ヰ88 有望な青年
闇のmoon-men-虚医師、無頼孔雀は、助手の金髪ナース、メジ子が煎れてくれたコーヒーに口を付け、
「……で?」と溜め息に似た言葉を発した。
「…はい。ネルネちゃんがどうやらリンゴアレルギーみたいで。一度、検査をしてあげた方がいいと思うんです。」
「そうか。…でもネルネくんは身体が弱いというか、敏感なところがあるからな。アレルギーを調べる為に直接やるプリックテストやパッチテストは向かないと思うんだ。ましてや血液検査もご法度だ。」
「ですよね……ネルネちゃんは赤ちゃんみたいに敏感肌ですから…」とメジ子は言い、
「なので、孔雀先生が現在臨床研究中の、乳幼児用向けの安全な検査をしてあげて欲しいんです。」
「そうだね……試験中の技術とはいえ、害があるわけではないし…。いいかもしれない。原理としては二∋ワの中にあるのプロスタグランジンの代謝(PGDM)を計測することで、症状の有無や重症度を判定出来るというわけだ。
……この技術が実現されれば、特に小さな子供達への身体的、精神的な負担を少なくしたアレルギー検査を行うことが出来る。
よし、わかった。ネルネくんからの依頼があれば、すぐに検査をしよう。」無頼孔雀はそう言うと、残りのコーヒーを一気に飲み干し、PCの画面にある英論文を読み始めた。その論文は、かつての孔雀の恩師、ユーリ内藤教授が書いたものだった。
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……若く希望に燃える青年、無頼孔雀は、
ユーリ内藤教授の研究室で、テーブルに並べられた紙コップの前に立ち、バインダーに挟んだ書類に数字を書き込んでいた。
「-」「±」「+」……
「孔雀君、ちょっといいかな。」「はい。」
まだ白衣が板についていない孔雀青年が、顔を上げる。
「……君は優秀な生徒だ。」
白髪の内藤教授が、低い声で静かに語りかけてきた。
「あ、ありがとうございます…でも僕が優秀って……。お褒めいただき誠にありがとうございます。でも突然ですね。急にどうされたんですか?」と、孔雀が軽く驚いた顔で答える。
「君もよく知っているとおり…」と内藤教授は、手に持っていたペンを机に戻しながら言った。「私達が研究している、この『二∋ワ検査』は、痛みを伴わず、患者に精神的不安を感じさせずに実施出来る検査だ。
……これは特に、注射針等を使用しなくて済む為、乳幼児から未成年までの幅広い層の子供達にある種の救いとなる検査方法だと言えるよね。
ただし現状ではまだ、アレルギー検査等を正確に診断することは難しい。だが近い将来、そういったこともクリア出来ると私は信じている。」
「はい。この研究で先生が名を残すことになると僕も固く信じています。」と孔雀は、教授の目を真っ直ぐ見つめ返しながら言った。
「……君のような若く有能な研究者がどんどんと育ってくれれば、遠くない未来、それも実現するだろう。」と、内藤教授が言い、机に並んだ紙コップの一つを手に取った。
「……これはミカミ君のものだね。」
内藤教授は白い紙コップの側面に書かれた『三○美加』という文字を見つめ、「本当に皆の協力には感謝しているよ…。」と言って、
そこに1/3ほど入った液体をグイッと一気に口に含んだ。
そしてクチュクチュと口内でゆすぎ、舌の上で転がすと、「±」と言って、ゴクリと飲み込んだ。
「先生?これらは全部朝一に採取してもらったものですよね?その……失礼ですが、濃いせいで…口に入れ辛くはありませんか?」と、孔雀が手元の表に記号を書き込みながら言う。
「…まあ、それは慣れだよ。ゼミの子達はきちんと指示通り、最初に少し出してから一度止め、その後に出したものを採取してくれているから…、ある程度雑菌は取り除かれているしね。平気だよ。」
教授は次に『佐○聡子』と書かれたコップを掴み、目視で色の濃さをじっくり確認し、次に鼻を近付けて臭いを嗅ぐと、
