ヰ53 救世主
近くのベンチに少女を座らせて、設楽居海人は、
自動販売機で温かいコーンポタージュを買ってきた。
「おい、なんだこれ、冷え冷えじゃないか。」と言って少女の元に戻ってくる。
「あ、冷たいコーンポタージュですか……」と少女が赤い顔をして言う。「写真を撮っておかないと…」
「何を言ってるんだい?」と言う海人の手から、少女は冷たい缶を奪い額に当てた。
「きもちい……」
「大丈夫?」と海人が言う。
……この子、むつと同じくらいの年かな?
「僕の名前は設楽居海人。心配しないで。すぐに家族の人が来てくれるよ。」
少女は目を閉じて海人の肩にもたれかかってきた。「ごめんなさい。まっすぐ座っているのがキツくて……」
「いいよ、いいよ。気にしないで。楽な姿勢になるといいよ。」
その言葉を聞いて安心したのか少女は、海人の二の腕に熱い手を添えて体重をかけてきた。
海人は体をあまり動かさないようにしながら、自分の愛・不穏をコートから取り出した。
それを見た少女が「……やっぱり変態だ……。体の自由がきかないボクを撮影しようというんですね……」と口の中でモゴモゴと言った。
「ん?」と言って海人は「あ、スミマセン、今日、数Ⅱの授業を受ける予定だった設楽居海人と申します。はい。今日はそちらに行けなくなりました。はい。スミマセン…。」と言って電話を切る。「全脳研の方は君の家族が連絡してくれるよね?」
「今言ってた数Ⅱってなんですか……」と少女が海人の腕にしがみつきながら聞いてくる。
「ああ、高校生でやる数学だよ。つまり難しくなった算数。」
「お兄さんは高校生だったんですね……どうりでズル剥け…」「いやいや、僕は中学生。そして、これはズル休みとは言わないんじゃないかな。」「ごめんなさい。ボクのせいですよね……で、数Ⅱって何をするんですか?」
「ん、聞きたい?体は大丈夫?」「はい。聞きたいです。」
「有名なのは微分積分だね。一度は聞いたことあるでしょ?」「いいえ。」
「そうだね……小学生でも分かるように説明すると…。図形の面積を求める公式を考えるといいんだ。『面積×高さ』ね。
積分と微分は逆の計算でね、ある関数を微分して、それを積分すると元の関数に戻るんだ。例えば積分は、図形の面積を出す時に使えるよ。で、面積を微分すると、元の関数に戻る。どう、面白いでしょ?」
「……うん。面白い…」と言って少女は海人の脇辺りに顔を埋め、心待ち膝丈の紺色のコートの中で脚を開いた。
「冷たくてきもちい……」と葉南はベンチの下から流れ込んでくる、ひんやりとした風を素肌に感じながら呟いていた。
海人は困ったように、脇の下にあたる少女の湿った息を居心地悪そうに意識の外に置き、
背中を丸めた彼女の首の後ろで捻れた、緑のマフラーを見ていた。
葉南は…、男性の暖かくて硬い胸板の奥で、心臓が脈打つ気配を、ピクッピクッと感じながら、
……こうやってボクが身体を寄せたせいで、男の人が、心臓をドキドキさせているんだ……すごく熱い……そして石みたいに硬い……、女の子のと…全然違う……と考え、
彼の脇の間に埋めた、顔の中央が、…鼻水でぬるぬるに湿っていくのを止めることが出来なくなっていた。
男の人に身体を預け、どんどん濡れていく鼻。彼はそれに気付いている。恥ずかしい……。
濡れた感覚が気持ち悪いはずなのに…葉南は、ぼんやりとした頭で、そこを必死に彼の硬い筋肉質な身体に擦り付けていた。
海人は片手にティッシュを用意して「うへっ……」と思いながら、少女の頭を優しく引き剥がし、
白くねばついて、所々黄色くなった粘液をティッシュで拭き取る。
そして「もうちょっと出るかな?」と言って、少女の小さな鼻をくるんだ。
少女は熱のせいか、腑抜けたような表情で、口から頬にかけて白い鼻水の飛沫を散らしていて、
海人はそれを丁寧に拭き取っていった。
「へんたい……」
と少女が呟く。
「ん?」と海人が聞き返す。
「ボクはまだ6年生だよ。こういうの…まだわかんないよ……」
「そっか……。君にはまだ、微積分は早いよね……僕だって、今はまだ三次関数に手を出すより二次関数にとどめておく方がいいと思っているくらいだからね。」と海人は、ぬるつくティッシュをポケットに捩じ込みながら言った。
「……そうだよ、お兄さん。三次に手を出しちゃダメだよ……二次で我慢しなきゃ…」と葉南は言って、海人の脇腹にぎゅっと腕を回してきた。
男は皆、炉利昆虫。
……それでもこの人は…、欲望を二次元にとどめて、理性で抑えている……。
まあ、それはそれでキモいんだけど、それが男というもの……。でも、この人は……リアル三次元の女児を目の前にしても尚、二次を語る清教徒なのね……
………。
やはりこの人は救世主なのかも知れない………。ふえぇぇ、にゃんだか…しゅごく、にぇむい…………ぐう……
「ちょっと貴方!何をされているのですか?!離れなさい!!」
海人が驚いて顔を上げると、
