4 セシリア・遅すぎた後悔
追放され、冷たい雨に打たれながら歩いていると、一台の馬車に出くわした。
窓の向こう、灰色の瞳がじっと私を見つめている。
――クロビス様だった。
扉が開く。
「こんなことだと思いました。どうぞ、乗ってください」
穏やかな声は、妙に安心させる響きを帯びていた。
「いいえ……みっともない姿をお見せして、恥ずかしいです」
馬車の中を濡らしてしまう、そう思って固辞したが──
「夫人。実は、あなたを迎えに来ました」
微笑む彼に促され、私は馬車に乗り込む。
厚手の毛布が肩に掛けられ、雨で冷えた体にじんわりと温もりが広がる。
「これは……殴られたのですか?」
そっと私の頬に触れる指先。驚くほど優しかった。
「クロビス様……貴方こそ、カタリナを殴ったのですか?」
「いいえ。彼女には婚約破棄を告げただけです。怒って帰りました」
「はぁ……姪は、それを私のせいにしました」
きっと、あの赤い頬は自分でつけたもの。
――嘘と執着で塗り固められた恐ろしい姪。
「伯爵さまは浮気ばかりして、カタリナを泣かせてばかりだと……」
「私が恋をしたのは、たった一度きりです」
はっきりと告げる声。
――浮気をしているのは、カタリナのほう。
「リチャード殿は姪を守るあまり、あなたを殴り、追い出したのですね」
「……ええ。実家に戻ろうと思っていました」
クロビス様は、ふっと視線を落とした。
「そう。だが、これはむしろ好都合だ」
「……好都合?」
「ええ。あなたが屋敷にいる限り、私の計画は進められなかった」
胸の奥に広がる不安。
「計画……とは?」
「カタリナとの婚約破棄。そして――ビルア男爵家の掌握」
雷鳴が轟き、窓を裂く稲光がふたりの間を照らす。
その閃光は、私とリチャード……夫婦の亀裂にも似ていた。
「セシリア。あなたはこのまま結婚を続けるつもりですか?」
「……いいえ。私たちには、もう信頼の欠片もありません」
いつもの、私を真っすぐ射抜く瞳から目が離せない。
逃げ場はないのに、不思議と怖くはなかった。
「リチャードは、利益のためにあなたを娶った。違いますか?」
その通りだ。愛しているのは、姪だけ。
「そうよ……彼は私を愛してなんかいないわ」
「ならば、私の手を取ってください。必ずあなたを救います」
差し出された手。
救いか、重い鎖か――それでも私は迷わず握った。
クロビス様の口元が、わずかにほころぶ。
満足というより、安堵に近い表情だった。
「冷たい手だ……早く戻りましょう。湯を用意させます」
その声音の優しさに、胸の奥が熱く揺れる。
――どうか本当にこの手が、救いでありますように。
*
伯爵邸に着いた私は、客室に通された。
湯に浸かると、ようやく自分の体が戻ってきた気がした。
テーブルにはミルクティーと甘い菓子。
厚手のドレスを差し出され、袖を通すと、やわらかな手触りにため息が漏れる。
……リチャードは、一度だって私に服すら買ってくれなかった。
彼の贈り物は、いつだってカタリナへ。
――リチャードの心だって、終始あの姪のものだった。
この国では叔姪婚が認められている。けれど、身近で聞いたことなんて一度もない。
私にとっては、受け入れがたい制度。
それでも愛し合うなら、二人を邪魔しようとは思わない、もう勝手に結ばれればいい。
しばらくして、クロビス様が姿を見せる。
「体は温まりましたか?」
「……はい。お気遣いありがとうございます。少し楽になりました」
やっぱりこの人は、優しい。そう思ったのだけど――。
「婚約破棄の件で、証拠をそろえました。リチャード殿に、損害賠償を請求します」
「損害……賠償?」
「ええ。許可もなく、カタリナは伯爵家のツケで散財を続けていた。しかも、恋人に貢いでいたのです」
頭に浮かんだのは、あの日、姪が両腕いっぱいに抱えていた高価な品々。
そして、町はずれのカフェで見かけた遊び人めいた男。
「さらにあの男、裏社会に通じて違法薬物にも手を出しています。カタリナを私の婚約者に置いておく必要は、ないですよね?」
「……その通りです」
クロビス様の怒りは本物だ。カタリナを裏切りの象徴にして、男爵家ごと潰す気だ。
「当然、この責任は夫人の肩にもかかります。慰謝料込みで、莫大な借金を背負うことになるでしょう」
「……私も、ビルア家の人間ですから」
顔をあげると、クロビス様と目が合った。
彼の眼差しは真剣だが、突き放すものではなかった。
「当然、あなたのご実家にも迷惑がかかる。しかし――あのガラス工房が潰れるのは惜しい。あなたが守りたいものなら、私も考慮しましょう」
その言葉に、胸が強く痛んだ。
両親まで巻き込むわけにはいかない。けれど、クロビス様に借りを作ることになるのでは――そんな不安が頭を離れない。
「考慮とはどんな?」
「ご心配なく。部屋ではどうぞご自由に。……少なくとも、あの屋敷よりは安全ですから」
質問には答えてくれず、ただそう言い残して彼は部屋を去った。
残された私は、ただひとり。
――寛げるはずなんてない。
リチャード。これが、あなたと、愛する姪が招いた結末。
男爵家はもう、終わりだ。
この結婚だって、最初から間違いだったのかもしれない。
けれど、もしまだ夫を愛せていたなら……借金を背負っても、一緒に苦労できたはず。
なのに今、胸の中にあるのは――遅すぎた後悔と、クロビス様という得体の知れぬ影だけ。
読んで頂いて有難うございました。




