ヰ24 鶴の恩返し
コンコン
数回のノックの後に、扉が薄く開く。
「おつう?ちょっといいかしら?」
松葉杖を突いたネルネが、少し前のめりになりながら、扉の隙間を覗き込む。
「あ、ネルネ様……。少しお待ちください。今すぐそちらへ伺います。」
「了解。じゃ、ここで待たせてもらうわ。」
そう言うとネルネは、蛍光灯で照らされた灰色のコンクリートの壁に寄りかかり、
前方にパラシュートのような白いスカートを飛び出させて目を閉じた。
数十秒後に、鈍器メイド服・改を纏った難波鶴子が出てくる。
その時も彼女は注意深く、扉を自分の体の幅ギリギリに合わせて開き、中の様子が分からないように素早く廊下へ出てきた。
……その拍子に飛び出した彼女の胸部が扉に若干ぶつかり、巫女風に右前に閉じた襟が引っ掛かる。
鶴子は、手際よく右手をそこへ差し入れて、着衣の乱れを直した。
「御待たせして…申し訳御座いません。」
「いいのよ。」とネルネが表情を変えずに答える。
「このような寒い所で御辛い姿勢のまま御待たせしてしまい、誠に申し訳御座いませんでした。……肩をお貸し致しましょうか?」と鶴子が自身の不徳を後悔するように、唇を噛みしめながら言った。
「いえ、結構よ。身長差もあるし。貴女も大変でしょ?あと、その奴隷根性は改めた方がいいわよ?貴女はきちんと雇われてるのよ?逆に聞くけど、福利厚生は大丈夫かしら。何か不満があったら言ってね。」
「お心遣い、有難う御座います。今のところ不満は御座いません。」
「そう?じゃ、ここだと何だから、私の部屋に行くわよ。」「はい。」
片足にギプスをしたネルネが先に歩き出し、その後ろを鶴子が…文字通り全存在で傅きながら、従っていった。
***************
「さてと。」とネルネはピンク色のベッドに腰を下ろした。
このベッドは、天井に捩じ込まれたヒートンに掛けられた薄いカーテンに覆われており、まるで天蓋付きかのように演出されている。
頭上にはその他にも、ユニコーンや星のモービルがぶら下がっていて、微かな空気の流れに反応して、ゆらゆらと揺れていた。
鶴子は、ベッド脇の小さな台に乗ったホットアイマスクの箱を見て「畏れながら…ネルネ様、ものもらいの時は、蒸気マスクの使用は控えた方が宜しいかと…」と言った。
「そうなの?じゃあ、しばらく使用は控えるわ。」と言ってネルネは眼帯の位置を少し直す。
「ねえ、おつう?」「はい。」
「今日貴女をここに呼んだのは、まさにそれについてなの。」「と、言いますと?」
「貴女、豊子キッズにドロップ♡イン!したけど……元JKでしょ?」「……はい、まあ、一応は……、そういうことになるのでしょうか。」
よしよし。とネルネは一人で何かに納得して頷き「あのね、私、お化粧について教えてほしいの。」と言った。
「お化粧……ですか?」と鶴子が困ったような顔をして返す。
「そ。お化粧。……なにも豊子キッズは受験勉強だけに特化した組織ではないのよ?…例えば税金の納め方や、行政から受けられる医療、各種生活全般のライフハック……、将来的には出来れば産後鬱や子育ての講習なんかも行いたいと考えているの。だからね、お化粧やスキンケアも大切な勉強の一つよ。正直、貴女は学校の勉強には向かないみたいだから、他の分野で役に立ってもらおうかと思って。」
「役立たずで申し訳御座いません。」「いいのよ、いいのよ、ここにいる全員は大抵、教わる側なんだし。とは言え、みんなそれぞれ自分の役割を果たしてくれているわ。限定商品にアンテナを張って、組織的な転売に奔走したり……まあ、でもこういう商売はいつまつでも続けられるものじゃないわね。この前も追.伸.5 Proの転売で大失敗したばかりだしね。そろそろ他の収入源も考えないといけない時期に差し掛かっているわ。」
「ほ、法的には大丈夫なんですか?」と鶴子が怯えたように言う。「例えば……愛・不穏の転売は違法だと聞きましたが。」
「大丈夫よ。愛・不穏には手を出していないわ。白炉夢を転売するにせよ、未成年にはハードルが高いわ。……豊子キッズの後見人たる大人も一応いるにはいるけどね。あの人はそういう商売はしないと思うわ。まあ、でも、そもそも私達は資本主義の仕組み通りのことをやっているに過ぎないんだけどね。安く仕入れて、高く売る。文句があるならアダム・スミスに言ってほしいわね。かと言って豊子キッズがマルクス主義を信奉していると言われても困るけど……」
