ヰ9 社会の窓
「設楽居さん?ちょっといいかしら?」
6年2組の担任、廣川満里奈は、
ばっちり化粧した顔を、無表情な教え子に向けて、
「聞いてもいい?」と言った。
「あ、結構です。」と、席に座ったままの設楽居睦美が答える。
……結構です??……て、今の…返事になってないでしょ?そうよね?……それとも若い子の日本語が変化しているせいで、私が理解出来なかっただけなのかしら?
廣川満里奈は、心の中で若干、イラッとしながら「次、教室移動でしょ?歩きながら話さない?」と笑顔で言った。……唇のグロスが柔らかく輝く。
「え……。」と睦美が言い、助けを求めるように、三浦詩の席の方を見た。
詩がそれに気付き、席を立って近付いてくる。
「三浦さん?なあに?……先生ね、少し設楽居さんにお話しがあるの。悪いけど、ちょぉっっと、はずしてくれないかな?」
「で、でも、設楽居さんが次の授業に遅れちゃいます。」と詩が言う。
「う~ん、じゃあ三浦さん?先に設楽居さんの教科書とかを持っていってあげてくれないかな?」
……気を利かせなさいよ……。も~だから子供って嫌!しっしっ、早く向こうへ行きなさい。
「……睦美?大丈夫?」と詩が言う。
その頃、教室の反対側で、美少年転校生、向井蓮が、
赤穂時雨に「こっちが音楽室よ!」と言われながら、引っ張られていく姿が見えた。
「あのね、あのね!音楽の先生は、東三条先生っていう凄くイケメンなんだよ!!……あ、でも蓮くんも、結構イケメンだよね!(ポッ)」
ち~ん。
詩は去り行く美少年を見送りながら静かに合掌した。
「三浦さん?」と満里奈が真顔になって、長い黒髪の小6女子をじ~~~っと見つめる。
「は、はい、わかりました。席を外します。じゃ、睦美?私、扉の外で待ってるから。先生にハラスメントを受けたらすぐに、逃げてね!」と言って、詩は睦美の教科書とリコーダーを掴むと教室を出ていった。
……あら、睦美のリコーダー……。役得じゃない……。
なによハラスメントって……。と、満里奈は思ったが、三浦詩が出ていくのを確認し、
誰もいなくなった教室で再び「設楽居さん、ちょっといい?」と言った。
「……なんですか?……もし、あの転校生のことを聞きたいなら、私、知りませんよ?今日初めて会いましたから……。」と睦美が言う。
「いえ、そうじゃないの。……先生ね、さっきあなたが教室に入ってくる時見ちゃったのよ……。」
眉をしかめながら、睦美が顔をこちらに向ける。
「その……、ところで設楽居さん?……あなたは、その……、さっきの社会の時間、まどろんでいたわよね?」
……廣川先生が、何か必死な表情で、睫毛をぱちぱちとさせながら言うのを見て、睦美は
「……スミマセン。昨日、寝不足だったもので……。」と言った。
「いいの、いいの、そうじゃないの。……え~と、設楽居さん?……その、冷静に聞いてね?あなた、ズボン履いてくるの珍しいでしょ?ほら、いつもスカートじゃない?」
「え?先生?ジェンダーの話ですか?……そういうのは、今、デリケートな話題ですから……、あんまり言わない方がいいのでは……?」
「いや、いや、そうじゃないの。これは、その、もっとデリケートな話というか……。」あ~~焦れったい!!今の教育現場はね、子供の顔色を見ながら、慎重に言葉選びをしなきゃいけないんだからね!何かあった時、ど~せ責められるのは教師側ナンデスカラネ~。何でもかんでもコンプライアンス。テンプラ、ガンプラ、銀ブラ…スポブラ、そして最後にコンプラ違反ってね!あ~!言葉狩りには、ほんっと、もうウンザリ!!
満里奈は、表面上優しく微笑みながら、こめかみにナチスのマークを浮かび上がらせて「……あのね、設楽居さん?先生ね、あなたの為を思って言うんだけどね……、着信履歴、前回のやつ見た?」と尋ねた。
「はい?……見てませんけど?」
「そうでしょ、そうでしょ、なら、早速見た方がいいわ。」ホッとしたような顔をして、廣川先生が後ろを向き「さ、確認してみなさい?」と言った。
「……で、でも、スマホはもう預けちゃいましたよね?日中に学校で見ていいんですか?」
「そうじゃないの!もー、これ、何て言ったらいいのかしら?!」と言って廣川先生が、おでこの上の髪を手荒に掻き上げる。
「……なにが言いたいんですか……?」と言って、睦美が椅子から立ち上がる。
思わず満里奈は、教え子の紺色のデニムのズボンの前を再確認した。
う~んと……そうやって普通にしていると、正直分からないわね…。ひょっとしたら、もう気付いて、閉めた後なのかしら?
……心配して損したかも……。
「先生?だいたい今のご時世、先生と生徒が密室で話すなんて、……下手したら通報案件ですからね?」
「それはそうだけど……まあ、二者面談てのは今でもあるでしょ?」
「もう行っていいですか?」……そう言うと睦美は、デニムのズボンの浅いポケットの両方に……、自分の親指を引っ掛けて、グイッと心持ち下に突っ張り、不機嫌な様子で廣川先生を見つめ返した。
???!?
