ヰ92 乙女の祈り
数年振りの大雪の予報で、
新宿の街には急ぎ足で帰宅の途につく人々が、駅に向かって列を作り、
遅れた電車を諦めた者達が、一部街に戻り始めていた。
タクシーを待つサラリーマンの群れ。
皆、寒さに背中を丸めて白い息を吐いている。
明治通りを一本奥に入った路地裏の、くすんだ色の雑居ビルの一室で、
無頼孔雀は、助手のメジ子が淹れてくれたコーヒーに口を付けて、
古い本を机の上に開いていた。
黄ばんだページの表面に、ラミネートで作った栞が挟まっている。
茶色く色褪せた四つ葉のクローバー。
………あの日、悟が摘んだ、丁度5本のクローバーを栞にし、ピクニックに行った5人で分けたのだ。
……そう言えば風花だけ微妙な顔をしていたな……。
……みんな今頃どうしているだろう。
もう、かれこれ30年近く前の出来事だ。
あの子達も40代か……。
新宿ドロップインハウスが閉鎖した時、子供達もバラバラになった。
高校生だったあの3人は、連絡先を交換していたように思うが、
……俺とはそのまま音信不通になってしまった。
この栞を、まだみんなは持っているだろうか。
楓は……、
どのようにして亡くなったのだろうか。
竹千代くんと話したい。
彼女は、楓が俺に裏切られた、と話していた。
…それは違う。……いや、事実か。
孔雀は冷たくなったコーヒーを啜り、
Vチューバー音無伊火鬼のメ(旧ツイスター)を確認し始めた。
……おや、これは……。
孔雀の灰色の瞳に光が宿る。
……これは……チャンスかもしれない……
孔雀は椅子から立ち上がり、隣の部屋でスマホを見ながらナッツを噛っているメジ子の所へ歩いていった。
「あら先生?一区切り付きました?コーヒーをもう一杯淹れましょうか?」
金髪のアンモナイトの側面を、手のひらで軽くポンポンと叩き、形を整えたメジ子が立ち上がり、
ピンクのナース服のしわを伸ばした。
「いや、メジ子、座ったままでいいよ。」と孔雀が言って、天井の隅を見上げてから、壁にかかったゴルフ場の写真を横目で見つめる。
「なんですか?……先生。…何か私に言い辛いことでもあるんですか?」とメジ子が無頼孔雀の顔をじーーーっと観察してくる。
「…いや……あのさ、この前の、その、ブ、Vチューバー?え~と、確かオトナシ……イビキ。だっけ?……その、今度さ、」と孔雀はさりげない雰囲気で、ハッキリしない記憶をたぐるような身振りで、……チラチラと時折、メジ子の顔を見ながら話し出した。
「…で?」とメジ子が静かに聞き返す。
孔雀はそこから急に早口になり、
「……それがさ、今度、幕張でブイと話せるイベントがあるみたいなんだ。いやあ、こういったイベントで、1万円は安いと思うんだ。
ほら、イビキちゃん?だっけ?最近人気急上昇中だし?モニター越しだけど直接会話出来る機会なんて……この先そうそうないと思うんだ?」と捲し立てた。
「まあ、先生のお金ですから好きに使っていいのでしょうけど……1万円で1時間くらい喋れるんですか?」とメジ子が言う。
「え~と、4分間?確かそうだ。」と孔雀が言った。
「よ、よんぷんかん???」
「いや、そう言うなよメジ子くん。4分間話せれば御の字だよ。今回イビキちゃんは特にNGワード無しでの会話を許可してくれているんだ。そんなこと、他のブイなら許されないからね?」
メジ子はドスンとソファに座り直して、
「ま、まあいいですけど……先生はたまには息抜きも必要でしょうから……」と呟いた。
「……こういう寒い雪の日には、…皮に毛を巻き込んだ急患が入ることがありますからね。皮だけでなく、毛の切除も必要になると夜通しの長いオペになることだってありえます……先生、今のうちに少し仮眠を取るのはいかがですか?」とメジ子が肩にかけた毛布を引っ張り上げながら言う。
「いや、そういうメジ子くんも、休みたまえ。」孔雀はそう言うと、窓から見える、隣のビルの壁との間にしんしんと降りしきる雪を眺めていた。
黒い窓の外に映る自分の顔を見て、老けたな…と思う。
大粒の牡丹雪が窓に張り付き、最初は解けて無くなっていたが、
そのうちに次の雪片が上に重なるスピードが早くなり、徐々に窓を覆っていく。
白い雪は、そのまま孔雀の顔を覆い隠し、
