ヰ100 ふりだしに戻る
今日1日のうちだけで、2名の女子が授業中に出勤し、1名が体調不良で早退した。クラスの保健委員は慣れた手つきで掃除用具をロッカーに片付けると、
収納スペースの上に置かれた消臭ポッドの中身を入れ換えた。
放課後になると、向井蓮は、箱を持って回ってきた日直から手元に返された愛・不穏を覗き込み、
赤穂時雨の番号を探し始めていた。
今まで電話帳の一番頭にあった時雨の名前は消えていて、
『飛鳥めいず』の名前に変わっている。
……時雨ちゃん……本当に君は消えてしまったのか?……そんな……。
……やはり君は2周目にしか存在しない女の子だったのか?
………なんてことだ……。僕のせいだ……。女の子を1人この世から消してしまうなんて………。時雨ちゃん………。それとも君は…この世界の何処かにいるのかい?でも確かめようがないじゃないか……くそ…!
蓮は顔を上げ、念のため、もう1人のクラスメイト五十嵐葉南の姿を探し始めた。
………あの子の存在を認知したのも2周目に入ってからだった。元々、いたような、いなかったような、存在感の薄い感じで、思えばよく顔を憶えていないが………。
あれ??そういえば…豊子キッズのねりけしちゃんは、あの場所にいたピンクロリータの女の子を『葉南』って呼んでなかったか?
いや、そんなはずは…。
……いやいや全くの別人だろう。あのいかにも豊子キッズらしい見た目の女の子と、うちのクラスの五十嵐葉南の間には共通点らしきものがない。聞き間違えだったのかな。
……五十嵐葉南……2周目の世界で彼女は…なんかよく飛鳥めいずとつるんでいたような気がする。
その時、蓮の愛・不穏が☆ピン!と鳴り、『アンドロメイツ さん』からエロドロ画像がドロップされた。
くそ!
蓮は画像を消去し、そのまま、発信元と考えられる設楽居睦美の席の方に移動していった。
「なによ?なんか用?」
と、白装束の三浦詩が立ち塞がる。
「なに微笑年?アンタは愛・不穏持ちの、倫護カンパニーの犬でしょ?なんか文句あるの?」
そう息巻く詩の肩越しに見えるアンドロイド少女ライムは、俯いたまま何の反応も示さなかった。……睦美ちゃんは多分、お兄さんのスマホを使ってエロドロをしている…。
……お兄さんのいなくなった睦美ちゃんは、まるで魂の抜け殻。まさにロボットのような無表情。感情が枯渇して、気力も感じられない。
すると、おかっぱ頭のセクシーこけし少女、近藤夢子が蓮の横にやってきて、
「ねえ、なんか面白い話ない?今私、退屈してんのよねえ。」と言った。
「この教室には、エロ・マエストロたる私の能力を生かせる場所がないのよねえ。……暇だから、アナタの前ストローでも見せてくんない?」
「なっ??!」と蓮は慌てて前を隠すような素振りで手をあてがい、
ガッハハハ……と笑う夢子に背を向けて走り去っていった。「冗談よ、冗談!…でもさあ、正直、男子音入れに自由に入れるようになってからさあ、男子の前ストローの希少さは半減してしまったのよねえ……まあ、キショいのには変わらないけどね!アハハハハ……」
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……さて。気を取り直して……。飛鳥めいずに、五十嵐葉南のことを聞いてみよう。もし、そんなものが残っているのなら、2周目の要素を少しでも押さえておきたい。
蓮は3組の教室を覗き込むと、
……黒髪、黒マスク、黒縁眼鏡、地味なおさげでグレーのパーカーを着た少女をすぐに見つけた。
彼の視線に気付いためいずが、席から立ち上がり、高い背を丸めながらこちらに近寄ってくる。
「……向井様。」
「やあ、飛鳥めいず。」と、蓮は言うと、地味女に擬態した美少女を薄目で睨んだ。
「……君に聞きたいことがある。」「はい。何でしょうか。私に分かることでしたら、何なりと。……ところで向井様は今日も目立っていらっしゃいますね。私のような日陰ものの影を、より一層濃くしてくださり、誠にありがとうございます。」
「……そういうのいいから……。ねえ、飛鳥めいず?五十嵐葉南って子を知らない?」
めいずは首を傾げ、「さあ、存じ上げません。聞いたことのないお名前ですね」と言った。
「…そうか。ならいい。あと念のため……、赤穂時雨って名前は聞いたことない?」「さあ……初めて聞くお名前です。」
「……ところで向井様。私、お母様より宍戸家の庭園会の準備について、向井様と相談しておくよう申し付けられておりまして……」
「あ、ゴメン。今日は忙しい。また今度にして。」と蓮は言うと、クルッと踵を返して歩き去っていった。
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……全滅か……。
蓮は暗澹たる表情で、薄暗い通学路を歩いていた。