ゴミ袋のように光沢のある、黒いコートに身に包んだ女性が、くびれた腰に手を当てて、真紅のマスクをした顔をこちらに向けて立っていた。
「あ、あなたは……?」と海人が少女を守るように背中に手を回した。
「その少女から離れなさい。」
「いや、まず名乗ってくださいよ。逆に怪しいですよ、あなた」
「私はその子の保護者です。」そう言うと黒ゴミ袋セクシーコート女は、ポケットからスマホを取り出し、サッとタップすると、
ププププププ……
と、手元に置かれていた少女のスマホが震えた。
「はい。」
と海人が電話に出ると、前にいる女の声が少しズレて耳に入ってきた。
「分かりましたか?その少女から離れなさい。」
海人は、少女が倒れないように、彼女の肩を掴みながらそっと立ち上がった。
「すみませんでした。…あの、この子、寝ちゃったみたいです。…駅まで僕も送りますか?」と海人が言う。
「その必要は御座いません。……こちらこそ失礼致しました。後日、改めて御礼をさせて頂きます。差し支え無ければ、御名前をお伺いしておいても宜しいでしょうか?」と、黒いラテックス風、ゴミ袋コスプレ衣装を着た難波鶴子が、五十嵐葉南の体を回収しながら言った。
「あ、いえお構いなく。」と海人は答える。
彼は少女のスマホを、ドギマギしながらこのセクシー女性に返却し、「あの、気を付けて…お帰りください。」と言って手を振った。
海人は、少女が背負われて駅の方へ去っていくのを見送り、
……ほお……と溜め息をついた。
な、なんだったんだあのセクシーコスプレ美女は……親には見えなかったぞ?お姉さんかな?
でも、まあ。人助けが出来て良かった。
……………ひゅうぅぅぅぅぅ
おー、寒。今日は帰ったら風呂入って寝よ……。
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「おつう、ご苦労様。」
ネルネはすでにナイトガウンに着替えており、ベッドで上半身を起こして、
橋渡しにしたナイトテーブルにホットミルクを置くと、レースの布カバーをした新書から目を上げた。
「あの子は大丈夫?」
「はい。忍者活動に専念する余り、風邪をひいたようですね。念の為、明日無頼孔雀先生の所の発熱外来にお連れ致します。」
「よろぴく。」
「葉南さんを助けて下さった男性には、何か御礼を致しますか?」
ネルネは少し考えるような顔をして、
「ああ、おジャガが言っていたリア獣の男子のことね。どうかしら。別にいいんじゃない?」と言った。
「ところで、ネルネ様。ネルネ様こそ大丈夫ですか?先日、御倒れになられてから、私、心配で……。ネルネ様こそ御無理を為さらずに。毎夜の御勉強も程々に、余り夜更かし為さらずに…早く御休み下さいませ。」
「ありがと。大丈夫よ、おつう。」
「ネルネ様。ベッドの下に御虎子と詩憫を御用意しておりますので、御好きな方を御使い下さい。辛い時は御手伝い致しますので、…何時でも御呼び下さいませ。」
「……………。まあ、いいわ。それより早く松葉杖を仕上げて頂戴。それこそ乙女淹れに行くのも大変なのよ。」
「……私が肩を御貸し致します。乙女淹れの度に御呼び頂いても結構です。」
「いいから早く仕上げなさい。」「はっ…」
おつうが出ていった後のベッドの上で、ネルネはしばらく新書を読んでいた。
ん……この作者はクソね。『上に立つ人間が犯す七つの大罪』。
ネルネは体をずらし、ベッドの下を覗き込むと、蓋付きの、レトロな花柄が印刷された陶器の御虎子を取り出し、中にブックカバーを外した新書を捨てた。
………。
葉南の回復を待って、救世主への対応は引き続き考えるとして……。気になるのは、呆痴彼女と救世主との関係よね。
ネルネは愛・不穏を取り出すと、すでにインストール済みのアプリを立ち上げてみた。
………。
高齢で妙齢の狼少女育成ゲーム……。
……何が面白いのかしら、これ。
まさか救世主がこれのファンってこと??…だとしたら選ぶキャラは炉利ではなく、世苦死ー系で、神御陸奥装備が末期医療な、この尾刀 水鳥 (122)かしらね。
ふむ。…あほらし。
でもこれで、鈍器法廷のバレンタインイベントが俄然、意味を持ってきたわね。そこに集まる全国の弱者男性の中に、救世主が紛れてくる可能性だってある。
ひと悶着ありそうだし、おつうには杖の完成を急がせよう。
ネルネはふと思い付いて、もう一度体を傾けると、ベッドの下から、アンティークなガラスの詩憫を引っ張り出してきた。そして、手元のメモ帳の切れ端に
『おつうへ。バレンタインまでに杖を完成させてくれたら、ホワイトデーは、何かお返ししてあげる。何が欲しいか考えておいて♡』
と、辛うじて判読可能なミミズ文字を書き込み、
くるくると丸めると、詩憫の中に差し込んだ。
……後はこのまま海に流しておけば、おつうが異国の海岸で拾って読むわね。 と楽しそうに笑い、ガラス瓶をベッドの下に押し入れると、ネルネはウミウシ型の枕にぼふんっと頭を乗せ、……お休みエロフ達……と目を閉じるのだった。
『Messiah』




