ヰ89 検体
「ねえ、アレ提出した?」
新宿ドロップインハウスの遊戯室で、簡易トランポリンの順番を待つ髪の短い少女が、前に立つ髪の長い少女の背中をつつきながら言った。
「ん?アレって?」と髪の長い少女、風花が振り返る。
「ほら、クジャクお兄ちゃんが言ってたやつ!
……=ノ∋ン^"ン検査!」
「ちょ??え、絵美理ちゃん?!女の子がそんな言葉使っちゃダメなんだよ??」と、風花が丸い頬を真っ赤にしながら叫び、急いで他の人が聞いていなかったか、首を左右に振って確かめた。
……周囲の子供達は誰も気にしていないようだった。
「なんて言ったって同じでしょ。」と絵美理は言い、「……で、風花ちゃんは提出したの?」と聞いてきた。
「え?て、て、提出してきたけど……やだ……恥ずかしいよ……ここでその話はやめない?」と風花が言う。
「なあに、風花ちゃん真っ赤になっちゃって?か~わいい!」と絵美理は、さらさらの長い髪が散らばった友人の小さな肩に抱き付く。
「…あのさ、風花ちゃん?実は私、まだ出してないんだあ。」「え?まずくない?そういうの楓姉ちゃん、すっごく怒るよ?」
「わかってる!わかってるよ。だから私、困ってるの。」と絵美理が言う。
「ほら早く、今からしてきちゃいなよ?」と、風花が小声で囁く。
「……いや、あのね。」とお返しに絵美理も口元を手で隠しながら、風花の耳元で囁いた。「……あれ、正直、やり方がわからないのよ……。風花ちゃん、やり方教えて……」
「や、やだ、そんなこと楓姉ちゃんに聞きなよ?!」と風花が首まで真っ赤になりながら答える。
「え~~やだよ~。楓姉ちゃん、厳しいし、聞いたらなんか怒られそ~」
短い髪に黄色いパンジーの飾りがついた髪クリップをした絵美理は、顔の前で手を合わせ「お願い~~」と言って可愛く笑ってみせた。
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「手伝うのは嫌だからね…」
風花は、遊戯室の隅に置かれたプラスチックのカラフルなお城の中で、絵美理の顔を見ながら言った。
高学年の2人には、狭く感じられる空間に、お互いの膝がぶつかるほどギュウ詰めになり、
絵美理は持ってきた白い封筒から検査キットを取り出す。
「まずね。この折り畳み式のコップを開くの。」頬をまだらに赤らめて、風花が白いプラ素材の四角い容器を組み立て始めた。「それでね、ここに入れるのよ。」
「え?やっぱそうなんだ。でもなんかこれ、パリパリしてるし、凄く薄くて破れそう……こんなんで大丈夫なの?」と絵美理が言う。
「……そうなの。これ薄いでしょ?……だから入れてくと、なんか指にあったかい水流の感触が伝わってきて……その……直に触ってるみたいでイヤなの……」
「えーーやだ~」
「て、言うか相当うまくやらないと、100%手にかかるからね……」
「……そうよね……。それ、私も思った。ちなみに風花ちゃんはお手々にかからなかったの?」
「…ノーコメントです。」と、雛人形のような見た目の色白少女は、赤面して静かに呟いた。
「で、それをこのお醤油ケースみたいなので吸い上げるの。」…気を取り直して風花が、赤いキャップの小さなプラ容器を取り出し、シミュレーションとして、キャップを取ってみせた。
「このキャップとっても小さいから、絶対無くさないようにね。無くしたら終わりだから。」
「うわあ~……私、無くしそう……。それで、これを使ってどうやって吸い上げるの?」と絵美理が細い受け口を片目で覗き込みながら言う。
「こうやってね。」と風花は醤油ケースを受け取って、白いカップの中に逆さまに入れると、「ここを押してブクブクブク……って中の空気を出すの。そしたらその代わりに中のものが吸い上げられるわけ。あとは残った分を音入れに捨ててしまえばいいのよ。カンタンでしょ?」
「え?それホントにやるの?この私が?……そして風花ちゃんはそれをやったの??え?なんかバッチくない?……なんかさ、風花ちゃんがそれしてるとこ想像できない……」絵美理は、ハウスの中で一番可愛い少女の顔をまじまじと見つめた。
「そ、想像しなくていいの!!」と風花は目をバッテンにして友人の肩を押し戻す。
「それで最後に名前のシールを、醤油ケースと封筒に貼る。これでオシマイ!」と早口で風花は言い切った。
納得いかないような顔をしていた絵美理が「あ、この白い折り畳みカップはどうするの?音入れに流していいの??」と聞く。
「だ、だめよ!絵美理ちゃん!それはゴミ箱に捨てるの!」
「……え、ちょっと待って……おかしくない?
…私、=ノ∋ン^"ンがついたものを、音入れ以外に捨てたことないんですけど……。」
「また、その言い方!!洗って捨てればいいでしょ!」「洗うって……手で?そしてどこで?まさか洗面所で?え?洗面所に流すの?ハウスの洗面所で??え?風花ちゃん??