「大変失礼致しました。ネルネ様がそうされているのは、何か深い考えがあってのこと……。私ごときが意見するようなことでは御座いませんでした。つまらない意見を言って、ネルネさまのお時間を浪費するようなことは二度と致しません。」
鶴子はそう言うと深く御辞儀をした。
「まあ、何でもいいわ。ところで話は戻るけどお化粧の話ね?」「はい。」
「私、敏感肌だから、すぐに肌が荒れちゃうのよ。」「なるほど。この件について私のような者がお役に立てるかどうか……。」
「そう、卑屈にならないの!クレンジングについて教えてほしいの。だから遠慮しないで。今から私達はマルクスよりも重要なことを話し合うのだから……。私はね、JKのきちんとした意見が聞きたいのよ。」
「……そうですね。」と鶴子は考え込むような表情をした。「……見たところネルネ様は、毛穴に黒ずみも無いですし、角栓ケアも出来ているようです。今お使いのクレンジングで問題はないのではないでしょうか。」
ネルネは「そう?でも、私はまだこれが一番自分に合ってるのか、いまいち自信がないのよ。」と言って「隣が鈍器だし、色々試してみてはいるのよね。」と鏡台に並ぶ瓶を指差した。
「殆どが使い掛けのようですね。」と鶴子が言う。「色々試され過ぎて、結果お肌に合わないものを使用してしまうリスクの方が問題ですね。……分かりました。今度一応オススメの美容液を買って参ります。それまでは……、え~と、これ、この一番高価な物を御使い下さいませ。私が買ってくるものは鈍器法廷には売っていない物なので、数日お待ち下さい。」
「ありがと。助かるわ。ちゃんと領収書を貰ってきてね。」
「……ネルネ様」「ん?なあに?」
「私のような者を頼って頂き、誠に有難う御座います。」「いいのよ。貴女、もっと自分に自信を持ちなさい。」
「……ネルネ様。私は一度死んだ身。助けて頂いたご恩は一生をかけて返させて頂きます。ネルネ様の為なら……二度目の命、惜しくはありません。」鶴子はそう言うと、自分の言葉に感動したのか涙ぐんでいた。
「ふうん?あなたも一度死んだの?転生組?」とネルネが天井のユニコーンの飾りを見上げながら言った。
……一角獣は、前世での私の魔紋。皆、私のそそり立つ一角獣を見て畏怖したものだわ……。人呼んで、魔窟の一角聖獣。
晴れ霧フォレストのエロフ達は元気かしら……。私がいなくなった後も、自治権は守れているかしらね?まあ、でも私、もう…あの娘達の顔も思い出せないわ……。
「おつう?一応聞くけど貴女、前世で何があったの?差し支えなければ教えて。」
「前世……?ああ、そうですね。あれは……私の人生は…前世の出来事ですよね。私は生まれ変わったんですね。」と鶴子が言う。鈍器メイド服・改、女子高生部位にある、セーラー襟のリボンをそっと触りながら、鶴子は「…母の再婚した相手はケダモノでした。」とポツリと言った。
…なるほど。おつうの2人目の父親は半獣の種族だったのかしらね。ネルネは眼帯の紐に挟まった髪の毛を、人差し指で外に出しながら、鶴子の横顔を見た。
「私はその男に執拗にイタズラをされました。」
……でた…安定の半獣民のイタズラ好き。茶目っけがあると言えば聞こえがいいけど…正直ウザいのよね。…あんまりうるさいから王は側に置くのを嫌っていたわね。…おつうも可愛そうに。
「外に出れば、永遠に続くイジメの人生……」そこまで言うと、鶴子は何かを思い出したように、「うっ」とえずいた。
永遠に続く……イージーめの人生……。
……よく言ったわ。奴隷階級の人生だってそれなりに大変だったとは思うけど、貴女は、
『奴隷として生きることは簡単、でも自身が、自分の人生の主人となって生きる、ということは困難』、と言っているのね。なるへそ。深いわ……。
「貴女が言っていることは、深い。」とネルネは心に思ったことをそのまま口に出した。
「ネ、ネルネ様!御許し下さい……。私の不快な思い出話など、お聞かせするべきでは御座いませんでした。どうかお忘れ下さい……。」と鶴子が青ざめた顔をして言う。