……再び気が付くと、孔雀は真っ白な綿毛の舞う野原で、レジャーシートを広げて、
子供達と笑いながらお弁当を食べていた。
無事、検査も終わり、ハウスの子供達は広い大学構内を走り、実験用庭園の先にある杉の木に囲まれた原っぱに到着していた。
ただ、風花だけは、検査をすることが出来なかったようで、
ユーリ内藤教授は残念そうにしていた。
レジャーシートに座る風花は、しきりにスカートの裾を気にして、少し体を動かす度に細い脚を隠すように引っ張っている。
誰も気付いていなかったが、風花のギンガムチェックの小さなポシェットはパンパンに膨らんでいて、ギリギリ蓋が閉じているような状態だった。
そこにはお花摘み失敗による、湿った布が丸めて入れてあり、…幸いなことに…ポケットに偶然入っていた香り付き消しゴムと一緒にしてあった。
風花は、スースーするお腹の下を守るように白い太ももをピッタリと閉じて、
笑顔で話しかけてくる絵美理に対して、固い微笑みで返した。
お弁当はプラスチックの籠に入ったサンドイッチで、バターロールに挟んだ赤いソーセージとレタス、食パンの耳を切った玉子サンド、パンの耳を揚げたものに砂糖をまぶしたおやつが付いていて、
持ち手にアルミホイルを巻いた鶏肉の唐揚げが円形に並べられていた。
「これ全部、楓姉ちゃんが作ったの?」と絵美理が言う。
「そうよ。朝早く起きて作ったんだから!」
「楓姉ちゃんエライ!いいお嫁さんになれるよ!」と絵美理がサンドイッチを口に頬張りながら言う。
鶏肉を二刀流に持った悟が、「楓姉ちゃんは、ブライ兄ちゃんと結婚すんの?」と、口をモグモグさせながら聞いた。
空気が一瞬にして凍る。
楓は聞こえてなかった風に、「あ、の、飲み物!そ、そう飲み物出すの忘れてたわ!」と言ってリュックを慌てて漁り出し、
孔雀は黙って悟の頭をはたいた。
絵美理はそんな2人の大人の様子を見て、……ヤレヤレ…と芝居がかった様子で首を振り、横に座る風花に向かって「……この2人、見ててじれったいわね…」と小声で囁いた。
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食事が終わり、孔雀は「ふう、腹一杯……」とシートに寝転がり、彼の頭のすぐ横に腰掛けている楓に、
「孔雀、食べた後すぐ横になると牛になるよ…」と可笑しそうに顔を綻ばせながら言われていた。
「牛で上等……美味しいものを食べて寝っ転がって、牛になれるんだったら……最高の午後の過ごし方だよ……」と孔雀が満足そうに微笑みながら答える。
「……ふうん?そんなに美味しかった?」
「ああ、美味しかった。」
「………」
いい雰囲気の2人を見て絵美理が、悟と風花のことをつつく。
「なんだよ?」と自分も寝転がろうとしていた悟が睨み返してくる。
「お邪魔虫は退散いたしましょう。」と絵美理は言い、オッホッホッホ……と笑いながら立ち上がった。
「ほら、なにボ~ッとしてんのよ!行くわよボケ!」
動かない悟のことを絵美理は蹴っ飛ばした。
「こら、あなた達!喧嘩しないで!」と楓が怖い声を出す。
「……あ、楓姉ちゃんごめんなさい!私達、向こうで遊んでくるから!………悟!風花ちゃん!行くわよ!」
渋々といった様子の悟と、スカートを押さえて挙動不審な様子の風花を促して、
絵美理は広場の先に見えるチャペルの方へ向かった。
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「すご~い!お話の中に出てくる場所みたい!素敵!」と言って絵美理が教会の尖塔にある鐘を見上げる。
風花も、少し落ち着いてきたようで、まだスカートを気にしながらも、
白い塔を見上げて、うっとりとしているようだった。
絵美理と悟がその姿を離れたところから見た感じ、…花冠を頭に乗せた風花は、この風景にはまって…なかなか様になっていた。
「おい、ここから中に入れそうだぞ!」と悟が興奮した様子で叫ぶ。
「探検してみようぜ!」
「いいわね!」と絵美理も負けじと叫び返す。
「……大丈夫かな。」と風花が不安そうに呟いた。
「「ダイジョーブ、ダイジョーブ」」と後の2人は声を揃えて言い、早速入り口をくぐって礼拝堂に入っていく。