…あなた、自分の=ノ∋ン^"ンをあそこに流したの?!」
「ヒャ?!わ、私、洗ってないから!!そのまま捨てたから!!」
「そのまま捨てたってどこによ??じゃあ洗ってないの!?」
「だ、だから、音入れットペーパーでぐるぐる巻きにして……音入れのゴミ箱に………」
「うへ!汚ったね!それ、誰が捨てるのよ!??」
「うえ~~~ん、絵美理ちゃんのいじわるぅ~~~」泣き出した風花に慌てた絵美理は、
「ごめんなさい!ごめんなさい!」とすぐに謝ったが、
全く泣き止まないまま、騒ぎは大きくなり………結局、呼ばれてきた楓にこっぴどく叱られることになったのだった。
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「孔雀君。」
ロシア人とのハーフ、グレーの瞳をしたユーリ内藤教授が重々しい口調で話し出す。
「はい。」
「……実は今回の検査の内容が、外部に洩れた怖れがあるんだよ。」
「と、言いますと?」と、若き研究者見習い、無頼孔雀が銀色のPHSに向かって答えた。
「…あるスジからの確かな情報だ。我々が企画した新宿ドロップインハウスでの、子供達に対するNYO検査の実施情報が、外に流出したようなんだ。」
「はあ。そうなんですか?……で、それに何か問題が?」と孔雀が言った。
「まあ、運動神経のいい君のことだ。あまり心配はしていないが。…一応警戒することに越したことはない。十分注意するように。総勢27名。ドロップインハウスの子供達が提出した…我々の検査キット内に採取された検体……。それを、無事にここまで運んできてほしいのだ。大学まで運搬している途中に、検体を奪おうとする者達が妨害してくる可能性があるからね。……特に今回は正規の検査ではない為、被害にあった場合、警察に動いてもらえないことも考えられる。」
「ちょ、ちょっと待ってください、教授。なんで子供達の検体が奪われる怖れがあるのですか??」孔雀は、びっくりして思わず声を上げた。
ユーリ内藤教授は溜め息をついて「…それは……分かりきっていることじゃないか。やれやれ、君ほどの生徒がそんなとぼけたことを言うとは思わなかったよ。……これは世の理だよ。そこに少年少女の縦笛があれば、舐める人間は必ずいる。君もそれだけの人生を生きてきたら知らないとは言わせないよ?…子供達の靴や靴下、果ては体操着や水着やら、自転車のサドルに至るあらゆる物が美の愛好家達に狙われているのだよ。
……増してや今回はNYO検査の検体。
…君の送ってくれた資料でハウスの子供達の写真は見せてもらったよ。……特にこの、お人形さんみたいな蓮台風花ちゃんとか?気が強そうな榛葉絵美理ちゃんとか?…ああ、この小野町悟くんてのも、ワンパクな少年らしさの中にある種の儚さがあっていいね……。(むふふ…)
オホン。まあ、つまりハウスの子供達は相当レベルが高いと思うから…愛好家に受けがいいと思うんだ……」
「いや、先生……、おっしゃっている意味が良く分かりませんが…そもそも何故、情報が他に洩れたのでしょうか?僕は先生にしか言っていませんし……。」と孔雀は、少し心配になり始めながら、周りに聞いている人間がいないかどうかキョロキョロと辺りを見回しながら言った。
「さあ。そこら辺は私も推測するしかないのだけどね、多分、ハウスの子供の誰かが外で喋っているのを聞かれた、とかそういったことではないかな。……とにかく、この情報が他の人間に渡ってしまった可能性はかなり高い。検体の運搬に関しては、道中十分注意して来るように。」
内藤教授はそう言うと、「ところで孔雀君は今、どこにいるのかね?」と聞いた。
「え、あ、はい。実は……、実家の引っ越しの手伝いがあって……今埼玉から帰るところなんです」
「あれ?じゃあ検体はどうしたの?」
「いや、その、ドロップインハウスの楓、いや、乃望楓さんに集めてもらって……そのまま大学に届けてもらうことにしたんですが……」
「なんと??ま、まずいぞ、孔雀君!!女性1人にあんな危険な検体を持たせるなんて!!襲われることだってあり得る!…その子に連絡する手段はあるのかね!?」
「あ、あります!今すぐ電話を切らせていただきます!!」孔雀はそう叫ぶと、通話を終了し、すぐに楓のPHSに電話をかけた。
プルルルル……プルルルル………
………。
……。
クソ!出ない!!
だが楓が使うルートはだいたい分かる!
今なら間に合うか!?
急げば追い付けるはず!!
孔雀は顔を青ざめさせ、電車に飛び乗ると祈るような気持ちでPHSを鳴らし続けた。
車内の白い目に気付き、孔雀はメールに切り替える。
『今どこにいる?』『無事か?』『荷物を狙っている者がいるらしい』『気を付けて』
孔雀は連続でそう打ち込むと、車窓に映る自分の焦った顔を見つめていた。
俺が甘かった……。ユーリ内藤教授の研究は、その革新的内容のせいで各国の研究機関から注目されているのだった……。まずいぞ……たかが子供の検体だと思って油断していた。内藤教授はご自身の研究の価値をよく理解していらっしゃる。
しかし、そんなものまで狙うとは、他の研究者達も必死だな……。だいたい検査前のデータを奪って、何の得があるというのだろう。
まあ、ともかく。
無事に検体を届けることよりも、楓の身の安全が心配だ。
孔雀は、電車が着いたらすぐにでも駆け出せるように、扉の側に立って手摺に掴まって外を睨んでいた。
『specimen』