……満里奈はそれを見て、完全に固まってしまった。
引っ張られて、パカッと開いたズボンの前側からは、……何故かつるんとした肌色の皮膚が覗いていて……。気のせいか……、この令和の時代にあってはならない、コンプ裸いやん♡ス違反が少しだけ……、いや、ほんの少しだけですよ?…見えているような気がしたのだ……。いやいや、気のせいよね。そんなことあるわけないじゃない。
ノートの下に下((じ))着を入れてこない女子がどこの世界にいるのよ。何かの見間違えよね。あと今は『肌色』ていう表現はNGだったわね……。あの色は、そう『薄だいだい色』に変更になったのよ。今の世の中、肌の色は多様だものね~。………ん?え~と、あれ?なんの話だったかしら?
いやいや……て、言うか設楽居さん、あなたやっぱまだ全開のままじゃない!!早く教えてあげないと。……私だって教育者の端くれ。さすがにこれは看過できないわ!
「待ちなさい!」
ポケットから手を出して歩き去ろうとする設楽居睦美を、満里奈は、喉の奥から声を振り絞って呼び止めた。
「設楽居さん!」
……続けて小さな声で「あなた……社会の窓、開いたままよ……」と呟く。
……ああ、とうとう言ってしまったわ。
睦美は一瞬固まり……
「しゃ、社会の窓ってなんですか……?」と言った。
……ま、まさか、日本語が、つ、通じないですと??じぇ、ジェネレーションギャップ?
……あれ?でも、そもそもなんで社会の窓って言うんだっけ……。
「社会の窓っていうのはね、つまり……その……、ズボンの?ファスナーが?……開いているっていうか?」
睦美は素早くズボンのチャックに指を這わせると、……みるみるうちに首まで真っ赤になり、あたふたと辺りを見回した。
「し、……知ってました!」と睦美が大きな声で言う。
……知ってましたって、どういうことよ?わざとやってたなら、それ犯罪よ?!今は男女平等!満員電車で、男がそれをやったら下手すりゃ人生終わるレベルよ?!
「えーーっと……。知ってたのなら……まあ、別にいいのよ?……先生ね、このことについては特に……他に何も言うことはないわ……多分。」
「わ、私、授業中はずっと座ってただけです!休み時間も、誰とも話したりしてませんから!だいたい、そんなこと百も承知でしたし~!先生に改めて言われるほどのことじゃないです~!」
「そ、そうなの……?まあ、このことに気付いてたの、多分先生だけよ……。知ってたんなら、なんかゴメンね?先生、言うべきじゃなかったかしら?」
「ホ、ホントに先生だけですか??その……だ、誰も…気付いてない、ですよね?ま、まあ、当然私自身は知ってましたけどーー!」
……いいから早く閉めなさいよ。なに、その『私、焦ってませんよ』みたいな態度。
「先生?」
「な、なあに?」
「これには深いわけがあるんです……」と、急にしおらしくなった睦美が俯きながら言う。
……聞きたくないわ……。「と、とにかく……早く閉めたらどう?」
「……は、はい。」
「あのね、設楽居さん?……先生、あなたのことを別に怒ったり、責めたりしてるわけじゃないの。……でもね?聞いて?」
そう言うと廣川先生は、屈み込んで、睦美と目線を合わせてきた。
「やっぱり女の子は身だしなみに気を付けなきゃいけないの。先生だって女の子だから分かるのよ?
……お洒落は女子の遺伝子に組み込まれているものなの。御手洗いの後は、必ず鏡を確認すること!これは先生との約束よ♡」
先生の顔をじっと見つめ返す設楽居睦美は、さっきから何か言いたげな表情をして、何度か口を開きかけていたが、
結局、何も言わずに目を逸らした。
……なによ……、あなたも私が『女の子』じゃないって言いたいのね?人が下手に出てやれば………ムカつく……。
「……もういいわ。」と満里奈は言った。「行きなさい。……ほら、三浦さん?(大声)あなた、まだそこにいるんでしょ?設楽居さんとのお話しは終わったわ。入っていいわよ。」
間髪入れずに、三浦詩が入ってくる。
「なんか変なことされなかった??」と詩が言いながら、睦美の体の周りをぐるぐると回る。「あ、あと、はい、リコーダー。……私が責任を持って預かっておいてあげたから。……でもちょっとそれ、洗った方がいいかもよ?……ほら、変な意味じゃなく、唾って乾くと独特のにおいがするでしょ?……前の授業の後ちゃんとお掃除した??」
「ん?あ、そうだった?
確かにリコーダーって臭くなるよねー。なんなら一緒に洗っといてくれても良かったのに」
「ま、まじで……?いいの?」
「ほら!お二人さん!早く音楽室に行きなさい!」と満里奈が言う。
声をかけられた詩が、廣川先生の顔をじっと見る。
「………先生?」
「ん?」
「……毛、出てますよ?」
「ふぁ?!」
思わず、自分のスーツのパンツを見下ろす満里奈。
「そ、そっちのわけないじゃないですか。
は、な、げ。出てますよ?先生。」
光の早さでコンパクトミラーを取り出した満里奈は、自分の顔をチェックした。
ぐ、ぐわあああああ………
「ダメじゃない、ウタ?そういうことはもっとオブラートに包んで言わなくちゃ?私も言おうか迷ったんだけど、黙ってたんだから。」と設楽居睦美が言う。
お、お、お前がそれを言うかぁぁぁ……。
涙目になりながら、鼻を隠す満里奈は、
その日初めて、生徒に木又意を感じたのだった……。
『The window of society』