まだ下校時間にもかかわらず、空はどんよりと曇って暗く、間隔の離れた街頭が、ちらつきながら点灯している。
蓮は背中に寒気を感じながら、……今から新宿に行くのはちょっと遅いかな……明日、学校を休んで行くか……と考えていた。
今日はバレンタインデー。2周目の世界からは曜日がずれており、今日は金曜日。
蓮の下駄箱には複数のチョコが詰め込まれていたが、ただ一つだけ入っていた『ギリチョコ』のせいで、他のものも全部汚染され、全てを破棄せざるをえない状況になっていた。
蓮は考え事をしながら、コートのポケットに手を突っ込んで歩き、そのせいで、
道の先の方に立つ人影には気付いていなかった。
それどころか、彼の歩く通学路のブロック塀の上には、数匹の小さな不信者が徘徊していて、
直接の害はないまでも、銀杏のような不快な臭いが辺りに漂っていたのだが、
蓮は考え事に没頭するあまり、それらにも気を配っていなかった。
目の前に人影が立つまで気付かなかった向井蓮は、足元に見える革靴を見て、迷惑そうに、その憂いを帯びた目を正面に向ける。
「やあ。こんにちは。」
と、……カシミヤのチェスターコートに黒い手袋をした若い男が片手を挙げながら挨拶をしてきた。パリッと糊の効いたスラックスと、今磨かれたばかりのような黒い革靴…。
滑らかに梳かしつけられた黒髪には艶があり、額の生え際でゆるやかにカールして、上品にセットされている。
「……は?」と蓮は言いながら、脇によけ、男の横を通り過ぎようとする。
すると、男も体を横にずらし、蓮の道を塞いできた。
淡い香水の薫りが鼻先をよぎる。
「……おっとごめんね。」と男は言い、楽しそうに笑いながら、蓮のランドセルの肩紐に手を置いた。
「な、なんですか?やめてください。」
手を払いのけようとした蓮に対して、男は微笑みながら肩に置いた手に力をこめてくる。
………ん?ん?ん?
…ちょっと待て?!
マズイ?!マズイぞ??
油断していた!!
こ、これは、……1周目で僕の純粋な少年時代を奪った……バチカンの聖的いたずらだ!!
くそ!このタイミングだったか!
あまりのトラウマで、記憶から抹消していたせいで、警戒を怠った!!致命的ミスだ!
蓮は急いで逃げ出そうと体を捻ったが、
男の強い力で肩を掴まれて身動きが取れなくなってしまった。
くそ!くそ!くそ!くそ!くそ!
蓮は端正な顔を歪め、やがて自分の頬を涙がポロポロと伝うのを感じた。
「えーと……君?言っておくけど、泣き叫んでも助けはこないと思うよ?」と男が言う。
「この町はね?不信者天国なんだ。悪いけど、我々を止められる者は誰もいないからね。」
男はニヤァ…と笑い、少年を抱き締めると、ゆっくりと手袋を外した。
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私立櫻中等教育学校の2年生の教室で、
部活終わりの陽キャ達の集まりの中、
木下藤子は、どこか虚しそうな顔をして遠い壁を見つめていた。
……中学デビューしてから、人生が180°変わった。
……毎日が楽しい。
……友達もいっぱい出来た……。
……勉強は……楽しくはないが、だからと言って、難しくて置いていかれるようなことはない……。いつもそれなりの点数を取ってきている。
……ああ、でも中学1年生の時、一度だけ頑張って学年3位を取ったことがあったな……。
あの時、隣の席の設楽居海人くんが、消しゴムを貸してくれたんだった。
設楽居くん………。学校に来なくなっちゃったな……。あんなに頭が良かったのに。
……噂によると新宿の豊子キッズになってしまったとか……。
信じられない。あの設楽居くんが……。
藤子は、友人達のカラオケの誘いを断ると、すぐに教室を出て、セーラー服の上から羽織ったダッフルコートの前をきつく閉じて外に出た。
暗くならないうちにすぐ帰ろう。最近、通学路に不信者が出没したという事案が絶えないし……。
寒空の下、藤子は小学生の時から使っていた道を、競歩のような速さで歩いていく。
煌々と輝く自動販売機の前を通り過ぎ、
公園の外周に沿って、注意深く辺りを見回しながら足を進めていくと、ふと、
街灯に照らされたベンチに1人の少年が腰掛けているのが見えた。
何となく気になった藤子は、歩くスピードを緩め、彼の様子を伺う。そして用心しながらも、ベンチの方へと近付いていった。
「……どうかしたの?大丈夫?」
恐る恐るといった様子で、藤子が声をかける。
……少年は静かに泣いていた。
「どうしたの?平気?」と、今度は少し力強く、しかし優しい声で藤子は尋ねた。
……顔を上げた男の子は、びっくりするほどの美少年だった。
「……どうして泣いてるの?何かあったの?」と藤子が戸惑いながら、もう一度聞く。
「え?聞きたい?………じゃあ言うよ。……今そこで……男に…頭をなでなでされた。」
