ヰ12 一難去ってまた一難
6年2組の担任、廣川満里奈は、反応の返ってこない個室の扉を一度叩くのをやめ、握った拳をあてがったまま真剣な表情をしていた。
「まずいわね……。これは状況によっては一刻を争うことだってあり得るわ」
廣川先生はそう言うと、掃除用具置き場から持ってきたバケツを逆さまにし、
その上にパンプスを履いた足を乗せると、
カーキ色のスーツのパンツにお尻の形を浮かび上がらせながら、
もう片方の足を扉の鍵のわずかな出っ張りに引っ掛けて、えいやっ、と壁を登った。
…………。
そして……無理な体勢で苦しそうな顔をしながら、上から中を覗き込むと……、
「あら、誰もいないじゃない。」とほっとしたような声を出した。
「なにこれ、イタズラ?」と言いながら、廣川先生は壁を超えて裏側に降り立ち、
内側から扉を開けた。
すると…不安げな顔をした設楽居睦美が、彼女を出迎える。
「……念のため聞くけど、設楽居さん、あなた、誰か怪しい人を見なかった?……この個室、イタズラで内側から施錠されてたみたいなの。」
「い、いいえ……」と睦美が目を逸らしながら答える。
「ふうん、そ?ならいいんだけど。」と言うと、満里奈は、睦美の目線が和風個室の中の壁に向けられていることに気付いて、
その先にある水洗タンクを見やった。
「ああ。」と満里奈は言い、自分が中に入った時に足場に使ったタンクの蓋が、ずれてしまっていたことに気が付いて、
「直さないとね。」と言いながら満里奈がタンクの方へ向かった。
睦美が強張った表情で、先生の動きを目で追っていく。
ガガガガガガ………
廣川先生が顔をしかめながら陶器の蓋を動かした。
「……これ意外と難しいのね……うまく嵌まらないわ……ちょっと一回やり直しましょうか……」
そう言って先生が蓋を大きくずらす。
「あら?何かしら?」
………はい、何でしょうか……。睦美の青ざめた顔は、いまや真っ白になり、少しずつ後ずさりを始めていた。
「何か中に入っているわ……」
「せ、先生!!」「ん、なあに?」と、満里奈が手を止める。
「わ、私、見ました!その……怪しい人を!!」
満里奈は、チラッとタンクの中を気にしながら「あら?さっきは見なかったって言わなかった?」と言った。
「さ、さっき、私が…御手洗いに入ってきた時……そ、その、あ、そうだ!黒いマスクと紺色のキャップを被って…、え~っと、黒いセーターと灰色のプリーツスカートを履いた子が走って出ていきました!!」
「なに、それ?めっちゃ怪しいじゃない?で?その子、後は何か特徴はなかった?背はどれくらい?髪は長かった?」
「え、え~っと。よ、よく憶えてません……。凄く急いでたみたいだったから……」
そう言いながら睦美は、先生の体の後ろにある、蓋のずれた水洗タンクを見つめた。
「あ、あと……その……その子……走り去る時、スカートがちょっと捲れたんですけど……、
……ちょっとHey Siri♡が見えてたような…見えてなかったような……あれはきっと愛・不穏ユーザーですね…きっと……」
「は??じゃあ、なに?あなたは、その子が履いてなかったとでも言いたいの?それホント??見間違いじゃない?」と、満里奈は言い、ふと、この教え子のズボンの前をじーーっと見つめてしまった。
視線の先に気付いた睦美は、ライムコンピューターをフル稼働させ、早口で次のように捲し立てた。
「せ、先生?先生の下着、今日はベージュ色なんですね?スーツの表面にひびかないように色も生地も薄い素材で……さすが大人です。じ、実は、今日の私もベージュの下着なんです。さ、さっき社会の扉?でしたっけ?私、多分見られちゃいましたもんねー、アハハ……ベージュ色が見えました?ワタシハズカシイワー……」
そ、そうだったのね……。あれは薄だいだい色の下着だったのね……それなら先生、納得だわ……………て………は?
「し、 設楽居さん?!な、なんであなたが先生の下着の色を知ってるのよ?!」
「……い、言いにくいですが……、スラックスの後ろが……破けています………」と睦美が小さな声で言った。
ふぁっ??!?
