第三の獣 ある狂女について
私は張り詰めた神経でこれを書いている。明日までに私はこの世におらず、朝日は拝めないだろうから。
生を耐えられるものにしてくれる支給品のグラチアも買い集めた怪しい薬も尽き果てた。
もう金はなく、襲い来る苦しみに私は耐えられない。
私の側には短剣がある。これで全てを終わらせても良い。あるいは今いる屋根裏部屋の窓からこの身を投げ出すことになるだろう。
薬漬けになっているからといって、私を腰抜けだとか変質者だと考えないでほしい。闇夜の中で記すこの文を読んでもらえれば、十分に理解してもらえるかもしれない。もし理解してもらえなくても、私が死を必要としている理由を察してもらえるだろう。
私は偉大なるサン・ルメクス軍の一兵卒としてアドレ隊長の元、反逆者の粛清を行っていた。その日も我々の部隊は密告の情報を頼りに蛮地の森に足を踏み入れ、その地で設立されたという汚らわしい異教の教団を撲滅するべく、隊長以下50名ほどの小部隊に加わり進軍していた。
偵察が数名ほど出され、森の中の開けた場所に人の営みを発見したのは夕暮れ時であった。その村には見慣れぬ紋様を記した旗があったと偵察は報告した。アドレ隊長が書き写しの紙を偵察に渡すと彼らは「同じものです」と返事した。我々は攻撃対象を見つけたのだ。
アドレ隊長は部隊を後退させ、あの汚らわしい教団に気付かれない位置での野営を命じた。
その夜、我々の部隊は火も起こさず、暗闇の中で干し肉や硬いクラッカーを食べて寝た。そして明朝に隊長から命令が下った。部隊を配置して準備が整った折、代表者に教団の解散と降伏を勧告。奴らが従わない場合は攻撃を開始すると。
しかしそれは叶わなかった。我々が朝支度を済ませ、いよいよ部隊が動き出そうとした瞬間、あの女が現れたのだ。
その女は美しかった。艶と滑らかさがある長い黒髪に整った目鼻立ち、熟れた果実のような唇に琥珀色の瞳、白い肌はただ一点の曇りもなかった。しかし何故か我々は恐怖に震えていた。
この感情は体験した私でさえ、本当に理解しがたい。身の毛がよだち、骨の髄まで凍り、冒涜的だった。それは部隊の他の者も同じだったのだろう。あの時、私は周りを見回した。目の前にいるのは美しい女のはずだったのに、みんなの顔は恐怖で強張っていた。
そうしていると女は何かを喋り始めた。はっきりと覚えてはいない。思い出そうにもボヤけた声が繰り返されるだけだ。とにかくあれは呪詛の言葉か恐ろしい魔術に違いない。その後に起こったことを忘れたくても忘れられない。
まず地面がうねった。先ほどまで固く強靭なはずだった土は泥水となり、我々の足を掴んだ。それから腐った魚のような悪臭、女の笑い声、そしてあの触手。そう、あの触手だ!
