ヰ105 もったいないおばけ
すでに暗くなり始めた帰り道を、
設楽居海人と、木下藤子が、黙ったまま歩いている。
最初は海人が先頭になって歩いていたが、そのうちに徐々に速度を落とし、彼は藤子の隣に近付いてきた。
藤子は、海人が横に並んでこようとすることに気付き、
首まで真っ赤になりながら俯いた。
「なあ、木下………」「な、なあに?」と藤子は、少し高めの可愛い声で返事をする。
漆黒のポニーテールがピクリと揺れ、海人が立ち止まるのと同時に、藤子も歩くのをやめた。
「俺さ……」「うん」「……よく考えたらお前んちの場所知らなかった……。こ、こっちでいいの?」
「え、そ、そうだった?知らなかったっけ?……うん、こ、このまま真っ直ぐだよ……」と言うと、藤子は一目散に歩き出す。
慌てて海人も後を追いかけ、「さ、寒くなってきたな……」と鼻をすすりながら言った。
「……あのさ……、うちの親が言ってたこと気にするなよ?あと妹の態度もごめん。うちの女性陣はちょっとおかしいんだよ。ホント、気にしなくていいから。」
「ううん、私こそ急に押し掛けちゃってごめんね。……ど、どうしても勉強で気になったところがあったから…明日が待てなくて……」
「ああ、分かるよ。理解出来てない数式とか、難しめの証明問題とか気になるよな。あともう少しで解けそうな時とかさ、眠れなくなるよな。……で、結局今日の木下の悩みは解決したのか?うちにあった参考書を熱心に見ていたみたいだけど、答えは見つかったか?」と、海人が言う。
「うん。だいたい分かった。」と言って藤子は黙ってしまった。
「……今日は疲れたよ」と海人が言う。
「なんか知らないけど疲れた。長い1日だったよ。」
「ごめんねカイト。あ、良かったら何か飲み物をおごるから。……お疲れ様。」と言って、
藤子は公園横の自動販売機の前に立った。
「いいよ、おごってこれなくても。」
……がっかりした顔をする藤子を見て、
海人は「あ、でも休憩するのは賛成。公園のベンチで缶コーヒーでも飲もうか?」と言った。
****************
ベンチの真上には、明るい街灯がついていて、2人は温かい缶を手に、そこへ腰を下ろした。
プシュッ。
海人はコーヒーをぐびぐびと音を立てて飲み、「うまい。」と一言だけ言う。
藤子は、熱い緑茶の缶の側面を手のひらで覆い、まだ栓を開けずに、しばらくそれをカイロの代わりにしていた。
「……あのね……」と、藤子が口を開き、小さな声で話し始める。「長江と揚子江って何が違うのかな?」
「え?…揚子江は本来、長江の河口の方の呼び名だろ?まあ、でも、長江全域の呼び名としても定着したらしいけどね……でもなんで?別に試験範囲ではないだろ?」
「ちょこっと気になって……」
ハッ!と海人が目を見開く。
「ま、まさか、木下?!お、俺にチョーコーをくれるのか??」
「……そのまさかなの……」と藤子が更に小さな声で呟いた。
「う、嘘だろ?」と海人が言う。
「だってほら……いつもお世話になってるし……。その……カイトは憶えているか分からないけど……、1年生のテストの時に助けてくれたでしょ?……あの時のお礼、まだちゃんとしてなかったし……。これ。どうぞ。……嫌いな味じゃなかったら……食べて。」
そう言うと藤子は、鞄の奥からごそごそとチョコの箱を取り出した。
「マジか……」と言って、海人は缶コーヒーをベンチに置き、両手でミント色の小箱を受け取る。
「ありがとう。木下。俺、凄く嬉しい。……実は……今日、お前が来てからずっと…チョコをくれるんじゃないかと、期待していたんだ。」「それホント?」「ああホントだ。」「カイト…私……」「木下…俺……」
……と、いうような妄想をしながら、木下藤子は、ベンチに腰掛けたまま、途中からニヤニヤとし始めていた……。
その間、設楽居海人は、
「長江は、青海省から東シナ海へ流れる全長約6,300km以上の大河だね。これは世界第3位の長さだ。一般的にこの長江は、欧米または日本では揚子江という名の方で呼ばれている。ちなみにヨウスコウカワイルカは2004年の目撃例を最後に、絶滅したと考えられている……ペラペラペラ……」と喋り続けていた。
藤子は、長江の解説に夢中な海人の横顔を見ながら、気付かれないようにそっと、鞄の中へ手を入れ、
整理用品の入ったポシェットのチャックを、音を立てないように開き始めた。
「……カ、カイト……あのね?」と藤子がミント色の小箱を掴んで声をかけようとしたその時だった。
「ちょっと待った!」
と、鈴の鳴るような軽やかな声がして、
水色のコートを着た、七三分けの真面目そうな少女が、ベンチの前に走り込んできた。
少女は背中に全能研のバッグを背負い、急いで走ってきたのか、前方に白い息を吐いている。
「あ、君は………いつぞやの風邪ひき少女じゃないか……。心配してたんだよ。あの日は大丈夫だったの?あれ?そういえば確か相撲大会の日にも会ったよね?」と海人が言った。
