ヰ62 漢の闘い
五十嵐葉南は、児童館の民難の音入れで、
禅羅になって体を洗っていた。
床には茶色く汚れたまわしが落ちていて、いまだ強い臭いを放っている。
……さすがにこれは、もう使用出来ないわね……。
葉南は片手で吊り上げた帯状の布を顔に近付けて、諦めたように洗面台に持っていって、
じゃぶじゃぶと洗い始めた。
ああ、洗ってしまったわ……。
これで、もうこのまわしは使えない……。
さて。どうしたものか。
と、葉南は慎重に音入れの横すべりの扉を開け、廊下に人がいないことを確認すると、
禅羅のまま、素早く着替え部屋に入っていった。
………。
この部屋は普段、学童で使われている学習室。
葉南はふと思い付き、低いテーブルの下に収納された半透明の棚の引き出しを引っ張っていた。
引き出しの中には、太めのマーカーが乱雑に詰め込んである。
葉南は、その中から紫色と青と黒を選び、紙の上で色が出るかを試してみた。
……よし。これでいこう。
葉南は次の試合が始まる前に、急いで準備を終わらせ、町内会の青いジャンパーを上から羽織ると、
走って会場へ戻っていった。
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3回戦。
土俵上には、2回戦を無事勝ち抜いた向井蓮が先に立っていて、
人々は、その美少年ぶりに改めて息を呑み、彼の一挙手一投足に注目していた。
そこへ遅れて青ジャンパーを着た古賀真北が入場してくる。
……五十嵐葉南は、観衆の視線が、槃羅の美少年に集まっていることを確認し、
……なるほど。これが美少年パワー…凄いわね……と感心していた。
……そう。対戦相手が絶世の美少年であるからこそ、ボクの忍び術が効果を発揮するのだ。この土俵上では、ボクの存在はおまけみたいなもの。誰もボクのことに注目していない。……そして観客の様子を見る限り、これは期待以上の反応ね……。
葉南は、流石に緊張を隠せない様子で、正面にいる向井蓮のことを半笑いの表情で睨むと、
バサッ
と、青いジャンパーを華麗に脱ぎ捨てた。
さっきまでと違って、葉南は紫色のまわしを締めている。
蓮は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに冷静さを取り戻し、睦美をめぐるライバルである、この少年を負けじと睨みつけた。
行司が「見合って見合って……」と言うのを聞きながら、葉南は脚を左右に開き、腰を低くすると、軽く土俵上に拳を付いて背中を反らした。
誰1人として気付いていない。
……五十嵐葉南は、
禅羅に、まわしのボディペイントをしただけの姿で、この試合に挑んでいた。マーカーを使って緻密に描かれた紫の陰影が、お腹の上で擬似的な立体感を演出している。
そして本当は女子である真北少年は……、
前にぶら下がるものが無い分、お腹に沿って自然にまわしが描かれており、誰の目にも違和感なく、それは腰に巻かれているように見えていた。
葉南の真後ろに立つ行司も、半分、対戦相手の美少年の方に気を取られ、
目の前にあるアナリシスを解析出来ないまま、何の疑いもなく2人の少年の対ケツを見守っていた。
観客達も固唾を呑んで、美少年の姿の方に注目している。
葉南は、チラッと視界の隅に設楽居海人の姿を確認し、
……さあて。あなたが救世主であるかどうか……とくと拝見させてもらうわ。向井蓮のまわし、…あなたの目の前でもろ差ししてあげるからね……と考えていた。
葉南は、上半身を土俵と水平にしつつ、蒙古斑の浮き出した背中を弓なりに反らすと、後ろに向かって、冷たい外気に晒された腰を、虫の腹のように丸出しにしながら海老反りにさせた。
葉南の脳裏に、祖父の教えが去来する。
『戦いの時、機会があれば男性のここを狙うといい。』
祖父は道場に置かれたマネキンの胴着を脱がし、葉南に裏側に廻るように言った。
祖父はマネキンの背中から、真っ直ぐ下に中指を沿わせて、一番下に指を入れるような仕草をする。
『これは江戸時代から伝わる一子相伝の技。喝波忍法、しりこだま抜き。男子のここにある、しりこだまを抜き取ることで、いわゆるその男を腑抜け状態にすることが出来るのだ。古来、エロガッパ、屁の河童、などの言葉の由来になった禁断の技じゃ。』
「でも、おじいちゃん?江戸時代と違って男子は着物スカートを履いているわけじゃないから、いきなりそこを狙うのは難しいよね?」と葉南が怪訝な表情をして言う。
『そうじゃな。』と、立派な白ひげを蓄えた老人が、マネキンにもう一度胴着を着せながら言った。「戦いの中でここを狙える機会は少ないかもしれない。じゃが、そのチャンスが訪れた際には、間違いなく、一発で、素早く抜き取れるように練習しておかんといかんな……」
「はい。」と言った葉南は、
祖父が用意してきた低反発枕に穴を開けたものから、3本の指を使ってピンポン玉を引き抜く練習を繰り返し行い、祖父は「ほほう…やはり葉南には才能があるのお……」と目を細めたのだった。
「はあっけよぉ~~い……」
「ノコったあ!!ノコッた、ノコッた!!!」行司が裏声で叫び、
美少年、向井蓮が、自分より体格の劣る少年に向かって突進してきた。
蓮は素早く両腕を伸ばし、相手のまわしを取ろうと指を鉤爪の形にして襲いかかる。
?!?