不揃いな吸盤をいくつも携えた巨大な触手が何本も現れては我々を取り囲んだ。深く暗い色だが吸盤が付いている面は鮮やかなピンク色に染まっていた。その表面には不快な粘液を滴らせ、時に撒き散らす。
我々は武器を構えようとした。だが間に合わなかった。最初にやられたのはアドレ隊長だった。
あの触手どもは死肉を取り合う野犬のようにアドレ隊長の体にまとわりついた。隊長は上下左右に弄ばれ、やがては千切れた。触手の粘液、アドレ隊長の温かな血と内臓の一部が混じり合い、部隊に降り注いだ。
そこからはもう混沌としていた。武器を手に抵抗する者、うずくまって祈る者、一目散に逃げる者。
私は状況が飲み込めず立ち尽くしていた。隣にいた男が私に語りかけていた。「しっかりしろ!」だとか「武器をとれ!」だとかそんなことをわめいていた。
私が気を取り戻した時、彼と私の近くに一本の触手が現れた。それは私達を見据えると触手の先端を放射状に広げ、その奥から円状の歯と口を露わにすると素早く飛び付く。喰らいつかれたのは私の隣にいた兵士だった。頭からかじられ、抵抗むなしく、ずるずると丸呑みされた。
気付けば私は走り出していた。悲鳴を背にして必死に走った。声が聞こえなくなるまで走った。そしていつしか森の中で一人だった。
しばらくは森の中をさまよっていた。どれだけ時間が経ったかは分からない。
ある時、私は斜面に気付かず足を取られ、転げ落ちた。幸いそれほど落差はなく、怪我もしていなかったが周りを数名の剣や槍を持った者に囲まれていた。よく目を凝らすと着ている鎧や布地の紋章から同じ部隊の奴だと分かった。
それから仲間と話し合った。どの道を通って森を脱出するのか、どこに今回のことを報告しようかとかそんな話だ。だがその話し合い自体がごまかしだった。私も含め、みな先ほどあった恐ろしい光景を忘れたくて、必死に別の話題を振っていた。
そうして過ごしていると一人の兵士が「女の声がしないか?」とみなに聞いた。私は首を横に振った。他の者も同じく否定した。その兵士は素早く周りを見渡して「いや、確かにしたんだ!」と怒号を飛ばした。
隣にいたもう一人がなだめたが、その兵士は怒り出した。そして腰の剣を抜き「お前、あの女の密偵だろう!」と叫んで隣にいた奴を斬り殺した。私もみんなも慌てて武器を手に取った。
その時、初めて私にも”女の声”が聞こえた。それはみなに囁きかけていた。「裏切り者がいる」「あの男はお前の嫁と寝取ったぞ」「奴は財産目当てでお前を殺す」「全員敵だ、殺せ!」そんな言葉が頭の中に鳴り響いた。
それから私は怒りと不信感と恐怖に駆られて、剣を振るった。先ほどまで協力しあっていた仲間と殺し合った。それが正しいと思った。
気が付いた時には夜だった。私は地べたに座り、その前には焚き火があった。その光が周りにある仲間の死体と血まみれの私自身を照らしていた。そして私の隣にはあの女がいた。
私は女に顔を向けた。あの女は微笑みながら私の頬を撫で、その琥珀色の目が不気味に光ると「おめでとう、虐殺者さん。結構やるじゃない。でもここからが大変よ。頑張って耐えてね」と言った。
私は目の前が真っ暗になった。
意識を取り戻した時、私は近隣の駐屯地の医務室で横になっていた。なんでも近くを通った巡回部隊が見つけたそうだ。私は体験した出来事を軍に報告したがまともに取り合ってもらえなかった。
別の部隊があの場所を捜索したが、村どころかアドレ隊長や他のみんなの死体さえも発見できなかったという。私が魔法だ呪いだと主張しても、蛮地にいるような下等な者にはそんなものは扱えないと一蹴された。
疑いの目は私に向けられた。必死に主張したが、恐らくその様子が気味悪がられたのだろう。私は容疑者からただの気狂いに分類された。絶望的なほどに何も信じてもらえないと理解した私は軍を辞めた。
それ以降、私は至るところであの触手と女を目にする。ドアの向こう側、裏路地、鏡の中、飲み物を入れたコップや食べ物を盛り付けた皿の上にも、あの触手と女が這いずり回る。もちろん全て幻覚なのは分かっている。
先程も言ったように私は由来も分からない怪しい薬を買い漁り、次々と試した。私は一時的な忘却を、何も知らない幸せをもたらしてくれるあの薬たちの奴隷になった。
薬が切れると考えてしまうのだ。あの狂女のことを、触手のことを、死んでいったみんなのことを。いっそのこと私が本当に気狂いであるほうがマシだ。あの森での出来事は体験しておらず、自身で作り出した妄想でしかないならどれだけ幸せだろうか。でもふとした瞬間にあの光景が眼前に広がるのだ。あの女が側にいることをいつも感じてしまう。ありもしないことを語ってくる。夢に出てくる。隙間から私を覗いてくる。今も私を見ているに違いない。
扉を叩く音がする。何回も何回も何回も何回も何回も。あの触手のうねる音が私に侵入してくる。囁きが、声が。
そろそろ終わらせてしまおう。
短剣はどこだ
窓に何かいる まどに まどに