ヰ37 嵐の前の静けさ
隠れ里の忍び少女、6年3組、飛鳥めいずは、
母親と一緒にジムに併設されたサウナで、黒の競泳水着のまま並んで座っていた。
サウナ内には、他に誰もいない。
滴る汗を首すじに感じながら、めいずは「お母様。」と言った。
「ご無理をなさらずに、もうお出になられたらいかがですか?」
「そうね。そろそろ頭がふらふらしてきたわ、めいずさん。おっしゃった通りお母さんは、先に出るわ。あなたはどうするの?」と、首の長いストレートヘアのマダム、飛鳥 紅花が、タオルを巻いた頭から流れてきた汗に、目を充血させながら言った。
「私はもうひと泳ぎしてから帰ります。」
「そう。じゃ、気を付けてお帰りなさい。お母さんは先にバスで帰りますね。」「はい。わかりました、お母様。」
………。
その後めいずは25メートルを水遁の術で泳ぎ切れるかを何度か挑戦し、さすがに疲労が溜まってきて、プールサイドの梯子を登りにくくなってきた頃、
ようやく帰り支度を始めた。
ぺたぺたぺた……。めいずは生暖かいプールサイドを横切り、ロッカールームに入り、水泳キャップを取り、髪を軽く絞った。
鏡に映るのは、水で洗われた素の飛鳥めいず。このジム内では、不本意ながらめいずは美少女形態で過ごすことを余儀なくされていた。
さてと。
…………しゃわあああああ……………。
煙玉のような湯気に身を隠しながら、備え付けのタオルに身体を包んだめいずは、シャワールームを出ると、ロッカーに手をかける。
……ん?
………そういえば…、鍵、どこかしら……。
あれ?
………。
ひょっとして、まさか、お母様が持っていった……?
真剣ですか。
めいずは、顔が青ざめていくのを感じたが、努めて冷静を装おって、誰もいないロッカールームをキョロキョロと見回していた。
……まずいわ。このロッカーには、私の忍びセットが全て入っているのよ。スマホもこの中だし……。
…ロビーの方に言って開けてもらわなくてはいけないわ。あら、あそこに内線電話が。
めいずは、髪に巻いたタオルを一度ほどき、ドライヤーで髪を乾かすと、
一旦呼吸を整えてから、内線電話の受話器を取った。
「あの……私、こちらの施設を利用させてもらっております飛鳥めいずと申します。どうやら母がロッカーの鍵を持って帰ってしまったようで……」
「あ、ハイ。すぐにそちらに伺います!」と若そうな女性の声が聞こえ、数十秒後に慌てた様子の背の低い、まだ女子大生のように見えるスタッフが駆け付けてきた。
「ど、どうかされましたか??」と、あたふたとした女性スタッフが、意味もなく身振り手振りをしながら聞いてくる。
「は、はい、先程お話した通り……鍵を母が持ち帰ってしまったようで……」
「お、お名前は……っ?」「え?母の名前ですか?」「あ、い、いいえ、あなたのお名前です。」「はい。先程お話しした通り、私の名前は飛鳥めいずと申します。」
「あ、飛鳥……めいずさんですね……」と、女性スタッフは首から提げたスマホを…近眼なのか、顔の目の前に持ってくると、画面を何度か指でスライドし、「あ、ありました、ありました……あすか…めいずさん……ですね…。」と、あちこちをスライドしたりタップしたり、挙げ句の果てに、画面が勝手に回転してしまったのか、左右に振ったりしていた。
……そして、めいずの顔をじっと見る。
「ええーっと……。こちらに登録されているお顔と…あなたのお顔は随分違うようですが……」
そう言いながら、この女性スタッフは、めいずに向かって画面を見せてきた。
……そこに映っていたのは…地味な真ん中分けの三つ編みで…、ボサボサの眉毛、ソバカスに毛穴の黒ずみ、唇の色は薄青く、眼鏡の奥の瞳は澱んだ、冴えない女子の頬のこけた顔だった。
「この、陰グリッシュキャンプ少女と…貴女のような麗しい英国貴族少女の間に、きょ、共通点はない気がしますが……。」
「ええ。でもそれは私です。」
「あ、あの……身分証かなにかは……」と女性スタッフが言う。
めいずは、自分のバスタオルを巻いただけの身体を見下ろし、「……え、えーっと。メンバーカード類も全てそのロッカーの中です。あ、ではお電話をお借り出来ませんでしょうか?母に連絡致しますので…。」と言った。
「ちょ、ちょっとお待ち下さいませ!き、規則を確認しますので……」と女性スタッフは目に見えてテンパリングしながら、スマホをタップしてはフリックを繰り返した。
「あの……早めにしていただけると、大変助かります……。勿論悪いのは私なのですが……」
「あ、はっ、も、申し訳ございません!!あの…か、確認しておりますので、もう少々お待ち下さい!!」…そう叫ぶと、彼女はより一層焦って、ほとんど泣きそうになりながら、ぴゅーっと、どこかへ走り去っていってしまった。
「ちょ、ちょっと……お待ちを……」めいずはタオルを巻いた胸元を片手で押さえ、もう一方の腕を、走り去る女性スタッフの方に伸ばしていた。
「あら、どうしたの?あなた、何か困ってる?」
と、背中側から声がして、めいずはゆっくりと振り返った。
そこに立っていたのは、まだ渇き切らない髪をタオルで挟みながら拭く、スポーツウェア姿の女子だった。
めいずの顔を見ると、彼女は一瞬怯んだような素振りを見せたが、何とか自我を持ち直して、鼻をツンと立て「どうかしたの?」ともう一度言った。