蓮の腕は掴むものがなく虚しく空振りし、体勢を崩してよろめいた。
すかさず、葉南は真横から蓮のまわしを掴み、腰を低くして力を込め、ふんぬ!!と真っ赤な顔をして帯を捻る。
微かに緩んだまわしに、咄嗟に蓮は手をやり、片手で引き上げながら、もう一度相手のまわしを掴もうと手を伸ばした。
「……凄い攻防だな。」と土俵の外で見ていた設楽居海人が呟く。
「真北くんは全くまわしを取らせる気配がないな。」
葉南の手刀が、目にも止まらないスピードで、蓮のまわしと肌の僅かな隙間を狙って、残像を残しながらシュパパパパ……と風を切って空気を切り裂いていく。
蓮は徐々に、自分のまわしが緩んできている気がして、相手のまわしを掴むよりも、自分のものを手で支えるような動きに変わっていった。
「意外だな。向井くんの方が防戦一方になるなんて……」と海人が言う。隣で見ていた木下藤子は、
……ふと空を見上げ、次にスマホを取り出した。
「木下、ダメだよ。大会は撮影禁止だよ。一昨年の大会で、子供達の画像が無駄でSNSに上げられてたからね。」
「あ、ごめんなさい、違うの。ほら見て、西から低気圧が接近してるみたいなの。朝はあんなに晴れてたのに……」
急速に空が暗くなり、2月始めの関東では珍しい、湿り気のある空気が辺りを覆っていくのが感じられた。
土俵上では、真北少年が小柄な体格を活かして、腰をぎりぎりまで落とすように大きく脚を開き、
背骨をピンと湾曲させた状態で上体のみを起こし、蓮の懐に入り込もうとしていた。
真北少年は、蓮のまわしに4本の指を差し入れて、思い切り下に向かって引っ張ろうとする。
観戦しているカーリードリルツイン少女、赤穂時雨が「きゃーー、蓮くん、カッコイーー!そんな奴、仏転してー!」と目をバッテンにしながら叫ぶ。
「うひゃ??!」と蓮が悲鳴を上げ、対戦相手の冷たい手のひらが、尾てい骨辺りからまわしの中に侵入したのを感じた。
「な、なにするんだ??」と言って蓮が飛び退く。
葉南は、フッと笑い、「お前は、設楽居睦美が好きだと言っていたな。」「なんだ?突然?ああ、その通りだ!でもな?睦美ちゃんはお前には渡さない。…しかしお前の本当の狙いはなんなんだ??」
「ではお前は女が好きなんだな?」「?」
葉南は一瞬動きを止め、
…ペイントされた自分のまわしの前側を意味ありげに縦向きに指差した。
「なんだ?なんのつもりだ??」
「視覚と頭では理解出来ていなくても…体は正直だな?」
「何を言っている……?」そう言いながら蓮は違和感を感じ、自分のお腹の下を見下ろした。
………。
……緩んだまわしの下で、蓮の体の一部が前方に向かって膨らみ、バネのように突っ張って…、今にも帯が前側から外れそうになっていた……。
「な??」と蓮は慌てて前を抑え、内股になって腰を引いた。「な、何故だ?!」
行司が「ほら!逃げ腰はよくないよ。取り組みをして!ノコッたノコッた~!」と少年達を駆り立てようとする。
観客達は美少年の顔に集中するあまり、下の方で起きている事態に気付いていなかった。
その時だった。
勝負に集中していた2人の少年の頭上で、いつの間にか真っ暗になった空から、冷たい雨がポツポツと振り出してきて、すぐにそれは勢いを増していった。
ザァァァァァァァァァァァ………
葉南は「まずい!」と太ももを流れ始めた紫色の塗料を手で抑え、
「チッ、これまでか!!」と言って土俵から飛び降りると、どよめく観客をシリ目に、一目散に会場から走り去っていった。
呆気に取られた様子の観客たち。土俵上に1人取り残された蓮は、冷たい雨に打たれながら、行司より
