ヰ117 罠に堕ちる
五十嵐葉南は、不信者の群れをまき、
夜の住宅街を歩いていた。
……あの歩道橋には結界を張っておいた。
階段の始まりに、たっぷり手水を染み込ませた形代を設置することで、
あの歩道橋に登った不信者達は、階段を降りることが出来なくなる。
一匹、橋から落下した個体を除けば、ここら一帯の不信者はあの場所に閉じ込められ、少なくとも一晩は、あそこに足止めされるだろう。
おかげでボクは、邪魔されずに山神のみを炙り出せるというわけだ。
葉南はポシェットからジッパー付きビニール袋を引っ張り出し、街灯の下でそれを明かりにかざした。
そのビニールの中には、ミントグリーン色の匂い袋が入っており、よく見るとそれは所々黴ていて、黒い斑点がそこかしこに現れていた。
袋の内側はいまだ湿気を含み、水滴が付いている。
葉南は一度深呼吸をし、息を止めると、素早くそれを取り出した。
……口だけで息をしようと試みるが、
強烈な臭いが、口から鼻へと昇り、思わず葉南はむせて咳込んでいた。
……これはまれに見る純度の高さを持った匂い袋ね……。正直ここまでの完成度のものは見たことがないわ……。
ボクも何度か見よう見まねで作ったことはあるけど……やはり小学生の匂い袋だと、たかが知れている。
これはあの人とかが本気で作ったものと同レベルのものよね……。何故こんな危険なものを、あのお姉さんが持っていたのか……。
もしやあのお姉さんはメサイアに貢がれた生け贄か何かだったのかしら……。
葉南は匂い袋を裏返し、黄土色の汚れがこびりついた袋ッチ部分を、外気に晒して二、三回振ってみる。
……やはり思った通りね。反応がない。
……ボクは警戒されている。
山神+はぐれ不信者の尻子玉と、この強力な匂い袋を持ってしても、
山神が現れないとしたら……
それは、ボクのせいだろう。
……やはり駄目か……。それこそ何か別の囮でもいれば違ってくるのだろうけど……。
葉南は、一度匂い袋を密閉袋に戻し、ポシェットにしまうと、
いつもの公園に入っていった。
山神相手に、ボクが男子に変装しても無駄だろう。きっと奴には通用しない……。
ベンチに腰を下ろした葉南は、腕を組んで難しい顔をしながら前方を睨んでいた。
………。
……高周波音入れのグレーの壁に、小さな人影が張り付いて、辺りを伺うようにキョロキョロと首を動かしている。
その影は、女子音入れに一度入ると、すぐに出てきて、次に男子音入れの方を背伸びするような姿勢で、伺おうとしていた。
……手に持っているのは何かしら……カメラかしら……?
……あれはチ。環?……盗殺魔?……て言うか女子みたいに見えるけど……。女子のチ。環なんて…生物学的に存在するのかしら?
葉南は、忍者アイを暗視モードに切り替え、
自分の気配は消しながら、その小柄な影の観察を続けていた。
その影は、
ピンクのスケルトン眼鏡をかけた、短髪の少女だった。
ハイウェストの黒いジーンズと白いチョッキ。緑色のリュック。少女はリスのように忙しそうな顔をして、高周波音入れの入り口をちらちらと伺いながら、目隠しの仕切り壁を右から左へ何周もしている。
「……あなた、何してるの?」
急に声をかけられた土田優茉は飛び上がって驚き、
咄嗟に首から提げた一眼レフカメラをこちらに向け、
……カシャカシャカシャカシャ……と連写した。
「ちょっ?!やめてよ!!」と言って葉南の脚が縦に風を切り、首から外れたカメラが宙を舞う。
「おちょっ??!にまんななせんはっびゃくえん!!!」
落ちてきた黒いカメラを、葉南はスチャッと片手で受け止めた。
「気を付けなさいよ、あなた?無許可で人にカメラを向けてはダメよ?相手がボクだからまだ良かったけど……、状況によっては壊されても文句は言えないからね?はい、2万7800円返すわ」
ズシリと重いカメラを返された優茉は、受け取るとすぐに破損したところがないか、360度クルクルと回して裏表を確認をする。
「……ところでアナタ、こんな所で何をやってるの?控え目に言って凄く怪しいわよ、アナタ……」
「うはっ!も、申し遅れました!自分は5年3組16番、土田優茉と申します。以後お見知りおきを。」
「で?ここで何をやってたの?アナタみたいな小さな子がこんな夜更けに。危ないから早く帰りなさい?」と葉南は周囲を見渡してから言い、もう一度目の前の少女に視線を戻した。
せわしない動きで、優茉と名乗った少女は「し、失礼ではごさいますが、あなた様の方が年下とお見受けしますが……」と言った。
「え~と、ボクは6年2組出席番号は……、忘れたわ!……これ言わなきゃダメ??五十嵐葉南よ!」と葉南は名乗りを上げる。
「そ、それは失礼致しました!上級生だとはいざ知らず!近藤センパイのクラスメイト様でしたか!!うっかり者のツチダを殴っていただいても構いません!ツチダごときがこの世からいなくなっても、世の中の人々は困りませんから…!」
「まあ、いいわ。で、アナタ何をしていたのよ?」
「は、はい。センパイ。実は……」そう言うと優茉はそっと耳に口を寄せてきた。「……我がシンブンブンに新しいタレコミがございまして……これ、内緒ですよ?」
「いいから話しなさい。後輩。」