「ん?いやいや逆よ。今日聞いたことは忘れないように日記に書いておくわ。…て、私、日記どこに置いたかしら……。」
ネルネは片足でジャンプしながら机と本棚を往復していた。
やがてネルネはベッドに戻ってくると、ふう。と腰を下ろした。「……後でおジャガに聞こっと。」
その一言を聞いて、鶴子が顔を上げる。
「おジャガさんって……あのいつも一緒にいらっしゃる金髪の男の子ですか?」
「ん?ああ、そうよ。あの男は便利よ。ほら、私、腕を今怪我してるでしょ?背中が痒い時とか孫の手で掻いてもらってんのよ。おジャガは力もあるし、しっかりと掻いてくれるから重宝しているわ。」
「ネ、ネルネ様……し、失礼を承知で伺いますが………、ギプスをされている間…その、お、お風呂なんかはどのようにされているのですか……。一人で洗えていらっしゃるのでしょうか……。」
「え、気になる?」と言ってネルネが白いロリータ服の胸元をパタパタとさせて、にしし、と笑った。
「……毎晩、部屋で濡れタオルで拭いてるわ。手が届かない背中は床に敷いた濡れタオルに体を這わせているの。ちょっとコツがいるけどね?私はもう慣れたわ。」
「か、髪もこの部屋で洗ってるんですか…?」「ええ、そうよ。」「の、残り湯はどうされてるんですか……。」「え?おジャガを呼んで捨てさせてるわ。」
「いけません!!!」
と、大きな声で鶴子が怒鳴った。
「え?別におジャガに体を洗わせてる訳じゃないわよ?勿論、洗うのは一人でやってるわよ。まだ片手片足があるからね。おジャガにはお湯を運んでもらってるだけ!そんな大声を出すほどのことじゃないわ。」
「それでもいけません!!ダメです!!……分かりました。今夜からはわたくしめがネルネ様のお部屋に伺います。なんなら体も拭いて差し上げますので、……あの金髪男子は今後お部屋に入れないで下さいませ!出禁です!あの黒出目金髪変態男!……ネ、ネ、ネルネ様の残り湯を……許されないわ……。」
「アハハ……出目金男……おっかしい…」と言いながらネルネは腹を抱えて笑い出した。
「アハハ…わかったわ。じゃあ、お湯係は貴女にやってもらうわ。そうね、万一、私がもっとひどい怪我をしたら、おつう?貴女に体を拭いてもらうことにするわ。アハハハ……出目金か……今度おジャガに言ってみるわ……アハハ……」
涙を流して笑うネルネを見ながら、鶴子はこの白いロリータ少女の無事な方の手をじっと見つめて、その後、ギプスをしていない方の足を見つめていた……。
****************
『はい。順調です。全て計画通りに運んでおります。』
『…いいえ。乃望竹千代には、まだ接触出来ておりません。』
『ただ、愛・不穏転売の首謀者は乃望竹千代で間違いないかと。赤炉夢、黒炉夢を扱うような愚かな真似はしないでしょうが、今回の大量の白炉夢転売の件の犯人であることは、ほぼ間違いないでしょう。』
『…いいえ。豊子キッズ自体は、この件に関わっていない可能性が高いと思われます。はい、そうですね。まだ確証はありませんが。……はい、了解致しました。引き続き調査を続行致します。』
鶴子は、雑居ビル内にあてがわれた自分専用の部屋で、毛布を頭から被りながら愛・不穏で通話を行っていた。
……倫護カンパニー秘密工作員、コードネーム:002、難波鶴子。
『新宿ドロップイン家』の残党が集まる、この鈍器法廷横の雑居ビルへの潜入ミッションを命じられた彼女は、見事なまでに豊子キッズのリーダーの信頼を勝ち得、組織に深く入り込むことに成功していた。
……さて。
もう少ししたら、ネルネ様のお部屋にお湯をお持ちし……使用後の残り湯は……、ありがたく持ち帰らせて頂こう……。そして私は………。任務達成の為に、もっともっと、ネルネ様のお世話をしなければならない……。
……ジャガーとか言ったっけ?あれはちょっと目障りね。ネルネ様の側にいつもべったりくっついていて。ああキモチワルイ…。
鶴子は(おえっ)と喉を鳴らし、すぐにこの嫌なことを忘れる為に、ネルネの新しい服の型紙を引き始めた。
『The Crane's Gratitude』