「……その節は大変お世話になりました。」と少女がペコリとお辞儀をする。
藤子は、少女と海人の顔を何往復か見比べ、雨のわんぱく相撲大会のテントで彼女と会ったことを思い出していた。
「…こんなに遅い時間に、あなたみたいな小さな子が危ないわよ。」と藤子が言う。
「その点はご心配なく。」と真面目そうな少女が、何でもなさそうに言った。「それよりも、お姉さん?丁度いいタイミングですので、ボクも参戦させてくださいお兄さん好きです付き合ってください!」
「「はあ????!」」と中学生2人は大声を出していた。
「お願いします!!」と、両手でリボン付きの箱を差し出した姿勢のまま、地面を見つめる少女に、
「ちょっとちょっと、あなた、いくつよ?こういうのまだ早くない?それに…このお兄さんは中学2年生よ?」と藤子が叫ぶ。
「悪いけど、あなたと付き合ったら犯罪になるわ!カイト?このチョコを受け取ってはダメよ?!」
「……い、いや、しかし。こんな小さな子だし、可哀想じゃないか?一応受け取ってあげてもいいんじゃないかな?勿論付き合ったりはしないけど……いきなり拒否るのも可哀想な気が………」
「ダ、ダメよ、カイト?!いくらバレンタインデーに、家族以外からチョコを貰えなかったからといって、火戸禾リに手を出すのはダメ!手を触れただけでも三年以下の懲役よ!視界に収めただけで職務質問されても文句は言えないんだからね?!」
少女とカイトの間に立ち塞がった藤子は、「……悪いことは言わないから、あなたも、もうお帰りなさい……今、あなたが言ったことは聞かなかったことにしてあげるから……あなたもね?子供だからって軽はずみな発言をしてはダメよ?あなたの不用意な一言が大人一人の人生を破滅させることだってあるんだからね?」と言って、チョコの箱を押し返そうとした。
「いやです!受け取ってもらえるまで帰りません!そこをどいてお姉さん!ボクの邪魔をしないでください!」と少女は迫真の演技で、今にも泣き出しそうな顔をしてみせる。
「……なあ木下、なんか可哀想じゃない?こんな小さい子を泣かせるなよ。」
そう言いながら海人はベンチから立ち上がり、少女と目線を合わせるためにしゃがみ込んだ。
そして「……ありがとう。可愛い箱だね。」と言って手を差し出す。
「ダメよ!カイト!
同意があっても火戸禾リに手を出したら、……捕まるのはアナタの方ななんだからね!」
藤子は、ガバッ!と鞄に手を突っ込み、整理用品入れを取り出すと、
「誰からもチョコを貰えず、とうとうロ・離婚に走るくらいなら!カイト!これをあげるから!道を踏み外さないで!」と叫び、
ミント色の小箱をドピュッと差し出した。
「え?こ、これは……?」
と、海人が呟く。
「?!ち、違うわよ!?ぐ、偶然、持ってただけよ!!じ、じ、自分用だから、これ!!でも、ほら、その女の子のチョコを受け取るくらいなら、わ、わ、私のチョコをあげるわ!」
「え?こ、これ、木下のか?……え?俺にくれるの?な、なんで??」
七三の真面目少女に擬態した五十嵐葉南は、コートの襟からセーラー服を覗かせた木下藤子を睨み、
……中学生も充分、火戸禾リなのではないかしら……と思いつつ、
改めて救世主候補と、その嫁を見つめた。
……確かに、この女、あのポシェットの中を整理しているようだし、お無念もそれなりにありそうね……。
そしてポニーテールで吊り上げられたうなじを確認するに……、あの濃さは、すでに相当初詣しているに違いない。
まあ、大人と認めてやってもいいのかしら。
と、言うことは、このチョコのどちらを受け取るかで…ロリ昆虫テストが出来ると考えてよさそうね。
……木下藤子は、
先ほど設楽居家を出る前に、
音入れで一度プレゼントの確認をしていた…。
一週間熟成したプレゼント……。すでに18金の価値を越え、24金の買い取り価格に肉薄したそれは、……控え目に言って生ゴミのようになっていた。
藤子は、設楽居家の音入れで、これ、やり過ぎちゃったかも……。と考えながら、棚に置かれていたファブリセッシュを、びちょびちょになるまでかけ、
ゴムを伸ばしてパタパタとお腹に風を送って乾かしたが、
プレゼントは不気味なオーラを発したままだった。
……バレンタインにどうして、これをあげることになったんだっけ……。
藤子は、プレゼントをコートの上から押さえながら、友人の伏木亜理沙の顔を思い出していた。
冷静に考えると、これを海人にあげている自分が想像出来ない……。
冷たい外気の流れ込むスカートの内側で、脚を擦り合わせながら、セーラー戦士は震える手でチョコの箱を、男子に向かって差し出していた。
その時、葉南は、ん?と空気中に混ざる臭いに気付き、……あら、これは、もしや……と考えていた。
ピギィィィィィィィィィィ………!!