廣川先生が、自分の才シリを押さえる。
なんなのよ?!今日は厄日?厄年?天中殺?!これ言ったらアウトだけど……この生徒が疫病神なのでは??
満里奈は冷静な表情で、ジャケットを脱ぐと、それを素早く腰にあてがって、袖をお腹の所で縛った。……名誉の負傷よ。恥じることはないわ……。
睦美の目が、まだじーーっと水洗タンクに注がれているのを見て、廣川満里奈は、
「オホン」と咳払いをすると、水槽の中に手を突っ込んだ。
「…………。」
「……ナニコレ。」
床に水を滴らせたビニール袋を見つめ、満里奈は慎重に…固く縛られた口を開いていった。
設楽居睦美も、固唾を飲んで見守っているようだった。
満里奈が両手を使って、中に入っていた布を左右に開く。
これは……その……あれね。いわゆる叙事ショウ(セ)ツね……。
そして表紙が相当黄ばんでいます……。
あと、なんと言うか縞々ね………F・Cむらまさで売っているようなやつよね、これ………。
「さ、さっき逃げていった子の物じゃないですか?!」
迫真の演技で、設楽居睦美が叫ぶと、廣川満里奈は、ハッと我に返って「そ、そうね!」と言った。
「……ま、まあ、これを見る限り?……深追いは可哀想じゃないかしら……。諸事情がありそうだし……、ねえ、設楽居さん?」
「は、はい?!」
「このことは、私と設楽居さんの間の秘密にしておきましょう。個室を内側から閉めた犯人と、これを残していった子は同一人物だと思うけど……いまさら追跡調査する必要はないと思うわ……。」
「わかりました……」と睦美がホッとしたような顔をして言う。「…それで先生?その、……それどうするつもりですか……。」
「ん?これ?……そうね、あなた達が全員下校したら、洗っておこうかしら。一応。」
「で、でも……、持ち主は……それが、ここからなくなったら困るんじゃないでしょうか……。」と睦美が目を泳がせながら言う。
「確かに。でもね、ここに入れっぱなしってわけにはいかないでしょ?」
「せ、先生?……私、洗うのお手伝いしましょうか?」
「え?いいわよ。……でもありがとう。あなた、優しいところあるわね。」と廣川満里奈が言う。
「あの、……お手伝いしちゃダメですか?」
「大丈夫よ。」
「手伝いたいんです。」
……いいって言ってるでしょ。しつこいわね。「あなた、御手洗いに行きたいんじゃなかったの?」
「え?もう、そっちは大丈夫です。終わりましたから。」
お、終わったって……。まだ行ってないじゃない。なに言ってるのよ、この子?
「じ、実は私……、最近、介護について学ぶ機会がありまして…(呆痴彼女)。ひ、人の役に立ちたいんです。」
「そ、そうなの?若いのに大変ね。」と、汚れた布を持った満里奈が言う。
「そうだ!先生は、スラックスを補修していてください!か、代わりに私がそれを洗いますから!」
満里奈の顔が赤くなる。……わ、忘れていたわ……!「そ、そう?ホントにいいの?じゃ、じゃあ……その、お言葉に甘えさせてもらって…ちょっと家庭科室に行かせてもらっていい?」
「はい!モチロンです!」と言って睦美は、凄いスピードで先生から縞々パーツを奪い返した。
「そ、それじゃお願いね……。先に洗い終わったら家庭科室に来て……。」と言うなり、廣川先生は才シリを押さえながら、タタタタタタタ………と小走りに走り去っていった。
……よ、ようやく帰ってきたわ!
おかえり、黄色いしまじ漏!!
設楽居睦美は、一目散に掃除用具置き場の洗面所に走ると、
じゃぶじゃぶと下部パーツを洗い始めた。
もう校舎には誰も残っていないはず。人目を気にせずここで綺麗にしてしまいましょう。
後は、よ~く絞って……ビニールに入れたら、帰って洗濯機に放り込むだけ……。
任務完了………密しょん complete……
………。
一応、先生には報告しておこう。……先生が出ていった後、紺色キャップ、黒セーターの謎の少女が戻ってきたので、彼女のパーツは責任持って返却したと………。
睦美は、意気揚々と御手洗いを後にし、家庭科室へ向かって歩き出した。ルンルン♪
ほとんどスキップするような勢いで、廊下の角を曲がったところで……、
ピタリと睦美は立ち止まった。
……廊下の突き当たり……、3組の教室の扉の前で……、
二人の人影が立っているのが見えた。
一人は、廣川先生。もう一人は……紺色のキャップ、…黒いセーターに灰色のプリーツスカート……。
紫色のランドセルを背負った少女が、……こちらに背中を向けている。
え?