「うわ!すげ~、本物を始めてみたよ!見ろよ、ここ、セーブポイントじゃん!」と悟が言った。「え?呆けもんの?」と絵美理が言う。
「ちげーよ、ドロクエの方だよ!」と悟がすぐに訂正する。
「あっ、それ知ってる!」と後ろからついてきた風花が言った。「…ハウスに来る前、私のお兄ちゃんがやってるのを見たことがある。確か、呪文を入れてふっかつするんだよね?」
「それは昔のシリーズな。今はぼうけん日記に書き込めばセーブ出来るんだよ。て、言うかお前、ハウスに来る前は家族で暮らしてたんだな……」と、悟が言った。
「……うん。呪文を写し間違えて、お兄ちゃんが嘆いていた……
…私……あの頃に戻りたいな……」
「…………」「…………」「…………」
3人の子供達は正面の壁に埋め込まれたパイプオルガンを見上げ、
黙り込んでしまった。
「よし!」
と、悟が大きな声を出す。
その声は教会内部で反響して、四方に響いた。
「……ここで俺たちはセーブしておこう!」
「は?」と絵美理が聞き返す。
「……セーブだよ!もし、この先俺たちが死んでも、この場所と時間に戻ってくるんだ!所持金は半分になるけどな…」
「え~、なにそれ?私、お年玉ためてんのよねー、半分になるのは痛すぎるわ。」と絵美理が言った。
「まあ、とにかく?ここで祈っておこうぜ!死んだらここから再スタートだ!」
「なにバカなこと言ってんの…」と絵美理は言ったが、
彼女の横で立ったまま俯いてすでに目を閉じ、……手を組み合わせて祈っている風花のことを見て……あら可愛い……絵になるわね……と考えていた。
悟も、今日の風花は何となく、いつもより女の子らしいと言うか……遠慮がちで、どこか頼りない、ある種の儚さのようなものを発散しているような…、何と言うか雰囲気が違っていることに気付いていて…、
近くにいると、なんだか背中や腰がムズムズするようは居心地の悪さを感じていた。
風花のステータスは、とある装備を一つ外していることで防御力を犠牲にし、
代わりに魅力値を大幅に上昇させていたのだ。
やがて絵美理も目を閉じ、祭壇に向かって祈り始める。
悟は、急に心臓がドキドキしてくるのを感じて、
……目蓋を閉じて項垂れる2人の少女を正面から眺めると、音を立てずにそっと前に立った。
背の高い悟は、花冠を被った少女達のつむじを見下ろし、そのまま、ほっそりとした首を見つめる。
……ごくり、と悟は唾を飲み込むと、唐突に眩暈に似た感覚が、彼の視界を白く覆った…。次の瞬間、悟は素早くしゃがみこむと、床に頭を付けて、絵美理のスカートの中を下から覗き見ていた。
……暗いオレンジ色の薄明かりの中に浮かび上がる、しわしわの白い布。それは片側に捻れながら、………いつもの憎たらしくて生意気な、ちっとも可愛くない女子の…細い脚に食い込んでいた。
次に悟は、横に移動すると、ピッタリと閉じた風花の白い脚の下に顔を入れ、……上を見上げた。
………しばらくして、少女達が目を開けると、悟の姿が見えなかった。
(あれ?)と絵美理がキョロキョロと周りを見渡すと、
後ろの椅子に座った悟が、前傾姿勢になって顔を真っ赤にして俯いているのが見えた。
「なにやってんのよ?悟が言い出したんでしょ?あんたセーブしたの?」と絵美理が呆れたように言う。
性撫した悟は、ズボンの中ですでに冷たくなった緩い固まりを、必死に隠しながら
「お、お前ら、ちょっと先に行ってろ!お、俺、もう少し祈ってるから!」と裏返る声で叫んだ。
「やけに信心深いわね……」と絵美理は言い、「行こ!」と風花の手を引っ張り、
鐘を目指して奥の階段を昇っていく。
尖塔の鐘は、近くで見るととても大きく、大した手摺もない見晴台から、
眼下に小さく楓と孔雀の姿が見えた。
「お~~い」と絵美理がブンブンと手を降る。
そこに一陣の風が吹き、
スカートを押さえた風花の髪から、シロツメクサの花冠が煽られて飛んでいった。
一瞬それは青空をバックに舞い上がり、「あ」と右手を伸ばした風花は、もう片方の手で前を押さえたままのスカートの後ろ側が捲れ上がるのを感じ、慌てて両方の腕で押さえ込んだのだった。
『Modlitwa dziewicy』