「うむ」と1人で頷いてゆっくりとそれを口に入れた。
「先生?…ここにあるのは女子のものばかりですが、それでは実験結果に偏りが出ませんか?良かったら僕のものもご提供しましょうか?」
「は?え?あ?いや、…それはいい。ありがとう。気持ちだけ受け取っておくよ。えーっと、佐藤、-。」
「そうですか……。おや?ゼミの子全員の分じゃないんですね。協力が得られない人もいたんですか?……あれ、佐久間さんのはないですね…。彼女、こういうことには協力的なような気がしていました。なんだか意外です。」
内藤教授は、もう一つコップを手に取り、それも綺麗に飲み干してから言った。「ああ、佐○間さくらくんね……あの子はちょっと……。どうかな……ほら、微妙だろ……」
その返答に無頼孔雀は、首を傾げ、
教授が飲み終わった紙コップに残った水滴に
試験紙を立てて、色の変化を観察していた。
「……流石、先生です。検査結果と完全に一致しています。国内でこの検査方法を行えるのは先生だけですからね。」「うむ」教授は重々しく頷き、「孔雀君…」とポツリと呟いた。
「…君さ、慈善事業か何かで、新宿ドロップインハウスとかいう施設に出入りしているんだよね?」
「あ、はい。そ、そうですが…それがなにか?」と孔雀が愛真空にデータを打ち込んでいた手を止めた。
「……いや、あのね。そこにいる子供達の検査を無料でしてあげようかと思ってね…」
「…………」
「…………」
「あ、いや、忘れてく…」
「え?本当ですか、先生!あ、ありがとうございます…!あの子達は、色々な事情で保護された子供達なんです!!かつての劣悪な環境で心だけでなく、身体の健康自体も診てあげる必要があるんです!」孔雀は叫ぶように言うと、「早速、ハウスの方に話してみます!」と立ち上がった。
ホッとした様子の内藤教授は「…じゃ、孔雀君、出来たら子供達の顔写真も宜しく。あ、今回は女の子だけじゃなく、男の子のも集めていいよ。え~っと、取り敢えず中1の子までにしてね。それ以上はちょっといいかな……」と言った。
孔雀は「はい!わかりました!相談してみます!」と言い、ロッカーの荷物を纏め出すと、「あ、じゃあ、先生、今日はこれで!お先に失礼します!」と快活に叫び、ジャケットにリュックを背負うと研究室を飛び出していった。
****************
若き大学院生、無頼孔雀は、まだ豊富にある髪に風をはらませて、スケートボードで公道を滑走していた。
スカジャンのポケットに手を突っ込んだまま、孔雀はヘッドフォンを頭に掛け、自在にアスファルトの道を走り抜けていく。
歩道のちょっとした段差などは、前輪を軽く浮かせ、危なげなく乗り越えていき、
勢いが弱まったところで左足で地面を蹴り、スピードが途切れることなくスムーズに進む。
途中、渋滞に嵌まるバスを横目に、孔雀は軽く腰を振って推進力を増幅させると、駅まで一気にスケボーの小さな車輪で滑っていった。
そして、いつもの生け垣の手前で、板からジャンプしながら飛び降り、踵を使ってふくらはぎの後ろにスケボーを跳ね上げると、裏手で掴む。
そのまま流れるような動作で孔雀はリュックの裏に板を差し込み、2段飛びで階段を駆け上がっていった。
孔雀は、片手ではたき落とすようにしてヘッドフォンを首にかけ直すと、券売機で切符を買って、丁度いいタイミングで来た電車に飛び乗った。
都心まで約1時間。
孔雀はリュックから最新の携帯ゲーム機、ゲームガールポケットを取り出すと、呆けもん(垢)というソフトを遊び始めた。
……これは…、ドロップインハウスの子供達と話を合わせる為に始めたゲームだったが、
いまや彼の方が夢中になって遊んでいた。
ピコッ、ピコ
ポケットで電子音が鳴る。
孔雀は、最近持ち始めたばかりのPHSを取り出し、メールの内容を確認した。
『今日来る?子供達があなたを待ってるよ』
楓からのメールだ。
孔雀は、電車内で笑みを押し殺し、
『今丁度向かってる』と返した。