「ハハッ!ここサツキ公園の高周波音入れで、かのベンクシーの落書きが見つかったらしいのですよ!!」
「……ベンクシーって、あの正体不明のアーティスト……?見つけたら壁ごと盗まれる場合もある、あのベンクシー?まさか……。なんでこんな所に……。」
「ベンクシーの落書きは、男女両方の音入れで見つかるといいますからね……。性別不明の現代アーティストです。太陽信仰を思わせる、二重丸に立て線と、円の外側に放射状に描かれた短い線のマークが有名ですけど…、あれは誰でも描ける為、偽物も多いと聞きます。」
葉南が「ああ。最近、あのマークのTシャツを着てる人をよく見かけるわね」と言う。
「はい。うちの兄達も着てます」と優茉が言った。
「…それがこの音入れにあるの?十中八九偽物でしょ。」
「ところが今回は、一緒に電話番号も書かれていて、実は我々の情報提供者が試しにそこへかけてみたそうなんですよ!」
「……へえ…実在する電話番号だったんた……」「そこには『トモダチ募集中』とも書かれていて、……出た相手はイケボの男性だったそうです…。彼は自分のことをベンクシーだと認めたとのこと…。で、この場所で会う約束を取り付けることに成功した為、我がシンブンブンにその情報を横流ししてくれたのです!ツチダは相手に気付かれずに撮影するチャンスを貰った次第であります!」
「……へえ、それが本当なら大スクープね。ベンクシーの素顔を捕えることが出来れは、それこそ世界的ニュースよ。で、その情報提供者とやらはどこに?」と葉南が聞いた。
「それがまだ来ていないみたいなのです…」と、優茉は言い、ピンクのプラスチック眼鏡を外し、袖で拭いた。
「ツチダも提供者と直に会ったことはないのですが……、あ、ひょっとしてアナタ様が『ちくり屋』ですか??」
「……違うけど……そうね……今の話、ちょっと気になるわね……」葉南はそう言うと、「ベンクシーの落書きは男子音入れの方なの?」と聞いた。
お受験風ファッションの少女の白いハイソックスの先にある黒いエナメル調の靴が、
公園の街灯の明かりを反射して鈍く輝いている。
「ちょっとボク、見てくるわ。」
「え……さすがに男子音入れに入るのはマズいんじゃ……」
「大丈夫。ボク、男だから。」そう言うと葉南は自分のスカートをバッ!と捲り上げ、リアル越智くんちを優茉に見せてやった。
「キャ!?」と優茉は短く叫び、後ろへ飛び退く。「何よその反応は?男兄弟がいるなら見慣れてるでしょ?」と葉南は言い、ズカズカと音入れに入っていった。
**************
ベンクシーか………。怪しい。怪し過ぎるわ……。ひょっとしたら、その情報提供者もグルかもね………学校の内部事情に精通する為に、新聞部にコネクションを作っておく………。
いかにも頭脳派の不信者が考えそうなことだわ……。
葉南は、男子音入れの個室を一つずつ覗き込んで確認していき、
3番目の部屋の前で立ち止まった。
……なるほど。
そこには下手くそなベンクシー風の落書きが書かれており、
情報提供者が見たという、マジックで壁に書かれた電話番号を見つけると、葉南は、フンと鼻を鳴らした。
……なにがベンクシーよ……。これうちの 番号じゃない……。
あの人は、イタ電対策にも余念がないから、こういうのがいくらかかってこようと平気だろうけどね……。
間違いない……。これは山神仁花の仕組んだことね……。
だとしたら、あのシンブンブンの女子、危ないわね。
……先手を取りましょう。
シュタッ………!と残像を残して五十嵐葉南は走り出し、
入り口を心配そうに覗き込む優茉の背後に回り込むと、
一瞬で彼女の首に手を回し、ポシェットから取り出した匂い袋を、少女の鼻と口に押し付けた。
「……ウ」と呻いて、土田優茉の体から力が抜け、膝から崩れ落ちる。
葉南は素早く少女の脇に手を差し込み、そのまま背中側から引き摺って、
意識を失った彼女を女子音入れの方へ運んでいった。
そして個室の椅子に座らせると、「……ごめんね」と言って、彼女の服を脱がし始める。
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土田優茉は、レンズをくり貫いたピンクのスケルトン眼鏡を、鏡の前で自分の鼻の上に乗せた。
……リアル越智くんちは、また使えるように綺麗に剥がし、個室に残してきたお受験ファッションの少女の内ポケットに収納してきた。
その代わりに、優茉はジーンズの下に、強烈な臭いを発する匂い袋を履いてきていた。
彼女は一眼レフカメラを首から提げ、緑色のリュックを背負い直すと、リスのような忙しい顔をして、
音入れの壁の前に立つ。
さあ来い、山神仁花。ボクはお前の罠にかかった子鼠ちゃんだ……。
そして、お前が不信者である限り……、この匂い袋の存在に対しては、どうしても判断力が鈍るはず。
他の多くの不信者は、あの歩道橋に封じてきた……。一対一の対ケツだぞ、山神……。
ここで決着をつけてやる……。
土田優茉は、その小さな唇から、心持ち前歯を覗かせながら、
全く無防備な様子で、背後の気配にも気付かない風に、音入れの入り口の方を凝視し続けていた。
『Fall into a trap』