と少年は感情のこもらない声で答えた。
「……え」と藤子は絶句して口を手で押さえた。
「……そ、そんな、す、すぐ警察に連絡しなきゃ……」藤子は、軽い吐き気を覚えながらスマホを取り出した。
「…いや、待って。お姉さん……。警察には通報しないで……」「え?何故?」「……こんなこと……誰にも知られたくない……お姉さんに言ったのも間違いだった……もう忘れて。」
「そ、そんな訳にはいかないわよ!こんな小さな子に……大人がそんなことをするなんて……」藤子はそう言いながら、少年の微かに乱れた髪の毛を見つめていた。
虚ろな目をしていた少年が、ゆっくりとこちらの方を向き、……やがて何かに気付いたように目を見開き、口をあんぐりと大きく開けた。
「お、お姉さん??あなたは、設楽居海人さんの彼女さんじゃないですか?」
「ええ??」藤子は心底驚いた顔をして、「な、な、な、なに言ってるの?!か、彼女?設楽居くんと??な、なんで、君が設楽居くんを知ってるのよ??わ、私、彼女なんかじゃない……」と言い、その瞬間、ズキン……と何故か胸が痛むのを感じた。
「お姉さんこそなに言ってるんですか?!お姉さんは、設楽居海人さんといつも一緒に居たじゃないですか!!」
え?ち、違う……私は中1の時に一度だけ消しゴムを借りただけ……
あ………私……………あの、消しゴムの恩……まだ返してない………。
向井蓮は、ベンチから跳ねるようにして立ち上がり、「お姉さん!その表情は、心当たりがあるのですね!!これは運が向いてきたかもしれないぞ!……設楽居海人さんは……。あなたにとって大切な人だったんでしょ??こうしちゃいられない!!」と叫んだ。
「まだ4時です!今から新宿に行って設楽居海人さんを取り戻しにいきましょう!まだ間に合う!」
「ど、どういうこと??」と藤子が言う。
「お姉さん!だって今日はまだバレンタインデーですよ?恋人の日です!設楽居海人さんを呼び戻せるのはアナタしかいない!」
「なんでそうなるのよ?!君こそいったい誰なのよ?」
「僕を信じてください!アナタだってこんな世界は嫌ですよね?今すぐ新宿、豊子キッズビルに向いましょう!」
そう叫ぶなり、蓮は土煙を上げて走り出した。
「待って!君!豊子キッズって!」ああ……あの子、酷い目にあったから自暴自棄になっているのかも!…男に頭をなでなでされるなんて……。恥ずかしいし……屈辱だわ……このまま新宿に行ったら、あの男の子、もっと危ない目に合うことだってあり得るわ!
「待って!!」と叫び藤子は慌てて少年の後を追った。
……設楽居海人くん……。走りながら藤子は考えていた。
……そう、私は中1の時、彼にチョコをあげようとして、結局あげることが出来なかったんだ。
……今でもその時のことは後悔となって胸の奥に残っている……。
去年、デパートで買ったくまちゃんチョコは、そのまま机の奥に仕舞い込んで、
……夏に発見した時にはドロドロに溶けて、身元不明の死体になっていたことは記憶に新しい……。まさに引き出しに遺された黒轢死。
木下藤子は、発車ぎりぎりのところで少年に追い付き、
新宿へ向かう車両に滑り込んだ。
「お姉さん。来てくれると思いましたよ。」と少年が言う。
彼は「僕達の望む世界に戻しましょう。」とだけ言うと、座席に腰を下ろした。
電車は走り出し、よろけた藤子も少年の横にそっと腰掛ける。
この時間、上り列車は比較的すいていて、2人は黙って座りながら、車窓を流れる住宅街の景色を眺めていた。
「ねえ、君……」と、やがて藤子が口を開く。
「あのね、ここ女性専用車両なんだけど……」
「あれ?そうでしたっけ?女性専用車両は、朝のラッシュ時だけのものではなかったでしたっけ?」と、蓮が言う。
「それ、いったい何年前の話よ?今はチ。環が増え過ぎて、いつでも走ってるわよ。……まあ、体の不自由な方と、小学生以下のお子さんは乗ってもいいんだけどね……」と、藤子は言うと、周囲からの強い視線を感じて小さな声で囁いた。
「……でもね?ほら、女性専用車両に何歳までの男の子が入ってもいいか、って、ネットとかでも結構議論されるじゃない?男の子が……6年生くらいだと炎上したりするでしょ?まあ、君くらいの子ならギリギリ大丈夫なのかな……多分。」
「そ、そうでしたか。2周目のぬるま湯に浸かっていたせいで、若干平和ボケをしていたようです。……ちなみに僕、6年生です。(てへっ☆)」
「え?あ?そ、そうなんだ……だ、大丈夫……かしら……。」と藤子はそう言うと、真正面で無防備に大股を開いて眠っている社会人女性の、タイトスカートの奥に薄桜色の布が見えていることを……、
この少年が気付かなければいいな……と考えて、目線を脇にずらしたのだった。
『Back to square one』




