1 セシリア
結婚して、たった二年。
それなのに私、セシリアはもう、夫に恋する妻ではなくなっていた。
──理由は、ふたつ。
一つは、夫のリチャード・ビルア男爵が私を愛していないこと。
ビルア男爵家の店先には高級なガラス細工やアンティークが整然と並び、通りを歩く人たちは羨望の眼差しを向ける。けれど、私の胸の中はいつも冷えていた。
夫リチャードが私と結婚した理由は明白だった。私の実家が営む【ガラス工房】との縁。
私という人間が必要だったんじゃない。ただ、家ごと便利な繋がりが欲しかっただけ。
そしてもう一つの理由。
夫が溺愛しているのは、私ではなく、姪のカタリナであること。
それも普通の親族愛なんかじゃない。あれは、まるで王女に仕える騎士そのものだ。
盲目で熱心で、決して私には与えられない愛。
カタリナはビルア家の宝石だった。
両親を十歳で亡くし、祖父母に引き取られ、リチャードと四歳違いの兄妹のように育てられた。
義父母は数年前に亡くなっている。なので夫は親のようにカタリナを慈しんできた。
十八歳になった今では、夫と同じ金髪に大きな青い瞳を持つ美少女。求婚者も山ほどいた。
そして先月、正式に婚約が決まった相手はカナビア伯爵家の嫡男――クロビス・カナビア。
領主であり、店の大切な得意客でもある。
「……あのクロビス様が、あんな人だったなんて」
カタリナが泣くのは、もう日常になっていた。
今日も居間のソファで大粒の涙を流している。私は機械のように紅茶を注ぎながら耳を傾けた。
「浮気はするし、声を荒げて私を責めるの……でも伯爵家には逆らえない。私が我慢すればいいだけなの」
そう言ってリチャードの胸に顔を埋める姿は、見事に悲劇のヒロインを演じきっていた。
「カタリナ……可哀想に。我慢なんてしなくていいんだ」
夫は優しく耳元で囁き、背を撫でる。あまりにも自然に。
私? 私はすでに空気みたいなもの。
「ううん、いいの。領主さまに逆らえば、男爵家が危ないかもしれないもの」
「カタリナ、済まない。こんな婚約は断るべきだった」
そう言ってカタリナを抱きしめる夫。
「きっと私が悪いの。領主さまにもっと気に入られるよう努力するわ」
「カタリナ……ごめんよ」
寄り添うふたりの姿は、どう見ても恋人同士だった。
最初は、私もカタリナに同情していた。
でも、何度も何度も繰り返される同じ泣き言に、小さな違和感が育っていった。
――クロビス様は、本当にそんな人なのだろうか。
夫に問いかけても無駄だった。
リチャードは頑なに信じている。クロビス様が悪者で、姪がビルア家の犠牲になっている、と。
だからカタリナが小遣いを強請れば素直に差し出し、店の商品を勝手に持ち出しても叱らない。
私がやんわり注意すれば、「義姉さまがいじめるの!」とカタリナが泣き、夫は烈火のごとく怒鳴る。
「お前は余計な口出しをするな!」と。
……こんな生活に、私はもう疲れ果てていた。
*
カタリナが夫に泣きついた翌日。
ビルア家の店に現れたのは、黒の外套に銀の刺繍をまとった一人の客。
――クロビス・カナビアだった。
カタリナの婚約者にして、領主家の嫡男。私の夫にとっては厄介な相手、けれど商売相手としては大切すぎる存在。
「お久しぶりです、ビルア男爵夫人」
低く落ち着いた声に、私は反射的に背筋を正した。
「ようこそ、お出で下さいました。伯爵さま」
銀髪、灰色の瞳。整った顔立ちに、礼儀正しい動作。
……本当に、この人がカタリナの語るような粗暴な婚約者だろうか。
「カタリナ嬢は、どうしていますか?」
そう尋ねながら、彼の視線は商品棚をなぞるだけだ。
「今日は友人と出かけています。……もしご来訪を知っていたら、出かけなかったと思いますが」
口にした瞬間、クロビス様の瞳がわずかに揺れた。
「そうですか。……ただ、彼女は少し思い違いをしているようですね」
思い違い? 問い返そうとしたところで、奥から夫の声。
「クロビス様。よくぞお越しくださいました」
表面だけ取り繕った笑顔。内心で憎んでいる相手に向けるものだ。
クロビス様は一瞬、私と夫を見比べ、目を細めた。
取引の話が一段落し、夫が帳簿を取りに奥へ消える。
残されたのは、私と彼だけ。曇り空の隙間から差した光が、銀の髪に淡く反射していた。
思わず、私は自分の髪に触れた。
赤毛――忙しさに追われて手入れも行き届かない髪。
この人の目には、どう映っているのだろう。
「……夫人」
低い声に思考が途切れる。
「はい?」
「カタリナ嬢の言葉を……どこまで信じていますか?」
胸が一瞬、きゅっと縮んだ。
彼は知っている。カタリナが夫の前で、自分を非難していることを。
普通なら「悪口を信じているのか」と責められる場面。
けれどその声音は、むしろ私を試すようだった。
「……正直に言えば、姪の話には違和感を覚えています」
慎重に口を開くと、クロビス様の口元がわずかに緩んだ。
「なるほど。賢明だ。……いずれ真実は、明らかになる」
灰色の瞳が、まっすぐに私を射抜く。
「その時――夫人がどちらの側に立つのか」
緊張で喉が渇く。何を意味しているのか尋ねようとすると、夫が戻ってきた。
クロビス様はそれ以上を言わず、私の胸に不安とざわめきを残したまま、静かに去っていった。
読んで頂いて有難うございました。