あら、やっぱり……。これ、不信者寄せに使う匂袋の臭いよね……。なんでこのお姉さんが持っているのかしら……。まあ、いいわ。
シュタッ!と少女が跳躍したかと思うと、
驚いた様子の海人と藤子の肩を飛び越え、白い形代を、
シュパパパパパパパ………と四方に投げつけた。
黒い影達が悲鳴を上げながら四散していく。が、すぐに体勢を立て直し、四つん這いになった影が、わらわらと集まってきた。
「キャ?!」と藤子が叫び、後ろの草むらから、ニョッキリと出てきた腕を手で叩いた。
海人が「何をする!」と怒鳴ってその腕を掴み、グイッと引っ張ると、ギザギザ前髪の痩せた不信者が引き摺り出されてきた。
「お姉さん!匂袋は捨てて!見てよこの数!何の目的でそれを持ってるか知らないけど、集まり過ぎよ!!正直、捌ききれないわ!」
と、葉南が叫んだ。
海人が、目の前のものにギョッとしながら、藤子の目にそれが入る前に、思い切り不信者の股間を蹴り飛ばした。「木下!見るな!こいつら……」と海人が言い、それに続けて葉南が「こいつら全員ンチソよ!救世主!アナタのを見せてあげれば、みんな逃げ出すかもよ??」と言うのを聞いた。
「なに??なんのこと?」と藤子は叫び、いきなり海人がガバッと彼女の頭を抱き締めてきたので、「₯₤∑д₫●♡?!?」と意識を混濁させていた。
彼女の回りにはンチソを立てた不信者達が集まり、海人はそれを必死に足で蹴って追い払っている。
「こいつらは庭球霊だけど、こう沢山だと厄介ね!」と、近くに戻ってきた葉南が言う。
「き、君はいったい……」と海人は言い、正面から来た、涎を垂らした老人を蹴った。
「防!・功!・演!」
と少女は顔の前で印を結び、「えいや!」と両手で円を描くと、波動のようなものを前方に放ち、数匹の不信者が後方に吹っ飛ぶ。
葉南は「そのお姉さんをしっかり押さえてて!」と言うなり素早くしゃがみ込み、「性!!」という掛け声と共に、藤子のコートの下から……なにか異様な色をした緑の布 (?)を引き抜いた。
「これか……」と葉南は言い、
すぐに「こっちよ!お前達!」とその布を頭上で振り回しながらダッ、と駆け出す。
「じゃあね、救世主!勝負はまたおあずけね!」と少女は怒鳴り……タタタタタタ………、とあっという間に小さな影になって走り去っていってしまった。
辺りは急に静かになり、
頭を抱き止められたまま、目を閉じている藤子を見て、
海人は「…おい、大丈夫か?」と聞いた。
しばらく反応のなかった藤子は、やがてゆっくりと目を開け、
……海人の腕の中で、
公園の砂の上で踏み荒らされたチョコの小箱を見つけた。
「……いったい今のはなんだったんだ……」と、海人が言う。
…………。
………。
……?!
藤子は、
……自分がプレゼントを履いていないことに気付き…、思わず海人のことを見上げた。
……お、落とした??……まさか……そんなわけない……。
「……カ、カイト?」「ん?」「あ、あの……私の…プレゼントは……?」
海人は一瞬なんのことを言われているのか分からない様子だったが、
地面に落ちたチョコの小箱に目をやり、
「……ああ、ありがとう。気持ちは受け取ったよ。誰からもチョコを貰えない俺を憐れんでくれたんだろ?」と言った。「汚れちゃったけど、あれはやっぱり俺が貰うよ。」
と言って、海人はぐちゃぐちゃになったチョコの箱を見つめた。
「……あんな汚れたものでも良かったの?」と藤子が赤い顔をしながら言う。
「汚なくない?」
「気にするなって。」と海人が言った。
「せっかくのものが勿体無いだろ?」
藤子は「ん」とだけ呟いて、……やったよ、亜理沙ちゃん……、と心の中でガッツポーズをした。
『Ghost of Waste』




