ゼロのアスカ
2025年3月13日――。
世界は、三十年前から変わり始めた。
突如として現れる“異常領域”。
それは、人々にこう呼ばれている。
『融界/ダスト』
都市の一角が、濃い霧に包まれる。
その霧の向こう側は、もう“こちら側”ではない。
石畳の道、そびえ立つ城砦、尖塔を抱く聖堂。
鎧をまとった騎士、杖を掲げる魔術師。
市場には異国の言葉が飛び交い、空には竜が舞う。
そこはまるで、物語の中の異世界。
だが――現実と幻想が交錯するその領域を、
人は恐れ、そして求めた。
政府は、対融界組織『MOSS』を設立。
“霧”を晴らすための唯一の機関だ。
組織は、1課から5課まで、
五つの課に分かれる。
数字が小さいほど、選ばれたエリート。
しかし――
例外があった。
問題を起こした者たちが送り込まれる部署。
組織の最下層にして、最も異端な課。
その名は、『0課』――。
「ゼロのアスカ」
MOSS日本支部のビル、その地下最深部。
長い廊下の先、唯一の入り口はエレベーターだけ。
そこに、0課のオフィスはあった。
部屋の中は薄暗い。
天井の蛍光灯が、無機質な白い光を投げかけている。
並べられたデスクと、使い込まれたオフィスチェア。
書類は雑然と積まれ、
ホワイトボードには捜査資料と写真が貼り付けられている。
異界のモンスター、消えた市民、崩壊した都市――。
だが、どれも色褪せて見える。
まるで、忘れ去られた事件のように。
この場所には窓がない。
地上の喧騒とは無縁の、静かな地下室。
だが、ここには確かに“生きた人間”がいる。
デスクに座るのは、太った男だった。
黒縁メガネ、スーツ姿。
パソコンに向かい、カタカタとキーボードを叩いている。
もう一人。
オフィスの一角、古びた革のソファー。
そこに腰掛けている若い男がいた。
二十代半ば、黒髪。
白いシャツの上に茶色のベストを羽織っている。
袖を少し捲り、気だるげにコントローラーを握る。
画面には巨大なモンスター。
剣を振るうキャラクター。
迫る攻撃、避けるタイミング――。
「くそっ、なかなか狩れないな」
小さく舌打ちし、指を滑らせる。
表情は真剣そのもの。
そんな彼を横目で見ながら、デスクの男がぼそりと呟いた。
「……仕事、しろよ」
応えはない。
彼はただ、モンスターとの戦いに没頭していた。
と――。
チンッ
エレベーターのドアが開いた。
地下の静寂を破るように、ゆっくりとした足音が響く。
現れたのは、一人の少女だった。
黒いフードを目深に被り、
その下から長い黒髪がさらりと揺れる。
年の頃は十九。
黒いコートに、膝丈のスカート。
手には小さなトランク。
目は伏せられ、感情の読めない表情。
その存在自体が、
この薄暗いオフィスの雰囲気に妙に馴染んでいる。
革のソファに座っていた男が、コントローラーを置いた。
くるりと身を翻し、エレベーターの方へ顔を向ける。
「……ああ、待ってたよ」
気だるげな声。
けれど、どこか親しみのある響き。
男は立ち上がり、少女へ歩み寄った。
黒髪を揺らす少女の前に立ち、手を差し出す。
「どうも。俺はここ0課の課長――、
能弾 一だ。よろしく」
差し出された手は、宙に取り残された。
少女は一瞥もくれず、静かに歩き出す。
まっすぐ、空いているデスクへと向かって。
「……朝篭アスカ」
ぼそりと名乗る。
その声は、氷のように冷え冷えとしていた。
「ここに長くいる気はないから、覚えなくていいわ」
そのまま、ポン、とデスクにトランクを置く。
能弾は、取り残された右手で頭をかいた。
苦笑いしながら、ぼそっとつぶやく。
「……そっか。まあ、自由に使っていいから」
ちらりと彼女の様子をうかがうが、
すでに背を向けられていた。
仕方なく、もう一人の男を指さす。
「あと、そっちの人はヤマダくんね」
ヤマダと呼ばれた男は、軽く頷いた。
「……よろしく」
だが、目はずっとパソコン画面に向けられたまま。
それを見て、能弾は肩をすくめる。
「まあ、こんな感じの職場ってことで」
アスカは何も言わず、トランクを開け、
無造作に中のものを取り出し始めた。
一瞬の沈黙。
そして、能弾がぽつりと口を開く。
「朝篭くん……モンスター狩り、やる?」
「やらない」
食い気味の即答。
「即答かぁ……。ちょっとくらい悩んでもよくない?」
「時間の無駄」
「……なるほどね」
能弾は苦笑しながら、ふたたびソファへと戻る。
「じゃあ、俺は仕事に戻るか――狩りの」
「はぁ……」
アスカは呆れたようにため息をついた。
こうして、0課の新人がやってきた。
が、彼女はまだ知らない。
このオフィスが、“無駄”では済まされない場所であることを――。
──そのときだった。
室内に、けたたましいアラーム音が響く。
ホワイトボードに貼られた捜査資料が、
空調の風に揺れた。
「……ん?」
能弾が顔を上げる。
ヤマダがパソコンを操作し、
モニターを確認した瞬間、表情を固くする。
「ダストが発生した。……それも、日本国内だ」
「……は? そんな報告、政府からは来てないだろ?」
「政府より先に、俺たちが探知したんだよ」
重苦しい沈黙。
アスカはゆっくりと顔を上げた。
「……どこ?」
ヤマダが冷静に答える。
「東京、中央区……いや、ここだ」
エレベーターの表示灯が、
不気味に赤く点滅する。
地下オフィスの扉の向こうで、
異界の気配が広がっていく――。