ヰ31 地球温暖化会議
その夜、設楽居家では、地球規模の緊急兄妹会議が開かれていた。
「つまり俺は…、むつのクラスメイトに脱炭素運動(略して*脱運*)する音を聞かれてしまったということで……、いいんだな?」
絶望にも似た表情で、設楽居睦美の兄、海人は一言一言を噛み殺すように言った。
「……お兄ちゃん、めいずちゃんはクラスメイトではないわ……。隣のクラスよ。」
「……そうか。それは良かった……とはならないだろ?」と、海人は静かに言った。
「安心して、お兄ちゃん。めいずちゃんはね、幼い頃、高度成長期の中国で修行をしてきた忍者だから、high-sets-onくらい聞こえても、気にしないはずだわ……」と睦美が言う。
「中国で修行してきた忍者ってなんだよ。忍者は日本のものだろうが…。」
「お兄ちゃん?日本の文化の多くは中国由来なのよ?もっと国際的な観点を…」「ちょっと待った!話の論点がズレまくってるぞ!」
「ごめんなさい!お兄ちゃん、怒らないで!!」と睦美が頭を抱えて縮こまる。
目をギュッとつむって小さく震えている妹を見て、設楽居海人は溜め息をつき、「……わかった。もういいよ。…電話の向こうの子も、こちら側の状況がハッキリとはわからなかっただろうし……むつ、今度から個室に携帯は持ち込むなよ……今度やったら……。俺だって手洗なマネはしたくない。」
「怒らないで…お兄ちゃん。」
怯えた顔の睦美を見て、海人は少し笑った。
「アハハ。妹相手に腹を勃てる兄はいないよ。」
「全然、勃たないの……?」と睦美が上目遣いで聞いてくる。
「ああ。それにまだ、むつは子供だからな。全く勃たないよ。」と言って海人が微笑む。
「…嘘よ。殺気、音入れの前で、すんごく怒ってた。」
「まあ、そりゃ、あの時は音が入ってたから…」「嘘!その前から腹を勃ててた!扉を開けた時お兄ちゃん、今思えばなんか怖かったもん!いつもの優しいお兄ちゃんじゃなくて……知らない男の人みたいだった…」
「むつ?だって、あの時はもう今にも出そうだったし、…ほら、それに我慢し過ぎると固くなって後で出にくくなるだろ?出したい時に出さなきゃ。」
「…固くなるの?」と、睦美が小さな声で言う。
「いや、この話はもうやめよう。兄妹でする話じゃない。もっと、その、爽やかな話をしようよ……。」
「ねえお兄ちゃん?」「ん、なんだ?」
「妹相手に腹を勃てないとしたら、……その…違う女の子に対してならどうなの?例えばクラスメイトの女の子に、普段は見せない嫌な部分を見せられたとしたら…」と、睦美が言いにくそうに言葉を搾り出す。「腹が勃っちゃうの…?」
「え?なんだよ、その質問、…気になるのか?」
ん。と睦美が黙って頷く。
「まあ、そりゃさ、相手が他人で、それなりに対等な関係であったならさ、普段隠している素の部分を見せられたりたら、そこが、まあ、あれなら…腹を勃てたりもするさ。まあ、いけないと分かってはいても、…こういうのは理性で抑えられないものだからな。でも腹を勃てたりしても、実際は態度に出したり、それこそ行動に移すことはないかな。でも、むつ?だいたい俺は家族以外の女子の、そんな部分を見たことないから。」
「……じゃあ、私のそういう部分って……嫌?…汚ない?……醜い?」と睦美は言って、少し目に涙を溜めた。
海人は微かに驚いたような顔をした後、優しく微笑むと、「いや、むつ?そんなこと言うものじゃない。……むつのそういった部分は、本当の意味では汚くなんかない。人間の、……女の子の、そういった部分は、確かに人に見せるようなものではないけれど…、汚いなんてことはないよ。むしろ自然で、人として魅力的に感じる部分かもしれない。」「ほんと……?」「ああ。本当だ。特にむつは、お兄ちゃんが見たことのある限りでは、まだ毛がれ無い、綺麗でまっすぐな、子供のままの心を持っている。……今でもそうなんだろ?」「……うん。そうだよ…。」
「かと言って、むつがこの先、色々なことを経験し、表面上、変わってしまったとしても……お兄ちゃんは本当のむつを知っているから。だからね、むつは汚いなんて自分のことを言っちゃ駄目だよ?」
海人がそう言い終わると、「お兄ちゃん!!」と言って、睦美が胸に飛び込んできた。
ぎょっとした様子の海人ではあったが、一度目を閉じた後、思い直し、………そっと妹の頭を撫でてやった。
「お兄ちゃん…」「なんだい?」
「ここ、凄く固くなってる…………腹筋。」
「ああ、中学に入ってから鍛えているからな。」
「カッコいい……」と睦美は呟き、そっと兄のお腹をトレーナーの上から触った。
「かいとく~ん、むーちゃん?湯たんぽ使う~?」と、彼らの母、設楽居花織がピョコンと顔を出し、
慌てた兄妹が飛び退くように体を離した。
「あら?あなた達、ほんっと~に仲良しこよしねぇ。ママ、ちょっと嫉妬しちゃうわあ。」
そう言ったかと思うと、かいとく~ん、と花織が、息子の体にしがみついてくる。
「ダ、ダメだよお母さん!?私のお兄ちゃんなんだからね!」と言って、睦美も海人に抱きついてくる。
富士屋のピコちゃん大、小に挟まれた設楽居海人は、「待った、待った!いったいうちの女子はどうなっているんだ?!」と叫んだ。
「え?かいとくん、ママのことも女子って言ってくれるの?うれし~」
「……ほら、ほら、もう、定期テストも近いんだ!そろそろ俺も勉強したいから、2人共出ていってくれないか?!」と海人が大きな声を出す。
