞くに堪えない。
彼らはまだ、毒がただのシロップだったことすら知らない。
リチャードは黙ったままうつむいている。
その沈黙が、彼という人間の弱さを物語っていた。
「リチャード。あなたは最後まで、私を信じてくれなかった」
やっと顔を上げた彼が、かすれ声でつぶやく。
「……セシリア。俺は……君を愛していた。だからクロビスが憎かった」
「愛?」私は冷ややかに言い放つ。
「あなたが愛していたのは、カタリナだけよ」
「違う……俺は君を……本当に後悔しているんだ……」
「もしそうだとしても、もう遅いわ」
その一言で、彼の唇は閉ざされた。
代わりにカタリナが金切り声を上げる。
「お兄さま! この女なんか放っておいて! ねぇ、私を連れて逃げてよ!」
「……もう無理だ、カタリナ、終わりなんだよ」
牢の中で搾り出すような声が響いた。
「嫌よ! 私はお兄さまの花嫁になるはずだったのに! どうしてよ!」
泣き声が牢の壁に反響し、場を一層みじめにする。
――さっきまで、家族と呼んでいた人たち。
けれど最後には、私を裏切った人たち。
そのとき、背後からクロビス様の声がした。
「随分と騒がしいな」
姿を見た途端、カタリナが叫ぶ。
「生きてる!? なら無実よ、私たち助かったのよ!」
「どうして……確かにコーヒーを飲んだのに……」
二人の顔に淡い希望が浮かぶ。
だがクロビス様は淡々と告げた。
「ああ、甘い味がして、確かな殺意を感じたよ。ついでに書類も盗んでいたな。窃盗罪も加わる」
「無罪になるわけがないでしょう」
私は鉄格子に手をかけ、二人をもう一度だけ見た。
絶望に泣き濡れるカタリナ。焦点の定まらないリチャードの瞳。
クロビス様が静かに尋ねる。
「セシリア。これが彼らの末路です。……この二人を、どうしたいですか?」
「領主である伯爵さまの裁きに任せます」
そして背を向ける。
「待って! 謝るわ、お願いだから出して!」
「セシリア、お前には情が無いのか! 俺は夫だったんだぞ!」
鉄格子の奥から飛んでくる声は、すべて今さらの言葉。
もう私の足を止めるものではなかった。
私は一度も振り返らず歩み去った。
読んで頂いて有難うございました。