睦美は手の甲で、自分の目の周りをゴシゴシと擦り、その後すぐに、みぞおちの下辺りが、キュウっと締め付けられるのを感じた。
……不安を感じながらも更に近寄っていくと、半分黒いマスクで隠された少女の顔がはっきりと見えてくる。
……目深に被ったキャップの後ろから、さらさらの黒髪を三つ編みにして垂らし、一部編み込まれた束からは、柔らか過ぎる髪が所々ほどけてアホ毛になってしまっているのが見える。
強めの二重の瞼。多分、可愛い顔。
睦美はモゴモゴと唇を動かし、からからに乾いた口で、辛うじてこう呟いた。
「……あなた、実在していたのね………。」
「?」と少女が首を傾げる。
睦美の目線が、自然と少女のプリーツスカートから覗いた、細く白い脚の…根本の方に注がれる。
少女のすぐ隣には廣川先生が、まだ腰にカーキ色のジャケットを巻いて立っていた。
……才シリが破けたことも、……鼻毛が出ていたことも……そういったハプニングを、今は何も感じさせない…見事な大人の佇まい……。
((設楽居さん?あれは洗ったの?))と廣川満里奈が、こそっと睦美の耳元で囁く。((返してあげないの?))
((え?い、いいえ、まだ洗ってません……))
……て言うか本当は私のだし……。え?そうよね?あれは、私のものよね?
((先生こそ、補修は終わったんですか?))
((……まだよ。))
満里奈の視線も自然と、目の前の少女の細い太ももへ注がれていた。
……結構なミニスカートなんだけど……。大丈夫?コンプ裸はどうなってる?
……それにしてもこの子、誰だったかしらね?まあ、いちいち他のクラスの子の顔なんて憶えていられませんけどねえー。
満里奈が肘で、軽く睦美のことを小突く。
睦美が動こうとしないのを見て、満里奈は黒セーターの少女に向かって「あなた、そのまま帰るつもりなの?」と言った。「さすがに女の子がそのまま外を歩くのは危ないわ。体操着のズボンを履いて帰りなさい。」
「申し訳ございません……。今日は母がミニを履いていけと言うものですから。うちの母はお洒落にうるさいんです。……私はそれが嫌で…常日頃、地味を心掛けているのですが……。」
「そ、そうなの?」……その情報どーでもいいわ……。それよかさ、今、下を履いてないことの方は、お母様的にはOKなの?
「私は、世の中には、お洒落なんかより大切なことがあると考えております。礼儀、規律、自戒、そして忍耐。」と少女が真っ直ぐな瞳で語る。
……忍耐って……。でも、あなた、我慢出来ずに叙事ショウ(セ)ツを汚したのでは……。それを水洗タンクに隠したことについては、どうお考えで………?そもそも履いてないのに礼儀もクソもある?と満里奈はそっと考えていた。
…………。
「あなた……こんなに遅くまで、一人で残って何してたの?」と、廣川先生が言う。
「お恥ずかしいことに、私忘れ物をいたしまして、それを取りに戻ってまいりました。」と言いながら、ピシッと姿勢を正したことで、少女のスカートの裾が少し上にあがる。
((ほら、返してあげなさいよ))と廣川先生が、睦美の体をもう一度小突く。
睦美は混乱して、え?え?え?となり、何度も女子徒イレのある方向を振り返り、再び謎の少女の方に視線を戻すことしか出来なかった。
「あ、私としたことが……大変失礼致しました。私、6年3組、出席番号2番、飛鳥めいず と申します。」そう言って少女がベコリと頭を下げる。
思わず廣川満里奈は、お辞儀したこの少女のスカートの後ろ側がどうなっているかが気になって……、反射的に少し背伸びして確かめようとするのだった……。
『Out of the frying pants, into the fire.』