「ちぇぇぇ…かいとくんのいじわるぅ」と言って唇を尖らせた花織が、体を離した。
「母さん?確か母さんも薬剤師の勉強するって言ってなかった??ほら、こんなとこで怠けてないで、部屋に戻って!」
「そうよ?お母さん。出てって!ヤクザ医師の無頼孔雀によろしくね!」と睦美が手を振る。
「コラ、むつ!お前こそ最近、小テストの成績悪くなってきてないか?お前も勉強しろよ。」
「いやーんお兄ちゃん、怒らないって言ったじゃない?うぇ~ん」
「わかった、わかった。少しだけお兄ちゃんが勉強を見てやるから。それが終わったら今日は出ていけよ?最近、毎晩のように部屋に来るから、こっちも勉強が進んでないんだ。」
「うぇ~ん」
***************
「さて。」
と、設楽居海人が、妹を自分の学習机に座らせながら、背中側からノートを覗き込んで言った。
「むつの苦手が見えてきたな。……社会と理科は比較的得意。国語と算数がちょっと怪しいな……。算数はね、文章題があるし、国語の能力も求められるんだ。問題を読み解く力と、それを説明する為には国語の勉強も必要になるんだよ。よし。課題を何個か作っておくから、明日からやっておくように。どうせ毎晩部屋に来るなら、ここで採点と解説をしてあげよう。」
「お兄ちゃんは、家庭教師か、塾の先生に向いてるのかもね……。」
「ああ、我ながら向いてるんじゃないかと思うよ。どこかに困っている人達がいたら助けてあげたい。」
「呆痴彼女のお世話も好きだもんね。」
「そうそう、そうなんだよ。尾刀 水鳥(122)の週末医療はお世話のしがいがあるよな? 」
「今からする?」と睦美が期待を込めた目で振り返りながら言う。
「バカ。しないよ。試験が終わってからって約束だろ?」
「ちぇぇぇ…」
「全く。うちの女性陣は……。あ、そうだ、むつ?試験が終わったら一緒に新宿に行かないか?」
「新宿?急にまた、なんで?」
「丁度バレンタインデーに合わせて、新宿の鈍器法廷で、呆痴彼女のチョコが出るんだよ。」と、恥ずかしそうに海人が頭を掻きながら言う。
「え……二次元彼女のチョコって……。お兄ちゃんたら意外に我恥勢……。そ、それ大丈夫なやつ?アウトなやつじゃないの?…チョコなら毎年、お母さんと私があげてるじゃない。それじゃダメなの?」
「いや…、それはそれ、これはこれ。」
「…お兄ちゃんてさ、妹の贔屓目を差し引いても、結構カッコいいと思うんだけど…、今まで他の女の子からチョコもらったことないの?」と睦美が何気ない素振りでシャーペンを机の上で転がしながら言う。
「いや、ないよ。」と海人も何でもなさそうに答える。「だいたいさ、むつ?こういうのって、実際に貰ったっていう人に会ったことあるか?聞いたとしても、大抵知り合いの知り合いが貰ったとかさ?……そもそも女子が好きな男子にチョコをあげるとかって、本当にそんな行事が行われているものなのかな?俺達チョコレート会社になんか騙されてない?少なくとも俺は自分の目では見たことがないな……。」
……可哀想な兄上……。
睦美は涙ぐみながら「わかったわ、新宿に一緒に行ってあげる。一人じゃ流石にAI彼女のチョコとか買いにいけないでしょうから……」と言って、兄の腕を触った。
「ありがとう。悪いな、むつ。でもお前も呆痴彼女、楽しんでただろ?
チョコは個数制限があるからさ、2人で行けば2倍買える。」
「そ、そんなに買ってどうするの?」
「俺、ゲームに課金してないからさ。いつも基本無料で遊ばせてもらってる分、今回のチョコを沢山買うことで、運営に感謝を伝えられるんじゃないかと。」
「まあ、そういうことなら……」と睦美は呟き、……や、やった。図らずも兄上とデートの約束を取り付けてしまったわ。棚からボンタンモチ……。と心の中でガッツポーズを取っていた。
……ところでボンタンモチと言えば、食べると音入れに行かなくて済むようになる、ってバズってたけど、本当かしら?
……でもよく考えたら学校の和風、2つだけになっちゃったわけだし、全校生徒で和室の取り合いになる可能性を考慮して、万一行けなかった時のために、念のため朝、ボンタンモチを食べていった方がいいかしら……。確かお菓子籠にあったような……。
「じゃあ、むつ?そろそろお仕舞いにしようか。もう自分の部屋に帰りな。これからお兄ちゃんは夜遅くまで勉強するから。」
睦美は、椅子をくるりと回し、兄の部屋の中央にある緑色の丸いカーペットを見つめた。
……あの下にある秘密の沁みの効果は継続しているはず。ここは私のなわばりよ…。「…お兄ちゃん?……睦美もここに机持ってきて勉強しちゃダメ?分からないところがあったら聞きたいし……。」
「へえ。感心だな。まあ、あんまり遅くなり過ぎないならいいよ。」と海人が言う。「じゃあ、そこのホットカーペットをつけなよ。夜は冷えるから。」
睦美は緑色の丸いホットカーペットから伸びたコードを引っ張り出し、
壁のコンセントに差し込んだ。
そしてスイッチを入れると、数分後に…、
……温められた空気と共に、カーペットの下に隠された睦美のマーキングから、……微かな残り香が、ゆっくりと立ち昇ってくるのに気付き、
兄妹は無言でペンを動かし続けていた……。
『Climate Change Conference』




