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憤怒の獣

 全身に圧し掛かる重苦しい空気。


 室内に響く、キーボードを叩く音とマウスをクリックする音。どれもせわしなく、慌ただしく聞こえる。その音から伝わってくる嫌な感覚。


 まるで悲鳴を聞いているような感覚。


 俺は、目の前のパソコンのディスプレイに目を凝らした。


 そこには気が狂いそうなほどの数字の羅列が記されていた。


 俺の心臓が激しく鼓動を打ち始めた。


 ディスプレイには、ある中小企業の損益計算書が映し出されていた。


 腹の底から恐怖が込み上げてくる。


 尋常ではない恐怖。


 絶望を孕んだ恐怖。


 俺は、すぐにここがどこであるのかを覚った。


 ここは地獄だ。


 狭いマンションの一室。重く生暖かい空気が充満している。デスクに座る従業員たちはパソコンに食らいつくように仕事をしている。その誰もが顔面に悲壮感を貼りつけ、全身の神経を高ぶらせて恐怖に抗っている。


 まずい。


 ここはまずい。


 俺は即座に逃げようとした。だが、身体は動かなかった。


 俺の身体は、他の従業員同様にパソコンにかじりついていた。


 駄目だ。ここにいたら壊れてしまう。


 俺は必死に脳へ伝令を出した。今すぐ、今すぐここから逃げろと。しかし脳が反応することはなかった。脳は仕訳のミスを探すことで必死になっている。


 その時、隣の部屋から怒号が響いた。


 俺の名前を叫んでいる。


 一瞬、気を失いそうになり、酷い耳鳴りで呼び戻された。


 隣の部屋のドアが蹴り開けられ、小柄の男が姿を現した。


 男の手には、書類の束が握られている。


 俺は恐怖のあまり全身が硬直していた。


 男の目は不気味なほど無機質で、一切の温度が感じられなかった。


 虫のような目だ。


 男は、虫の目で俺を見ると、捕食するかの如く口腔を大きく広げた。


「お前、俺に書類を提出する前は、必ずチェックしろと言っただろうがぁッ!」


 虫が咆哮した。


「ち、チェック、しました……」


 か細い声で俺が言うと、虫は小さな肩で風を切りながら俺に近づき、無機質な目でこちらを見下した。激しい心拍が鼓膜を震わせた。虫は書類の束の中から一枚の書類を引っ張り出すと、俺の眼前に突き付けた。


「ここっ、未払いの処理がされてないだろっ!」


 そう吼えると、虫は書類の束を俺の顔面に叩き付けた。ばらけた書類がスローモーションのように宙を舞った。恐怖が勝っているからか、痛みは感じなかった。けたたましい心音に混じって、書類が床に落ちる微音が聞こえた。


「何度も言わせるなぁッ!」


 虫が凄まじい勢いで椅子を蹴り上げた。衝撃で椅子と同時に床に転がる俺。そして床にうずくまる俺に対して、虫は容赦ない蹴りを浴びせてきた。俺は本能的に身体を丸め、蹴りが背中へ集中する体勢を取った。絶え間なく襲い掛かる背中への衝撃は、徐々に鈍痛へと変わっていった。殺される恐怖さえ湧き上がる。しかし、今の俺にはどうすることもできなかった。身体を丸めて、背中に力を込めて防御するしか方法がなかった。そして、嵐が過ぎ去るのを待つしかなかった。


 アパレル店での契約が解除となった俺は、半年間の職業訓練を経て、会計事務所へ転職することができた。経理関係の職業訓練を受けたため、おのずと就職先は企業の経理課に絞られた。しかし不景気の只中である。一般企業の正社員、ましてや事務職の募集は皆無に等しかった。そんな折、職業訓練校から会計事務所への就職を進められた。確かに、不景気にも関わらず会計事務所の求人は多かった。職業訓練校の講師いわく、会計事務所に就職することで、働きながら経理関連の資格だけではなく、税務関連の資格も取得することができるとのことだった。実際、職業訓練校では簿記の資格を取得することができ、無資格だった俺の自信となった。この不景気に打ち勝つためには資格が必要なのだと思い込み、そして資格を武器にして働くことへの憧れを抱くようになっていた。


 会計事務所。


 どんな仕事をするところなのかよく分からないが、響きは良い。


 本音を言えば、前職のアパレル店の同僚を見返してやりたいだけだった。


 格好つけて見返してやりたいだけだった。


 だから、響きの良い会計事務所への転職を選択した。


 だが、それは、あまりに浅はかな選択だった。


 結果として、俺は、人生を終わらせることになった。


 日々、容赦なく襲い掛かる恫喝と暴力。その苛烈さは常軌を逸していた。求められる仕事内容が、職業訓練校で学んだ経理知識ではどうにもならないレベルで、しかも誰一人として教えてくれる者がいなかった。何も分からない。何もできない。さらに恐怖による追い打ちがパニックを生み、次々に失敗を引き起こしていく。一秒、一秒が恐怖に苛まれて、事務所にいる時間が異常なほど長く感じた。一日が一週間、一週間が一ヶ月、一ヶ月が一年のように長く感じられた。一秒後には暴力の只中にいる状況が、時間の概念を完全に崩壊させていた。


 所長は無機質な目で見降ろし、機械のように、俺の背に蹴りを叩き込み続けている。


 冷酷で獰猛な虫。


 それは紛れもなく獣だった。


 憤怒の獣。


 所長の虫の目は、十年経っても、俺を戦慄させた。


 だが、今の俺には、恐怖を超えた激情が湧き上がってきていた。


 虫の目。


 無感情、無機質、無秩序。


 虫の目。


 獣の目。


 この糞ったれな、獣の目。


 心臓の鼓動が激しく波打つ。


 嫌な高鳴りだ。


 もし、この身体が動くのであれば、今の俺ならば、虫の喉元に喰らいつき、牙を立て動脈を嚙み千切るだろう。そして、この爪で、その憎々しい虫の目を抉り引き千切るだろう。


 この嫌な心臓の高鳴りは、怒りだ。


 憤怒の獣への怒りだ。


 だが、悲しいことに身体を動かすことはできなかった。


 この醜い獣へ鉄槌を下すことはできなかった。


 暴発しそうな怒りを抱えたまま、俺は必死で身体を丸め、自らの急所を護り続けた。

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