「勇み足~、向井蓮くんの勝ち~」と勝利を告げられた。
片手で、ずれたまわしを支える蓮は、駆け寄ってきた時雨にブルゾンを肩から掛けてもらうと、「ハックション!」と大きなくしゃみをした。
そのまま大会は、雨天中止となった。
優勝者は無し。大人たちの間で相談があり、向井蓮が敢闘賞を受賞することが決まったのだった。
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…児童館から出てきた五十嵐葉南は、
前もって隠しておいた昭和レトロ風少女服(ナンバー2作)を着込み、上から茶色いポンチョを羽織ると、前髪をクリップで留めておでこを出していた。
……作戦は完全に失敗ね……。
葉南は児童館で借りた忘れ物の傘をさし、会場に戻っていった。
途中、苦咀食い少年とすれ違い、すっかり憔悴しきった様子の彼を見て、クスッと笑いながら見送る。
葉南は、テントの中で雨宿りしている設楽居海人の姿を見つけて、「お兄さん」と声をかけた。
先に振り返った木下藤子が、「あら、かわいい」と言って、にこやかに葉南をテントに迎え入れる。
「お兄さん、先日はありがとうございました。」
「ああ、君は…」と言って海人が笑顔になる。「全能研の子だよね。あれから大丈夫だった?気になってたんだよ。」
「はい。おかげさまで。」と葉南が恥ずかしそうに笑う。
雨がテントの屋根を激しく打ち、散り散りになった観客や役員達が児童館へ避難する姿が見えた。
「え、カイト、なに?この子と知り合いなの?」と藤子が言う。
「はい。前にボクが倒れた時、お兄さんに救護してもらったんです。」と葉南が顔を赤くしながら呟いた。
……ボクっ子だ……初めて見た……
と藤子は思い、この可愛らしい人形のような少女を思わずジロジロと見つめてしまった。
海人が「ちょっと待ってて、あったかいココアを貰ってくるから」と言って頭からジャンパーを被り、テントの外へ走り出す。
「あ、お構いなく……」と葉南は言い、…すぐに藤子の方に向き直ると、
「お姉さんは、お兄さんと付き合ってるんですか?」と小さな声で尋ねた。
「ぬはッ??!」と藤子は叫び、「カ、カ、カ、カイトはマジメだから…そ、そ、そういうんじゃないの!!そ、そこらへんにいる有象無象の男子と違って、お、お、女の子と付き合うとか、そーいうのキョーミないの!や、優しいけどね?!特に私にはね?!」と、あたふたしながら手をバタバタとさせ、「でも、た、多分私がカイトの一番のお友達だからね?!そこんとこ、誤解のなきように…」と言った後、しゅん…となって項垂れてしまった。
「そうなんですね。…ときにお姉さん…お兄さんのインポータントチェックはしましたか?」「インポータ……て、なにそれ?」
「つまり、お兄さんにとって、お姉さんがどれだけ重要かのチェックです。ちなみに出会ってから、どのくらいたちましたか?」
「そ、そうだよね……考えてみれば、もう結構たってるはずだもんね……たってないとおかしいよね…」しゅん……。
その頃、敢闘賞を貰った向井蓮は、……自分が…真北少年にオシリスを触られて…無意識のうちに嬉し恥ずかしな生体反応を起こしてしまったことに、……しゅん、と落ち込んでいた。
「どうしたの?元気出して!蓮くんは勝ったのよ!あわよくば、これで飛鳥めいずと婚約解消よ!」と小躍りしながら、赤穂時雨が嬉しそうに言う。
「あ、うん……」と蓮は小さな声で答え、しょんぼりと背中を丸めると、雨から雪に変わる景色を溜め息と共に見つめるのだった。
『Battle of the Man』