ピコッ、ピコ
『子供達が喜ぶのはわかるけど、ゲームばっかりはダメ。勉強を教えてあげて』
『了解。もうつくよ』
孔雀は電車を降りると、真っ直ぐに東口から繁華街の方に歩いていく。
この頃はまだ、コトブキ町入り口に鈍器法廷はなく、その場所には
現在では合併され消滅してしまったヤマモト銀行ビルが建っていた。
『新宿ドロップインハウス』
……白地に黒字で印刷された簡素な看板を見上げ、孔雀は口笛でも吹きたいような気持ちで入り口をくぐっていく。
「「お兄さん!」」
彼の顔を見た子供達が、ぱあっと顔を輝かせて駆け寄ってきた。
「やあ!キッズ達!元気にしてたか??悟!絵美理!また喧嘩してないか?」
「もーう!悪いのはいつも悟なんだからね?!」
「アハハハハ」
「ブライ兄ちゃん!呆けもんやろ!」
孔雀は、抱き付いてきた少年少女達のつむじから顔を上げ、目の前に立つ乃望楓の呆れたような、嬉しいような、諦めたような、優しい表情をみて、
思わず本音で微笑み返してしまった。
「ほらほら、みんな?クジャクお兄ちゃんは今着いたばかりよ?いったん休憩させてあげて?」
癖っ毛の日焼けしたカウガール、乃望楓が前に進み出て子供達を散らす。
「じゃ、ブライ兄ちゃんまた後で!この前、凄い呆けもん捕まえたんだ!後で見せるよ!」と、ガキ大将風の少年が大声で叫び、「ほら、お前たち!兄ちゃんと姉ちゃんの邪魔だから行くぞ!2人はコイビトなんだぞ!察しろよな!」と付け足した。
「「なっ……?!」」と孔雀と楓は顔を真っ赤にして、「さ、悟くん??違うからね?!」と楓が言うのを、孔雀は聞いて少しがっかりする自分に気付いていた。
****************
「孔雀くん、お疲れ様」
計算機を横に置き、事務机の書類に数字を書き込んでいる手を止め、
髪を短くした中年の女性が振り返る。
「楓?お茶を出して」
「あ、豊子さん、お構い無く…」と孔雀が言う。
「私が喉が乾いたの。楓?麦茶を入れて?」
「は~い」
楓が溌剌とした様子で背を向け、給湯室の方へ入っていく。
「で、孔雀くん?」と、
ドロップインハウス代表、乃望豊子がニマニマと笑いながら言った。「今日はどうしたの?また楓に会いに来てくれたの?」
「あ、いえ、……そ、そういうわけじゃ……」
「隠さなくてもいいわよ。」と豊子は、薄紫色に塗った自分の爪を見つめ、悪戯そうに微笑みながら言った。「あの子、美人に育ったからねえ……最近は言い寄る不埒な輩が後を絶たないのよ。」
「そ、それホントですか?!ど、とんな奴が言い寄ってるんですか??」と、孔雀が前のめりに机に突っ込んでくる。
「おほほ……冗談よ……」「や、やめてください……」
「で、今日はどんなご用でいらしたの?」
「はい。実は……」
孔雀は、研究室の教授から、無料で子供達の検査をしてもらえるという話を始めた。
「へえ……持つべきものは将来有望で優秀な青年の知り合いね。そんな有り難い話はないわ。是非に。……ドロップインハウスの健康管理は貴方に頼りっぱなしね。助かるわあ……」
「ついでに言いますが…豊子さんはちゃんと健康診断受けていらっしゃいますか?」と孔雀が聞く。
「アハハ……ほら、忙しくてね、ここ数年まともなやつは受けていないわ。でも、まあ、私なんて健康だけが取り柄みたいなものでしょ?…毎日元気一杯よ!倒れている暇なんてないからね!」
そう言うと豊子は再び、アハハハハと高らかに笑った。
「まあ、一応毎年は受けてくださいよ?もし、何かの病気が見つかっても、早めに発見出来れば治療は容易に出来ますからね?」
「はいはい、分かりましたセンセー♡」と、豊子は言うと、目の端に麦茶と合わせて最中をお盆に乗せて持ってきた娘の姿を捉えた。
そのまま「じゃ、ちょっと休憩しましょ!」と勢い良く立ち上がり、
あ……と、軽い立ち眩みを感じて、あらやだ、とまた笑うのだった。
『a promising young man』