「はい。」とめいずが答える。「実はロッカーの鍵を、母が持って帰ってしまいまして。」
「あらそうなの?困ったわね。ジムの人には言った?」と少女が言う。
「ええ。言ったのですが、規則がどうとかで、向こうへ行ってしまいました。あの……すみません。宜しければ電話をお貸しいただけないでしょうか。……母に電話したいのですが。」
「ん?電話?ああ、どうぞ?」と、今の瞬間まで、めいずの美貌に気圧されていた少女は、
急に勝ち誇ったような笑顔で、足元のベンチに置かれたボストンバッグの中を漁り出すと…、
きらめくカバーを見せびらかすように、愛・不穏17を取り出した。
「どうぞ?オホホホ……」
「あ、ありがとうございます……。」
めいずは、少女の態度の急な変化に戸惑いながら、きらめくピンク色の爪で愛・不穏を受け取った。
「オホホホ、初めて見たかしら?最新型よ!」と少女がまだ乾いていないカーリーヘアを掻き上げる仕草をしながら頬を上気させる。
「……あの、これどうやって電話をかけるのでしょうか……。私、愛・不穏を初めて触るものですから……。」
「あら?あなたスマホはまだ持ってないの?何年生?どこの小学校?私は6年生よ、まあ、正直、うちのクラスでも17を持っているのは私だけですけどね!!」
気取った様子で、めいずの横から顔を覗かせて、最新カジェットの画面を何でもなさそうに操作してみせる少女は、「……あなた、まさかアンドロイドとかじゃないわよね?あなたさ、それなりに?まあ、可愛い方だし?愛・不穏にしといた方がいいわよ??」
「……はい。ご忠告ありがとうございます……。ところで、この17…、16と何が違うんですか?」
その質問を待ってましたとばかりに、少女は……
「A19チップによる処理能力の向上!セフレッシュレート120Hzの舐めらかなディスPlay!eSM対応、あと何と言ってもカメラの性・能・が凄いのよ!それに見てよこの大画面!物凄い進化よこれは!まさにユーザーにかつてない新しい体験を提供していると言えるわ!……若い世代のクリエイティブな感性を満足させる、新しい価値観の創生を目の当たりにしているようね……」
……と、一気に喋った少女は、はあはあ……と肩で息をし、めいずの背中をポンと叩いた。
「はあ。そうなんですね。それは凄いですね。」とめいずが言い、耳から少し離れたところで愛・不穏を構えると、「あ、もしもし?お母様?……見慣れない番号だと思いますが、出てくださると助かります。めいずです。ロッカーの鍵をお持ち帰りになりませんでしたか?」と言った。
めいずは溜め息をついて、「ありがとうございました…」と言って愛・不穏を少女に返した。「ダメです。留守番電話でした。母は知らない番号には出ないかもしれません……。」
「ん?あなた、めいずって名前なの?何処かで聞いたことがあるような……。」
まずいわ……と、めいずが片手で顔を隠す。
愛・不穏を持った少女は、目を細めてこちらの顔をじっと見てきた。
「私は、星明第二小学校6年2組、出席番号1番!赤穂 時雨よ!あなたどこ小??あんたがたどこしょ!」
めいずは、溜まらずその場を逃げ出そうと踵を軸に旋回した。「ちょ、待ちなさいよ!バスタオルのままでいいの?!」と時雨が、めいずの手を掴もうとする。
……その拍子に彼女のタオルがはらりとはだけ……「あ」と言って振り返りながら落ちる布を拾おうとするめいずの、陶器のように白く滑らかな肢体が露になった
……。
そして、その体の中心に…きらきらと黄金色に輝く…柔らかに波打つドビュッシーの五線譜が、時雨の視界に入った……。
…………?
…………。
え………。
ちょっと??ぢ、地毛が亜麻色です…と……?!
咄嗟にビーナスのポーズで身体の大切な上とわいせつな下を隠しためいずの、俯いた時に見えた黒髪の生え際が…微かに明るい茶髪なのを時雨は確認した。
な、なにこの美少女……スペックが……ズルい……。
時雨が呆気に取られて、ポカアンとした顔をしていると、
ロッカールームに二人連れのスタッフが戻ってきて、タオルを身体に巻き直しためいずの前に立った。
「飛鳥さま、申し訳ございません!大変失礼致しました!」と年上の方の女性スタッフが頭を下げる。
そして、後は時雨の見ている前で、めいずは
……タイヘンタイヘン!とあれよあれよという間に別室へ連れ去られていった。
な、なんだったのかしら……。
飛鳥めいず……?なんか何処かで聞いた名前のような……。
でも、うちの学校にあんな美少女いたかしら……。
まあいたかと言われればいたか……。今年の5年にはゴロゴロ美少女がいたわね。でも、あの子、そもそもうちの学校かしら?
あー、恐ろし……。あんなのに関わっていたら、こっちの命が幾つあっても足りないわ……。
ふと時雨の脳裏に、美少年、向井蓮の笑顔が浮かぶ。
世の中にはライバルが沢山いるものね……。
……私も、もっともっと美を磨かなきゃ………そうだ、もう一度泳ぎに戻ろっと。
赤穂時雨は1度脱いでいた競泳水着に、再度着替え直すと、
決意も新たに、小さな飛び込み台に登った。
遠くから見ていた監視員は、少女がビチャン☆とプールに飛び込む姿を確認するとピーッと笛を鳴らした。
『The calm before the storm』




